翻訳|Paris
フランスの首都。同国北部、パリ盆地の中央部に位置し、セーヌ川が市内を貫流する。人口市域212万5246、首都圏964万4507(1999)、市域220万6488、首都圏1070万6072(2015センサス)。欧州諸国のうちでも統一の早かったこの国のあらゆる面における中心都市として発展し、現在なお政治、経済、工業そして文化、科学、芸術などすべての部門における活動は他国に例のみられないほどパリに集中しており、世界の大都会のなかでもっとも典型的な意味における「首都」である。その歴史の各時期を通じて変わることなく続いたこの特性は、現在の都市構成および市民生活一般のうちにも明らかに反映しており、パリの魅力もここにある。市街を弧状に貫流してその景観に深い情緒を添えているセーヌ川は、その水運を通じてパリの発生と発展の原動力となったが、現在なおこの役目を果たしながら(パリ河港の年間荷扱量2130万トン、1994)、一方では息詰まりがちな大都会の住人のために憩いの空間を提供している。
[日高達太郎]
パリは北緯48度50分、東経2度20分に位置し、ほぼ六角形の国土の中心からは約200キロメートルも北に偏っている。しかし、セーヌ川およびパリ付近でこれに合流する諸支流の存在が、肥沃(ひよく)なパリ盆地をもたらし、河川を連絡路として盆地を支配できるという好条件をパリに与えた。これによりパリは古くから他市を排して首都となることができた。市街中心部セーヌ河畔の標高は26メートルにすぎないが、周囲には100メートル前後の丘が五つある。パリ盆地の南北方向の主要連絡路は、モンマルトルとショーモンの丘の間の「峠」を通過し、セーヌ川の中の島シテ島を飛び石としてこの谷を渡り、南側ではサント・ジュヌビエーブの丘とモンパルナスの間のビエーブルの谷をさかのぼって広い台地の上に出るものであった。
オアーズ川、マルヌ川などのセーヌ支流は東方および北方の両地域との連絡路となった。この天然の十字路ともいうべき立地が、パリの経済的発展と政治的影響力の全国浸透に大きな役割を果たす。周囲の丘は、石材、漆食(しっくい)など建築材料を提供して都市建設に役だった。
気候条件も、北緯50度に近いにもかかわらず、西に向かって開いている盆地内にあって大西洋とイギリス海峡からの影響を受けるおかげでけっして厳しいものではない。平均気温は1月の3.4℃、7月の19.1℃、年降水量は641ミリメートル、降雨日数171日。とくに春に天候が不安定になる海洋性の温帯気候に属している。
[日高達太郎]
19世紀なかばのパリ市街は、現在の第1区から第10区までに相当する中心部、約25平方キロメートルにすぎなかった。ついでその外側に第11区から第20区までの手工業を主とする地区が発展、産業革命とともに、工業地帯が輸送に便利なセーヌ下流に向かって延びる一方、鉄道に沿って放射状に広がった。他方、19世紀なかばにはパリ周辺地区の森林を切り開く宅地造成により、小さな庭をもった郊外個人住宅地が現れ、第一次世界大戦後は大規模な宅地造成が耕作地にも及ぶ。第二次世界大戦を機に、トラックによる貨物輸送の発展、自家用自動車の普及などにより、工場、新都市の建設地選択はかなり自由となり、近郊に残っていた緑地の一部も都市化された。かくしてパリを中心とする都市圏の広がりは、約1世紀の間に、「小冠」Petite Couronne(または都市域冠Couronne Urbaine)に属するセーヌ・サン・ドニ、バル・ド・マルヌ、オー・ド・セーヌ3県と「大冠」Grande Couronne(または副都市域冠Couronne Suburbaine)に属するバル・ドアーズ、セーヌ・エ・マルヌ、イブリーヌ、エソンヌ4県を擁するイル・ド・フランス全域(面積1万2012平方キロメートル)におよび、人口は200万強から約1000万に膨張した。全国土の2%にあたる土地にフランス全人口の18.5%が集中していることになる。この約1世紀間の人口増加は、郊外地区では約15倍であるのに対し、パリ市域では約50%増にすぎない。
行政上のパリ市(20区内)は、現在も1840年の城壁跡の環状大通りの内側にとどまっている。その広がりは東西12キロメートル、南北9キロメートル、これに西側のブローニュの森846ヘクタールと東側のバンセンヌの森995ヘクタールが加わり、面積は約105平方キロメートル、大国の首都としては小さい都市である。この小さなパリ市は政府所在地として特別市を形成し、同時にパリ県をもなし、市長を議長とする市議会が県行政も行っているが、近年はしだいに一般の市の行政形態に近づく傾向がある。
いわゆる「花の都パリ」として世界に知られる中心部は、16、17世紀の国王による首都建設を基盤としている。しかし現在の姿は、まず19世紀中葉のオスマン知事による大胆な都市計画に始まって20世紀初頭まで、老朽家屋の密集地区の取り壊しとその住民の市域外縁への移転、大通りの貫通など、多くの改新、建設工事による近代化の結果である。パリの歴史的建築物の大部分は、第1区から第6区までを構成するこの核心部に集中しており、都市機能もセーヌ右岸の商業・金融・手工業地域と、左岸の教育・文化地域に分かれているなど、中世以来の伝統を反映している。この西側に、エトアール凱旋門(がいせんもん)を中心に発する12本の大通りを骨格としたいわばブルジョア地区があり、なかでもブローニュの森に接する第16区は高級住宅地として発展した。東側と南北両側には中級以下の住宅、小工場、倉庫などが多く、近年に至って老朽、非衛生的地区を対象とした大刷新工事が行われ、メーヌ・モンパルナス地区、第15区セーヌ左岸地区など、パリとしては異様ともいえる高層建築物が出現した所も少なくない。
[日高達太郎]
水道は、飲用水道延長1750キロメートル、非飲用水道1610キロメートル、有名な下水道2200キロメートルを備える。道路は5959本、その延長は1901キロメートル。ほかに、セーヌ河岸自動車専用道路15キロメートル余、市域を完全に取り巻く高速道路35キロメートルなどがあるが、市内自動車交通と公害の増大に直面している。うち331キロメートルの歩道上には計10万本の並木、7032のベンチ、市域総面積の25%にあたる2214ヘクタールに達する各種公園緑地を確保している。
公共交通機関の重要性が増大している今日、パリ市交通公団地下鉄(通称メトロ)は15路線、延長202キロメートル、週日には1日当り456万人を輸送している。同公団バスは、55路線の網目を張り、延長510キロメートルを連絡、年間3億3200万人余の足となっている。さらに、バス専用レーンも通れる1万4900台のタクシー(個人営業8600台)が、468の専用駐車場に分散して、1日平均33万回利用されている(以上の数値はほとんど1994年または1995年)。
