日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ガーナー(Erroll Garner)
がーなー
Erroll Garner
(1921―1977)
アメリカのジャズ・ピアノ奏者。ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれ、父がピアニストで、兄妹いずれもピアノ・レッスンを受けるという家庭環境のため、早くも3歳からピアノを弾き始めるが、彼だけは音楽の専門教育を受けていない。特に教えられなくても自在に演奏ができたところから「楽譜の読めないピアニスト」として有名。
16歳のときプロとなりローカル・ミュージシャンのサイドマン、歌手の伴奏者などを経験した後、交際相手の女性歌手を追って1944年にニューヨークに進出する。はじめハーレム地区のクラブに出演していたが、後にジャズの中心地52丁目のクラブ「トンデレイヨー」で注目され、ジャズ史上最高のテクニシャンといわれたピアニスト、アート・テータムの後がまとしてクラブ「スリー・デューセズ」に登場するに至って人気は爆発的となる。当時のジャズ雑誌『メトロノーム』Metronomeで、「ドビュッシー、ラベルを混ぜ合わせたガーナーのスタイルは独創的で、今年の52丁目の最大の話題」と絶賛される。44年から45年にかけ、テータムのベース奏者だったスラム・スチュアートSlam Stewart(1914―87)のバンドに参加したが、それ以降はソロ・ピアニストとして、あるいは自分のピアノ・トリオを率いて活動する。
ガーナーのスタイルは当時の先端をいくビ・バップとは少し趣(おもむき)を異にしていたが、47年ビ・バップの開祖、アルト・サックスのチャーリー・パーカーのサイドマンとして、有名な「ダイアル・セッション」のピアニストを務めたこともある。49年パリで開かれた国際ジャズ・フェスティバルに参加。57年再度パリを訪れ、フランス芸術アカデミー昼食会の席上、ダリウス・ミヨーよりディスク大賞を授与される。58年、このときの印象を『パリの印象』としてアルバム化する。興味深いのは作品中ハープシコードを演奏していることだ。
72年(昭和47)には来日公演も行っているが、たまたまジャズ・シーンが大きく変化している時期だったため、オーソドックスなスタイルを貫くガーナーの日本での人気はかんばしくなかった。そのほかの代表作には55年のライブ盤『コンサート・バイ・ザ・シー』、同年の、彼の作曲した名曲「ミスティ」が収録されている『ミスティ』がある。
ガーナーはジャズ・ピアノの歴史では珍しく、明確な先達の影響が見られない。特にビ・バップが一番勢いをもった時期にニューヨークにいながら、ビ・バップ・ピアノの開祖といわれたバド・パウエルの影響をまったく受けていないのは稀有(けう)なことだ。ジャズ・ピアノ・スタイルの時代区分でいえば、ビ・バップ以前のスウィング、ストライド・ピアノに属する。彼の音楽に対する形容に必ず出てくるのが「ワン・アンド・オンリー」といういい方である。すなわち誰の影響も受けていない独自のスタイルにより、右手と左手のタイミングを微妙にずらし「ビハインド・ザ・ビート」と呼ばれる独特のドライブ感を際立たせている。右手のラインが強調されるビ・バップ・ピアノに比べ、両手が充分活用されピアノ本来の機能が発揮されたリズミカルで陽気なスタイルを持つ。これは彼が左利きであったこととかかわりがあるともいわれている。
[後藤雅洋]