市内に通う郊外居住者のためには、高速道路による連絡に続いて、郊外電車と地下鉄を結び付けたRER(首都圏急行網)も発展、週日には1日当り140万人、1日当り平均11キロメートルに及ぶ移動を受けもっている。中央集権の強化にも役だったパリ中心の全国鉄道網とは、方角により六つのターミナル駅で結ばれ、列車本数は1日平均628、年間乗客数は計8820万人に達する。これら六つの共用駅のほか三つの専用駅をもち、パリを中心に50キロメートル圏内を結ぶ郊外線(28路線、延長1285キロメートル)が通じている。その列車本数は日に5100、年間利用者数は5億4000万余人である(以上1994年の数値)。
国内諸地方はもとよりヨーロッパ諸国とは、20本の幹線国道と東西南北に向かう4本の高速道路によって結ばれる。南の高速道路はコート・ダジュールへ観光客を導くのみならず、首都の胃袋が必要とする南フランスの生鮮食料の大部分を輸送している。パリ向け食料品全体の60%は、各地方からのトラック輸送によっている。北と東の高速道路はベルギー、ドイツから輸入される工業製品のルートである。空路では、市街中心から北東25キロメートルにロアシー(シャルル・ドゴール)、南約15キロメートルにオルリーの2国際空港がある。シャルル・ドゴール空港は年間に旅客4344万人、貨物98万トンを扱う(1999)。ほかに自家用機、試験飛行用の小空港も首都圏内にいくつかある。
[日高達太郎]
中世以来の伝統的「パリ製品」として宝石細工、貴金属細工、楽器、高級家具、香水、高級衣装などがあるほか、精密器具、出版物、音楽産業、映画などが広く知られている。これらの産業は、パリの商業、文芸活動、観光など、いわばパリ的人間活動に密接に結び付いているだけに、古くから市内あるいはその外縁近くに集中していた。現在なおマレ地区、タンプル地区の貴金属細工、サンタントアーヌ地区の調度品、左岸ラテン区(カルチエ・ラタン)の出版など、典型的な例も残っている。一方、首都圏全体は同国経済活動人口の25%を擁する最大かつ多様な工業地域を形成している。これも自然立地のほか、人口、資本の集中、行政機能など、中央集権国家の首都としての特恵的諸条件によるところが大きい。
パリ工業地帯発展の原動力としては、18世紀以来の研究と資本とを生かした化学工業、19世紀中葉以後のパリを起点とする鉄道建設、鉄骨建築の発展などに伴う鉄工業などがあり、さらに20世紀初頭以来の電気、自動車、航空機など、時代の先端を行く諸工業がこれに加わっている。
パリ市内では小工場がしだいに住宅あるいは事務所に転換され、「非工業化」が緩慢に行われている一方、現在も東と北側の遠郊工業地帯の建設が進んでいる。これらの工業地帯は、石塀と煙突に工員住宅という伝統的なものとは異なり、芝生と広い駐車場に囲まれた機能的で明るい工場が並んでおり、従業員は多少とも離れた静かな環境のうちに住んでいる。これら工業地帯の立地も景観も、技術、運輸手段、通信網の発展、生活水準の向上など、社会条件の変革の反映である。
第三次産業部門においても、パリは全国最大の産業都市である。政府と公共機関は、首都圏活動人口の20%を吸収している。また、ユネスコ本部をはじめ400を超える国際機関の存在は国際都市の名にふさわしい。通信・報道、出版、演劇、芸術、観光などの諸部門が発展しているし、さらには銀行、保険会社の本社、大企業の本部と研究部門の存在などが第三次産業を支えている。
[日高達太郎]
フランスの知的活動と文化財もパリに集中している。パリ第一~第十三大学までのパリ大学と4大学校(理工科大学〈エコール・ポリテクニク〉、高等師範学校〈エコール・ノルマル・シュペリュール〉、国立行政学校〈エコール・ナショナル・ダドミニストラシオン〉、工業専門学校〈エコール・サントラル〉)には計約30万に及ぶ学生が通い、その3分の1以上が地方あるいは外国出身である。主要な調査研究機関の大部分がパリ市内とその近郊にあり、市内には市立図書館64、博物館・美術館134、劇場141がある。
多くの観光客が訪れるパリには歴史的建造物が豊富である。その主要なものをあげれば以下のとおりである。ゴシック様式のノートル・ダム大聖堂(12~13世紀)は、パリ発祥の地シテ島に建ち、ルーブル宮殿(現、ルーブル美術館。16~19世紀)とともにパリの象徴的存在である。アンバリッド(廃兵院)は17世紀古典様式の完成例で、ルイ14世の命により建築された。ノートル・ダム大聖堂に近いセーヌ右岸に建つ市庁舎は、19世紀ルネサンス様式を模した宮殿建築。ネオ・バロック様式のオペラ座も同時期のものである。これらに対して、大革命100年記念の万国博で建てられたエッフェル塔(1889)や、モンマルトルの丘の頂上に白く輝くサクレ・クール大聖堂(1876~1919)などは、近代パリを象徴する建築物となっている。
[日高達太郎]
さまざまな歴史的建造物が建ち並ぶセーヌ川河岸は1991年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「パリのセーヌ河岸」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部]
パリ盆地には旧石器時代からの生活の跡が認められているが、都市としての直接の淵源(えんげん)は、紀元前3世紀ころケルト系のパリシイ人Parisiiが後のシテ島を中心に住み着いたことにある。パリの名もそれに由来する。初め漁労生活を営んでいた彼らは、じきにセーヌ川を使って商業活動にも入った。この地はローマ人によってルテチアLutetiaとよばれ、前50年代のカエサルによるガリア征服とともにローマ帝国支配下に置かれる。紀元後3世紀にかけて、おもにセーヌ川左岸を中心に発展したローマ都市ルテチアには、すでに水上商人組合がつくられていた。現在でも、円形闘技場跡や、クリュニー修道院(現、クリュニー美術館)内の浴場跡に、当時のおもかげが残されている。聖ドニSaint Denisが初代司教として布教し、殉教の逸話を残したのも3世紀なかばであった。
4世紀になるとゲルマン人、とりわけフランク人の侵入が激しくなり、その対応のためにローマから派遣されたユリアヌスはこの地に居を定め、360年に皇帝に推挙された。シテ島を中心に集住化が進み、5世紀初めには最初の市壁がつくられたが、ローマの支配は実質上終わりを告げてゆく。5世紀なかばにはアッティラの率いるフン人の襲来を受け、パリはふたたび脅威にさらされるが、その攻撃を退けた聖女ジュヌビエーブは、その後パリの守護聖人として崇(あが)められることになる。
6世紀初めからクロービスによってメロビング朝の首都とされ、商業を中心に左岸のみでなく右岸にも町が広がり、修道院の建立などもみて宗教的にも重要になっていった。有名なサン・ジェルマン・デ・プレ修道院もこの時代に起源をもつ。だがメロビング朝末期からカロリング朝時代には政治の中心から外され、カール大帝はアーヘン(現、ドイツ)を首都とした。そして9世紀後半にノルマン人、いわゆるバイキングがセーヌ河口からさかのぼって襲来し、ガリア・ローマ時代からの都市周辺部は壊滅的な打撃を被る。
[福井憲彦]
最終的にノルマン人の攻撃を退けることができたパリは、その声望を高めた。888年パリ伯ユードEudes(852?―898)がフランク国王となり、その子孫ユーグ・カペーが987年にカペー朝を始めるころには、王国の中心としての位置は揺るぎないものになりつつあった。
12世紀前半、カペー朝のルイ6世Louis Ⅵ(1081―1137)のころから、周辺の農業生産の発展を背景に経済的にも飛躍を示す。右岸にある現在の市庁舎前広場に発展しだした市場は、のちに「パリの胃袋」とよばれることになるレ・アル(中央市場)の場所に移され、フィリップ2世のもとで13世紀初めには本格的に取引の中心になった。イングランド王と争ってフランス王国の領土を拡張、封建諸侯を抑えて国王の権勢を強め、尊厳なる王(オーギュスト)とよばれたフィリップ2世は、パリの周囲を市壁で固め、街路に舗石(ほせき)を敷き、セーヌ川には橋を架けさせた。中世の橋は木造で、橋上には家屋がしつらえられており、ときには火災で焼失もしたが、シテ島を中央に左右両岸が連結して発展の途につく。彼はまたシテ島の王宮と並んで右岸にルーブル宮を建て、商人ギルドに特権を付与して経済の活性化を図った。左岸では、サント・ジュヌビエーブの丘にかけてパリ大学の基礎が築かれ、やがて中世末にはスコラ学の総本山として諸国から学者をひきつけることになる。知的・文化的中心としてのいわゆるカルチエ・ラタンの成立である。すでに12世紀なかばから、パリ司教座教会としてノートル・ダム大聖堂の建築が始まっており、ゴシック建築の偉容が宗教的中心の地位を象徴することになる。
こうして中世都市としての姿を整えていったパリには、13世紀の聖王ルイ9世のもとで高等法院と会計院が置かれ、さらに商業の発展と相まって人口も10万を超えたといわれる。力を蓄えた商人たちは都市としての自治権を王から認められ、プレボとよばれる代表を市長として選任するようになる。1302年、教皇と対立していた国王フィリップ4世は、僧侶(そうりょ)・貴族と並んで市民代表にも支援を求め、最初の三部会をパリに開いた。これは市民の財力の強さを意味するが、またこれ以後パリは国王の重税に苦しむことにもなる。中世末の百年戦争に伴う周辺農村の荒廃、食料不足と物価高騰、重税といった経済的困難に、ペスト流行による大量死の恐怖が加わった。
政治の改革を求めたパリは市長のE・マルセルの指揮下に1358年、大規模な反乱を起こすが、賢明なる王と称されたシャルル5世がこれを鎮圧し、いったん平穏が戻る。彼は右岸の市壁を広げて商工業の発展への対応を用意し、シテ島の王宮には秩序と革新の象徴ともいえる時計塔をつくらせた。
しかしシャルル5世死後また混迷が訪れ、14世紀初めに20万といわれた人口は、同世紀末には半減していた。しかもアルマニャック派とブルゴーニュ派に分裂して全国で争っていた貴族のうち、15世紀初めに一時パリはイギリス軍と通じるブルゴーニュ派に支配されて荒廃と混迷を極め、市内にすらオオカミが出没するほどだったといわれている。
[福井憲彦]
王権強化に腐心したフランソア1世は、1528年パリに本拠を定めた。市内にはルネサンス様式の建物が新築され、人文主義の風がパリにも及ぶ。G・ビュデを指導者として1530年、王立教授団が設置され、いまに続くコレージュ・ド・フランスの前身となり、商業も繁栄して人口はまた増加した。しかし同時に下層民も多く流入し、狭い路地が入り組む街区には、フランソア・ビヨンが詩に歌ったような怪しげな別世界が首都の下層に張り付く。これ以後パリにとって、堆積(たいせき)する下層民の問題は深刻なものであり続ける。
16世紀末の約30年間、宗教戦争はまたしても首都を混乱に陥れ、カトリック勢力の支配下に、1572年にはサン・バルテルミーの虐殺が起こった。この宗教対立を収拾したアンリ4世統治下から、近代都市への整備と脱皮が徐々に進みだす。現在も美しい姿をみせるボージュ広場(当時はロアイヤル広場)やドフィーヌ広場は、その産物である。彼は工事中のポン・ヌフ(新橋)を完成させ、歩道を設け、道路管理や塵芥(じんかい)処理、さらに都市生活の命綱である上水道のための政策にも力を入れた。1648年のフロンドの乱でまたしてもパリは王権と衝突するが、その前のルイ13世時代には宰相リシュリューの下で、そして17世紀後半からのルイ14世治下にも、区画整理や再開発は続行し、貴族など上流階層の住む西寄りの街区がとくに整備されていった。ルイ14世自身は反抗的なパリを好まず、1677年にはベルサイユに移り、1682年にそこを政府本拠としたが、パリは商業はもとより、宗教や文化・文芸の都として全ヨーロッパに名が響く。約50万の人口を抱える都市への物資受け入れ口であるセーヌ河港は、大いににぎわった。
啓蒙(けいもう)主義のサロンに哲学者や文人たちが集まった18世紀に、町はさらに西に広がり、現在のコンコルド広場やシャンゼリゼ大通りの原型もこの時代につくられた。膨張した都市の機能をよくするための区画整理、街頭照明、保健衛生などへの配慮が強まり、警察機構もヨーロッパ諸国のモデルにされた。
しかしこうした都市整備の試みも、流入する人口の多さや問題の山積に追い付かず、公衆衛生や貧民問題は解決されないまま、旧体制(アンシャン・レジーム)の全般的危機はフランス革命を惹起(じゃっき)した。
[福井憲彦]
1789年バスチーユ襲撃に始まり、パリ市民とサン・キュロットが活躍した大革命下に、パリはふたたび首都になった。革命直前に約65万から70万と推定される人口は、やがて1846年に約105万、周辺町村合併後の1861年に約170万、1901年には270万余と急増する。その増加は大部分が労働階層であったが、都市整備は人口急増に追い付かず、西の裕福なブルジョア地区と、北や東に多い下層労働者地区の落差は大きかった。とくに19世紀前半に労働階層は「危険な階層」として支配階層に恐れられ、実際1830年代からは労働運動や社会主義運動の中心にもなり始めた。19世紀のパリは、1830年の七月革命、1848年の二月革命と六月事件、1871年のパリ・コミューンをはじめ、フランス全体の政治やヨーロッパ全体をも震撼(しんかん)させる社会運動に揺れる激動の首都となる。
パリが現在のもとになる姿をとるのは、第二帝政下に開始された「オスマン化」とよばれる都市改造からである。周辺町村を合併して現在の面積になり、全体を20の行政区に、各区を4カルチエ(区)に分ける制度も1860年からである。帝政の強権下に幅の広い大通りが旧街区を貫き、入り組んだ路地や古い建物が中心部から一掃されて第二帝政様式といわれる建物が新築され、ユゴーの『レ・ミゼラブル』で有名な下水道の整備も本格化する。一時コミューン蜂起(ほうき)で中断されるが、第三共和政下にも改造は続行され、基本的に現代の姿をとったパリは、19世紀末にはエッフェル塔や地下鉄など鉄と電気に示される工業文明によって、その変化を加速する。1905年からは乗合自動車(バス)も登場した。この産業化開始の時期には、革命的サンジカリズムとして高揚した労働運動の中心地ともなった。
20世紀に入って首都圏として発展し始めたパリは、二度の世界大戦や人民戦線、1968年「五月革命」などのできごとで政治の檜(ひのき)舞台であり続けたばかりではなく、シュルレアリスムで有名なように世界各地から前衛的芸術家を集め、文学者をひきつける芸術の都でもあった。世界各地への多極化の動きは明確であるが、いまでもパリはファッションの中心であり、また学問研究や現代思想の新しい動きの震源地であり続けている。
[福井憲彦]
『日高達太郎著『素顔のパリ――Paris sans ford』(1973・座右宝刊行会)』▽『E・H・アッカークネヒト著、館野之男訳『パリ病院――1794~1848』(1978・思索社)』▽『喜安朗著『パリの聖月曜日――19世紀都市騒乱の舞台裏』(1982・平凡社)』▽『H・サールマン著、小沢明訳『パリ大改造――オースマンの業績』(1983・井上書院・The Cities = New Illustrated Series)』▽『堀井敏夫著『パリ史の裏通り』(1984・白水社)』▽『ミシェル・ダンセル著、蔵持不三也編訳『図説 パリ歴史物語+パリ歴史小事典 上』(1991・原書房)』▽『地図資料編纂会編『革命期19世紀――パリ市街地図集成』(1995・柏書房)』▽『高橋伸夫・手塚章、ジャン・ロベール・ピット編『パリ大都市圏――その構造変容』(1998・東洋書林)』▽『今橋映子著『パリ・貧困と街路の詩学――1930年代外国人芸術家たち』(1998・都市出版)』▽『ポール・ロレンツ監修、F・クライン・ルブール著、北沢真木訳『パリ職業づくし――中世から近代までの庶民生活誌』新装版(1998・論創社)』▽『鹿島茂著『職業別 パリ風俗』(1999・白水社)』▽『ジャン・ロベール・ピット編、木村尚三郎監訳『パリ歴史地図』(2000・東京書籍)』▽『アルフレッド・フィエロ著、鹿島茂監訳『パリ歴史事典』(2000・白水社)』▽『ピエール・ラヴダン著、土居義岳訳『パリ都市計画の歴史』(2002・中央公論美術出版)』▽『シモーヌ・ルー著、杉崎泰一郎監修、吉田春美訳『中世パリの生活史』(2004・原書房)』▽『M・ラヴァル著、小林善彦・山路昭訳『パリの歴史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『イヴァン・コンボー著、小林茂訳『パリの歴史』新版(白水社・文庫クセジュ)』▽『R・ドゥ・ベルヴァル著、矢島翠編訳『パリ1930年代』(岩波新書)』▽『玉村豊男著『パリ 旅の雑学ノート』(新潮文庫)』▽『アンドレ・ヴァルノ著、北沢真木訳『パリ風俗史』(講談社学術文庫)』
フランスの首都。行政上は1市1県で,面積105km2,人口216万(1999)。フランス北部,イギリス海峡に注ぐセーヌ川の河口から直線距離で約170km,イル・ド・フランス地方のパリ盆地の中央,セーヌ川とマルヌ川の合流点の西に広がる。パリ盆地は東西400km,南北350kmで,セーヌ川とその支流が蛇行しながら流れ,古くから水上交通路として利用されてきた。年平均気温は10.9℃,最寒月の1月の平均気温は3.1℃,最暖月の7月は19.0℃である。冬から春にかけて北東風,夏から秋にかけて南西風が卓越する。市街地はセーヌ川流域の南北に広がり,北を右岸(リーブ・ドロアト),南を左岸(リーブ・ゴーシュ)と呼ぶ。市の南北周辺はゆるい丘陵地となり,ビュット・ショーモン,ビュット・モンマルトル,ビュット・シャイヨー,モン・パリ,モンパルナスなどの丘がある。
パリ市街は1859年まで1~12区の約15km2にすぎず,13~20区は郊外にあったが,現在はその全区域に加えて,パリ近郊3県のオー・ド・セーヌ,セーヌ・サン・ドニ,バル・ド・マルヌが,完全に市街地化して連なっている。近郊は幅約10kmの内帯をなし,面積355km2,人口293万(1982)を擁して,パリと一体化している。これを囲んだ郊外は,幅35kmの外帯をなし,バル・ドアーズ,イブリーヌ,エッソンヌ,セーヌ・エ・マルヌ県にはみ出して,面積540km2,人口206万(1982)を擁している。以上にパリ市の217.6万(1982)を加えると人口717万,面積1000km2になる。パリ市はその中心部にすぎず,郊外を含めたパリ大都市圏の住民全体がパリジャンと呼ばれている。これら諸県全体が〈イル・ド・フランス地域〉を形成し,パリ県知事が地域知事となって地域計画を進めている。ただしパリ市長は市民から選出され,県知事は政府が任命するため,二重行政のかたちをとっている。
パリ市の人口は1931年を頂点として減少し始め,都市成長は周辺部に移ってきた。しかし,それでも人口密度は東京よりはるかに高く,9区のロシュ・シュアール地区では5万人/km2を数え,ブーローニュとバンセンヌの森を除いて平均2.5万人/km2である。市内,近郊は地域別機能分化,住分けが進み,郊外の高級住宅地,ル・ベジネではわずか3000人/km2である。
市内では,セーヌ川右岸の中心部1,2区から西側の8,9区にかけて銀行,保険会社やさまざまな大企業の中枢管理機能が集中し,一部は西郊のデファンス,左岸のモンパルナスにみられる。パリで最も交通が混雑する部分はサン・ラザール駅,コンコルド広場,シャンゼリゼ大通りを結んだ三角形のパリ核心部である。左岸5,6区のカルティエ・ラタンは文教地区,7区は政府・官庁地区で第2の核心をなしている。政治,外交,経済,文化に関連する重要な諸施設が集中し,外国人観光客を含む多くの人々がここを訪れる。これらの人々を対象とする高級服飾店やデパート,画廊,宝石商などの集まる通りが右岸に,本屋,宗教用品などの専門店街や出版社が左岸にみられる。この核心部に通勤する幹部職員の多い高級住宅街は,16,17区とその南西側のオー・ド・セーヌ県に広がり,またバンセンヌなどの公園周辺やマルヌ川などに臨む環境に恵まれた地に飛地状に広がっている。
パリ市の東半分,3,4,11,12,19,20区などでは,縫製,印刷,木工や〈パリ製〉と銘打った雑貨の製造,卸小売が行われ,零細な町工場が労働者住宅と混在し,一部ではサンタントアーヌ通りの家具街,タンプル地区の衣類・服飾品卸街,パラディ通りのガラス・陶器街などの特化した専門店街を形成している。この地域は外国人観光客はほとんど訪れないが,外国人労働者の流入が多い。東側各区や北東のオベルビリエ,北部のサン・ドニなど周辺には北アフリカの人が多く,13区の南東部には中国人・ベトナム人街が形成されつつある。その他外国人の集住地区は,マレ地区のユダヤ人街,パッシーのスペイン人街,モンパルナスのロシア人街などがあげられるが,これらは東側各街区の下町に比べて,労働者階層が少ない。パリ市の20区だけをとれば,19万5000人が外国人で,郊外を含むパリ地域の移民人口は100万人(人口の18%)に達する(1990)。
このほか,工業地帯が近郊の内帯に拡大しており,労働者が多く左翼の有力な地盤であるため〈赤い帯〉とも呼ばれ,保守派がシャンゼリゼで行進すれば,左派はバスティーユや北郊のサン・ドニに集まるのも地盤の関係である。また7月14日の革命記念日には,市の西側の住民はバカンスに出かけて残っている者は少ないが,東側には住民が多く残っており,たとえば12区のアリグル広場は住民たちでにぎわいをみせ,庶民的な親しさを感じさせる。外帯の郊外に向かって南東のセーヌ上流や北のサン・ドニ方向には化学工業や食品加工業などが発展し,ブーローニュ・ビヤンクールから北西のセーヌ下流方向には自動車をはじめ各種の機械工業が広がり,パリ港,火力発電所や石油精製工場などが広い敷地を占めている。これら多様な工業活動も,1955年以来とられている工業の地方分散政策によってパリでの工場新設・拡大を禁じられたこと,第3次産業の発展に伴う事務所街の発展によって地価が上昇していることなどから,郊外の外帯や地方に転出する工場が増大している。資力のある発展しつつある工業が市外に転出する一方,零細な町工場と建設・土木業関係の企業だけが市内に残るため,とくにパリ東部では職場を失う人,低賃金の職場に転職する人が多くなっている。それに伴ってパリ市内の人口は減少し,外帯の人口が増加している。他方,パリ西部では,第3次産業の発展による中産階級の通勤が遠距離化し,昼食に帰宅する伝統的な生活様式を維持できる人々が減少し,職員食堂が増加している。また近年は遠い郊外に住み,ウィークデーだけパリにいる人,いわばパリに〈別荘〉をもつ人も増加し,こういう〈別荘〉が市内で5万戸に達しており(1982),とくにシャンゼリゼ,サン・ジェルマン,モンマルトルに多い。
これらの都市問題を解決するため,パリ市内における事務所機能の拡大を抑制し,むしろ工業・手工業機能を確保し,再開発による住環境を整備する一方,近郊からの通勤を容易にするために地域高速鉄道網(RER)を完成させ,さらに工業団地,県庁など行政機関,大学,商業・各種サービスセンターを備えたニュータウンを建設して,パリへの昼間人口の集中を抑えようとしている。代表的なニュータウンは,パリから17kmのマルヌ・ラ・バレ,次いでサン・カンタン・アン・イブリーヌ,エブリ,セルジ,ポントアーズ,そして40km離れたムラン,セナールなどである。計画としては,増加する人口の3分の2,新築家屋の4分の1,事務所面積の3分の1,工場面積の3分の2をこれらニュータウンが引き受けるとしている。ニュータウンは,しばしば実験的・前衛的建築からなっており,パリ市内の古びた建物からは想像できない色彩と形状を備えている。実際,市内の建築の約80%が1948年以前に建設されたものであって,現代のフランスを理解するうえでも,ニュータウンを見のがすことはできない。
なお,空港は市の南14kmにあるオルリー空港と,北東25kmにあるシャルル・ド・ゴール空港がある。また,1994年開通のユーロトンネルにより,パリ~ロンドンは約3時間で結ばれることになった。
執筆者:田辺 裕
パリ盆地には,ローマ人のガリア征服により約2000年も前から定住者がいたと推定されるが,最初にセーヌ川の現在のシテ島に住みついたのは,ケルト系のパリシイ族Parisiiであった。彼らは,カエサルのガリア征服の半世紀ほど前には,工芸品ともいえるみごとな金貨を鋳造し,セーヌ川によって交易していたとされる。しかし侵入したローマ軍の圧力でパリシイ族はこの島を放棄し,以後ローマ人はこの地をルテティアLutetiaと称した。これから半世紀後にいたって,ローマ人はこの地に都市を築いた。東西,南北に伸びる街路,シテ島からセーヌ川左岸にかけての野外劇場,集会場,浴場,それに北方のランジスの台地の泉をこの都市に導入するための全長15kmの水道などが建設された。3世紀半ば,聖ドニらによってこの地にキリスト教がもたらされるが,この世紀末期のゲルマン人の移動で,フランク族,アラマン族が侵入し,ローマ人の都市は破壊された。ローマ人はシテ島に退いて城砦を築き,356年にユリアヌスを派遣して防衛にあたったが,かつての都市を再現するには至らなかった。
メロビング朝が成立し,クロービスがパリに宮殿を建てたことで,この地は小康を得,キリスト教が確固とした基盤を固めた。セーヌ川右岸に大小さまざまの修道院がつくられ,左岸にも後にサン・ジェルマン・デ・プレ修道院に発展する小修道院が建てられた。しかし次のカロリング朝はパリを重視せず,845年から886年までの間しばしばノルマン人の侵入を受けた。このノルマン人の攻撃に対してパリを防衛した指導的人物のパリ伯ウードは,888年にフランク国王になる。この子孫のユーグ・カペーが987年に聖俗貴族の集会で推挙されてカペー王朝が成立すると,パリは新しい発展の段階を迎える。
カペー朝のルイ6世(在位1108-37)の頃より,パリは国王の恒常的な居住地となった。農村共同体の出現によって農業生産は飛躍的に上昇するとともに,それを基盤として封建諸侯が出現し,国王は封建諸侯の推挙によってその頂点に立った。農村共同体の成立とともに,パリ周辺では修道院を中心に農地の開墾が盛んに行われ,パリを中心とする物資の流通も発展した。後にグレーブ広場となるセーヌ川右岸の河岸に市場が開かれたが,ルイ6世は1137年にこの市場を当時シャンポーと呼ばれた場所に移転させて規模を拡大し,さらにフィリップ2世(在位1180-1223)は,市外のサン・ラドル市場もそこに併せ,高い屋根の別棟を二つ建てた。これが1969年まで維持されたレ・アル(パリ中央市場)の起源である。このときレ・アルの周辺には,これまでシテ島内にあった肉屋や毛織物などの同職組合が移り,街路にそれぞれの業種の名を付した。またシテ島内にはM.シュリによってノートル・ダム大聖堂が建てられた。
フィリップ2世は1190年第3回十字軍に出発するに際し,パリに城壁を築くことを命じ,シテ島内の王宮のほかにセーヌ川右岸にルーブル宮を建てた。また市内の道路の舗装にも着手した。さらにこの時代にパリ大学の基礎が確立された。サント・ジュヌビエーブの丘の周辺(現,カルティエ・ラタン)に集まっていた司教学校や修道院学校の教授や学生が,フィリップ2世から特許状を得て,国王裁判権を免れた一つの社団を形成して,大学の自治を出現させたのがそれである。
こうして中世都市に発展したパリは,国王の任命するパリ奉行prévôt de Parisの裁判権と行政権の下に服していた。国王は初めのうちはパリ奉行を富裕な市民に請け負わせていたが,13世紀半ばより最高の国王役人を任命するようになった。ルイ9世(在位1226-70)治下にこの職に任命されたÉ.ボアローが,王命によって《同職組合の書》を著し,パリの同職ギルドの慣習の一覧を作成したことはよく知られている。パリの市民である手工業者や商人はそれぞれの業種の同職組合に依存して活動したが,こうした勢力を背景に,商人の代表がプレボ・デ・マルシャンprévôt des marchandsとなった。これはパリ奉行の支配下にありながら,商事裁判権を握り,商取引を規制するなどの自治権をもっていた。この自治の起源は,セーヌ川の舟運と商取引を独占していた水上商人組合が中心となって,1210年ころに有力な同職組合を連合させ,市場の統制・管理に乗り出したことにあった。こうした経緯からプレボ・デ・マルシャンの地位は水上商人組合の長が就任するものとみなされた。このいわばパリ市長ともいえる代表者のもとでの自治は,商取引の規制のほかに,市壁,道路舗装,河岸,港,下水,給水泉など市の公共施設の維持にも及んだとされる。
14世紀に入ると,フランスは領主制の危機,百年戦争,ジャックリーの乱に直面し,国家と社会の変動期を迎えるが,パリでは同職組合が質量ともにその力を増大させ,商人ブルジョアの経済力が高まり,土地を購入して地主化する富裕な市民も発生するようになる。人口はヨーロッパの都市のなかで最大の20万に達したといわれる。こうした背景のもとでプレボ・デ・マルシャンとなったÉ.マルセルは,1357年にパリで開かれた全国三部会を動かして,王権に対して国制改革を約束させたが,この〈大勅令〉が拒否されると翌年に反乱を起こした。しかし64年に即位したシャルル5世は,絶対王政に向かって中央集権化に努め,フランスに小康をもたらした。彼はセーヌ川右岸の商工業地域の拡大に対応した新たな城壁を築き,またバスティーユ城塞を建設してパリの反乱に備えた。しかし彼の死後,パリはマイヨタン一揆(1382)やカボシュー一揆(1413)を発生させ,一時はパリ奉行も廃止されるという事態も起こり,パリと王権の対立は深まった。加えて諸貴族はアルマニャック家とブルゴーニュ家の両陣営に分かれて全国で戦い,これに百年戦争がからんで混乱した政治状況が生まれた。経済的困難に加え,ペストの流行と戦争のなかで人口は1380年から1400年にかけて半減したとみられており,一地方都市になったかにみえたパリは,ようやくアラスの和約の後,1436年にシャルル7世をパリに迎え入れ,この王権の下での国家統一を支持するにいたり,手工業者や商人に対する王権の支配が強化された。
ここで中世末期の都市パリの景観をみておこう。パリの動脈はつねにセーヌ川であった。穀物やブドウ酒4~5樽を積んだ小舟が河岸の港に着き,パリ市民の生活を支えていた。シテ島を通ってセーヌの両岸に通じていた橋はまだ二つしかなく,上流のそれはノートル・ダム橋とそれに続くプチ・ポン,下流の橋はポントー・シャンジュ橋とそれに続くサン・ミシェル橋であった。これらのいずれの橋の上にも家屋が建てられていた。橋を渡る者には通行税が課せられていたが,学生だけは免除された。セーヌ川はしばしば洪水を起こしたが,1499年にはノートル・ダム橋が橋上の家もろとも流失した。翌年に再建工事が始まり,これまでの木造の橋に代わって六つのアーチに支えられた石橋が出現した。橋上の両側には26軒ずつ3階建ての家屋が建ち,その1階がアーケード付きの店舗となり,人々の目をみはらせた。当時の一般の家屋は木骨で,壁面にそれが露出した造りである。こうした造りの4~5階建ての家屋が街路に建ち並ぶという状態も一部に出現していた。
街路は,サン・マルタン通りやサン・ジャック通りで8~9mの幅をもっていたが,シテ島内はほとんど1~1.5mであった。パリ奉行の下には道路管理官が置かれ,路上の状態の取締りにあたっていた。窓から水を捨てる場合,住民は〈水に注意!〉と3度叫ぶことを義務づけられていたという。台所の塵芥を路上に捨てることは禁止され,各世帯は自宅前の路上の清掃に責任を負い,さらに自己負担で塵芥を市外に捨てに行かねばならなかった。そのため住民は共同で塵芥運搬用の車を借りたりしていた。
生活に必要な水はセーヌ川と井戸にたよっていた。セーヌの水を桶に汲んで市中を売り歩く水売りの姿は,13世紀にすでにみられる。また修道院が地下水路をつくってベルビルの台地の泉から水を市内に引き入れ,プレ・サン・ジェルベの村落の泉からは鉛の導管で水を引いていた。この水は特権階層が優先的に使用したため,13世紀に市内に三つの公共用の給水泉が初めて設けられたにもかかわらず,給水泉から水が出ないという状態だった。
16世紀にはいるとフランスはルネサンス文化の洗礼を受ける。フランソア1世(在位1515-47)は王権の強化に努める一方で,その宮廷に文人や美術家を招いたが,その一人G.ビュデは,1530年パリにコレージュ・ド・フランスの前身である王立教授団を設立し,ユマニストの拠点とした。しかし,この頃より宗教改革運動の波がパリにも及び,新教派ユグノーとカトリックの対立が激化し始めた。パリはソルボンヌとパリ高等法院を支えとしてカトリックの力が強く,宗教戦争の発生で王権が危機に陥る状態のなかで,パリの手工業者もカトリック側に加担していく。そして72年にはついにパリでサン・バルテルミの虐殺が発生した。バロア王朝断絶の後,新教派のアンリ4世が新王の宣言をすると,これにとりわけ反発したのがパリの旧教同盟で,市内16街区の代表が〈16人会〉を組織して,抗戦の体制をつくった。しかしアンリ4世は戦況を有利に展開しつつ,自らはカトリックに改宗して,ブルボン王権による国家統治の実現を目ざした。こうしてアンリ4世は94年パリに入城する。
このとき,アンリ4世は最初の布告のなかで,水の不足に悩むパリ市民のために給水泉の修復を命じ,併せてこれまで特権階層がもっていた取水の優先権を制限した。また給水泉の工事のためのブドウ税を新設した。こうして,アンリ4世は,宗教戦争で荒廃したパリに王権による支配を確立しようとする強い意志を示したのである。国王は新たな都市建設に努め,シテ島西端にドフィーヌ広場を,サンタントアーヌ街にロアイヤル広場(現,ボージュ広場)を設けた。またシテ島西端にすでに工事中だったポン・ヌフを完成させ,橋上にはこれまでのように家屋を建てさせず,歩道と欄干を備えさせた。さらにこの橋にパリで最初の水力ポンプ揚水場を建設し,セーヌ川の水をルーブル宮とチュイルリー庭園に導いた。この新しい橋といい,橋上の揚水場の堂々たる建物といい,ルーブル宮殿からの展望に偉観を加えるもので,パリ市民に新しい王権の力を誇示しようとするものであった。
一般庶民の生活に直結する道路の管理にも力が入れられた。1563年以来パリ16街区の各区に2人ずつの塵介掃除人が配置されていたが,アンリ4世は,家屋の窓から物を投げ捨てることを厳禁し,塵介は路上に備えた籠に集積するものとし,収集車を毎日巡回させて,市外の投棄場所に運搬することにした。
ルイ13世(在位1610-43)の下で宰相となったリシュリューは,絶対王権の確立に力を尽くした。パリの市街はさらに発展を遂げ,サン・ルイ島やフォーブール・サン・ジェルマン街が富裕階層の街区として出現したほか,新しい市街地のための区画整理が行われ,投機の対象ともなった。リシュリュー自身,後にパレ・ロアイヤルとなる自邸を建て,その周囲の街区の整備に力を入れ,新しい屋敷町を実現した。またリシュリューはソルボンヌを再建し,ルイ13世は新たにパリの城壁を築いた。
パリはこうした都市建設でうるおい,豊かになったブルジョア層のなかにはパリ周辺の土地を取得し,また官職を買い取って身分的上昇を遂げる者も出てきた。ロアイヤル広場の周辺にも,こうした富裕層が住みつくようになり,この広場やパレ・ロアイヤル界隈(かいわい)のにぎわいは,パリの伝統的手工業が生み出す奢侈品に販路を開くことになった。
5歳で即位したルイ14世の下で,リシュリューの後をうけて宰相となったマザランは,三十年戦争の戦費負担の問題で1648年にパリ高等法院を中心とする法官の反抗に遭い,次いでパリ民衆も重税に反対して反乱を起こした。このフロンドの乱でルイ14世は一時パリを離れたが,翌年パリで妥協が成立した。地方のフロンドの乱を平定したマザランが61年に死去すると,ルイ14世の親政が始まり,フランスは内外ともに安定する。ルイ14世は70年にパリの城壁の撤去を命じ,その跡を幅36mの並木道,いわゆるブールバールとして造成し,以後パリの住民の散策の場として発展することになる。
1702年市内は20街区に分けられたが,このうち15街区がセーヌ右岸にあった。人口はアンリ4世の時代からみると倍増して42万5000となっていた。そして富裕層が多く住む街区と民衆層が多く住む街区に分かれ,それぞれ異なった特色のあることがパリの地図の上に鮮明になってきた。リシュリューが形成したパレ・ロアイヤル界隈やフォーブール・サン・ジェルマン街,サントノレ街などが貴族や上層ブルジョアの住む街区として美しく飾られていく一方で,フォーブール・サンタントアーヌ街のような手工業者・民衆の街区がひらけていった。
このフォーブール(城外区)は,中世にサンタントアーヌ修道院を中心に形成されたが,17世紀になると王の特許状を得た家具職人が集まり住むようになった。18世紀初頭には家具商や材木商も住みついて,この街の特色ができあがった。さらにコルベールが創設した王立ガラス工場では,18世紀になると500人の労働者が働いていた。またフランス革命直前にレベイヨン事件で有名になる壁紙工場もここに立地していた。王権の産業育成策によって,フォーブールにはマニュファクチュア形態の工場も設けられた。セーヌ川左岸のサン・マルセルもこうしたフォーブールであり,ビエーブル川沿いの地区には,毛織物の仕上工場や皮革製造所が建ち並び,王立ゴブラン織工場もここに設置されている。
1661年,ルイ14世の親政が始まると,人口の増大に伴ってパリの行政と治安のための施策はいちだんと強化された。67年にルイ14世はパリ警視総監を置いたが,その権限はしだいに拡大し,70年の布告では,パリ市民の日常生活から宗教,科学,産業をも取り締まるものとされた。総監は多数の警視を擁し,独自の法廷を開き,国王の名において投獄,追放を命ずる封印状を発することができた。増大する浮浪者などのいわゆるマルジノー取締りが強化され,1657年にはオピタル・ジェネラルと称される強制収容所がパリにも設置された。そこには4万8000人といわれた浮浪者のうち1万人を収容したという。
また都市施設の管理にも力が入れられる。コルベールは1666年に,パリには22の給水泉しかなく,50~60は必要であると警察の会議で述べたが,71-72年にノートル・ダム橋の上に2台の水力ポンプ揚水場を設置して,市内に15の給水泉を出現させた。彼の死後の95年にもトゥールネル橋に同様の揚水場ができた。そして18世紀に入るとパリは50の給水泉をもつようになる。
17世紀には街灯が現れた。道路中央の柱や壁から出た腕木にろうそくのカンテラを下げたものだったが,18世紀になると灯油が使用されるようになった。1769年,街灯は会社の運営となり,そのときの総数は6000であった。街路名が四つ辻に掲げられるようになるのが1728年,一般の家屋に番地が付けられるのが79年,街路と街区はこのようにして管理されるようになる。
しかし18世紀の人口はさらに増大し,60万~70万と推定されている。新しい街区の建設も進んだが,老朽化した家屋,不完全な下水道や街路の状態など,パリの衛生状態が医学の問題としても取り上げられるようになった。こうした状態は庶民の生活に重くのしかかり,1770年に1000人の新生児の平均寿命は29歳,このうち1年以上を生きた3分の2についての平均寿命は40歳に達しなかった。
この当時の手工業の親方は3万~4万人とされ,職人はその2~3倍の数に達していた。そのほかに臨時の雑業に従う日傭いや人夫などの下層労働者,またプチ・メチエと称される路上の呼売りなどでその日を暮らす貧民がいた。労働人口の約半数はこうした下層労働者や貧民であった。都市の施設はこうした庶民の生活環境を改善するには不十分であった。基本的な生活用水の確保についてみても,18世紀には目だった前進はなかった。1778年から81年にかけて,ようやくセーヌ川右岸のシャイヨに蒸気ポンプの揚水場ができ,87年には左岸のグロ・カイユーに同様の揚水場が完成したが,これを経営した会社は破産してしまった。
それにもかかわらず18世紀のパリは〈啓蒙の都市〉と呼ばれることがある。確かにパリにはアカデミーや学会が多数できて活動し,科学者,哲学者,文人が集まってサロンでの議論に加わった。さまざまな協会やクラブが成立し,ダランベールらの《百科全書》をはじめ,出版活動が盛んとなり,日刊紙も出現した。18世紀末には,オデオン座やコメディ・フランセーズ座なども新たに劇場を完成させ,オペラ座の発展も見のがせない。このように進んだ文化が,自らの足もとであるパリの状況に無関心であったわけではない。たとえば《百科全書》に象徴される新しい知の体系のなかから,パリの病理を追究する公衆衛生学が出てくるのである。
19世紀に入ったパリは,1784~90年に築かれた〈徴税請負人の壁〉と称される市壁によって囲まれていた。この市壁には60ばかりの市門があり,そこで市内に入る生活必需品の入市税が徴収された。このため市壁に対するパリ民衆の評判は悪く,フランス革命の際にはパリ民衆によっていくつかの市門が襲撃され,91年から96年まで入市税は廃止された。しかしこの税金は,19世紀に入って急激に人口が増大していくパリの都市機能をまがりなりにも維持していく主要な財源となっていた。
1801年には54万6000であった人口は,51年には105万3000に膨張したが,これはナポレオン帝政以降の産業発展によって,稼ぎ口を求める人々が再びパリに流入してきたことによる。フランス革命期に後退した奢侈品や家具などの伝統的な工業が活気を取り戻し,1807年には建築業で2万5000,被服産業や食品業で各1万5000,金属産業で1万の労働者が働き,全人口の半数が工業で生活するにいたった。パリは48街区に分かれていたが,中心部の諸街区,とくに市庁のあるオテル・ド・ビル,その西隣のアルシ,シテ島内のシテは,超過密状態となり,古い家屋は貧民宿となって流入してきた人々が密集し,外辺部のいくつかの地区とともに,貧困と犯罪の巣となったといわれる。
パリは膨張する人口をもはや支えきれなくなっていた。汚水,塵介,し尿などの処理にゆきづまり,セーヌ川の汚染が深刻化したが,パリ市民の大部分はその水をそのまま飲料水としていた。1802年ナポレオンの決断でウルク運河の工事が始まり,25年に96kmに及ぶこの運河によってパリに水がもたらされるが,それでもパリ市民が1日に使用できる水量は6lだったといわれる。パリの労働者階級は一年中,ふろに入ることはなかった。下水道の整備にも追われたが,汚水はすべてセーヌ川に流れ込んだ。こうした状況のなかで32年にはコレラの大流行があり,1万8402人の死者を出した。公衆衛生学者が対策や調査に活躍するが,医学は病気の治療には無力で,コレラの特効薬はショウノウだと信じられた。
都市の問題はさらに中央市場,交通,食糧供給,貧民の監視など幾多の局面に及んだ。ナポレオンはレ・アル(パリ中央市場)の整備と分散を計画するが果たさず,41年にレ・アルのセーヌ川左岸のブドウ酒市場への移転案が市の委員会に提出されたが,これも実現しなかった。かろうじて1810年に五つの屠殺場が市内の外辺部に建設された。それまでは市の中心部の肉屋の店先で屠殺が行われ,市中を家畜の群れが市場に向かうという状態であった。
中央市場には荷車や馬車や荷担ぎ人,便利屋などが集まってくるが,街路は狭く交通が渋滞し,パリ中心部を東西,また南北に通り抜けることが不可能になっていた。貸馬車や辻馬車の増大,28年からは乗合馬車路線も続々と生まれて,パリの交通問題はいちだんと深刻化した。一方,フランス革命期に食糧危機に直面したことが,サン・キュロット運動の原因の一つとなったことは支配者の記憶に新しいところであったから,民衆蜂起の危険を避けるために,パリ警視庁は19世紀を通じてパン屋とパン価格の統制には力をいれていた。
パリの管理に責任を負ったのは警視総監とセーヌ県知事であったが,両者の権限はしばしば衝突した。しかし警視総監の活躍は都市問題全般にわたっており,48街区のそれぞれに警察署が置かれ,多数の警視と機動隊を指揮下に収めていた。警視総監の下にはパリ衛生審議会が置かれ,多くの公衆衛生学者が参加してパリの都市環境の調査や改善策を提出し,また実施した。にもかかわらず,パリを管理することは容易ではなかった。いまだ基本的な施設すら十分でなかったから,諸施設のシステムの網の目によって住民の生活をコントロールし規律づけることができなかったのである。
このような都市で自らの労働をたよりとして生きていかねばならぬ民衆にとって,支えとなるのは人と人との間の直接的な絆(きずな)であった。この絆を新しくつくり出し,また保持する場として重要な役割を果たしたのが居酒屋であった。19世紀になるとパリの市内や,市門の外には居酒屋や〈関〉の酒場が急激に増大した。パリの民衆はこうして,支配者の管理の外に自立した生活圏をつくり上げていき,フランス革命期のサン・キュロット運動の記憶とともに,1830年,32年,34年,48年と,新たな民衆騒擾を生み出す条件となった。
したがって,これらの運動は都市騒擾としての側面を多分にもっていた。たとえば48年の二月革命の際,民衆は市門の入市税徴収所のほとんどすべてを襲撃して破壊した。また当時セーヌ川に架けられた16の橋のうち,そのときまで渡橋する者から税を徴収していた10の橋の収税所を破壊し,税金の徴収を廃止させた。また民衆は運動に際し,自分の住む街区の商店主層を中心に組織されていた国民軍の武力とも対決しなければならなかった。この国民軍は都市を管理しようとするブルジョア層の最後のよりどころであったからである。
しかしパリのブルジョア層は,産業化する社会の動きを確実に自らの力としつつあった。19世紀の初め,ブールバールの西側のオペラ座界隈は彼ら新興階級の散策の場として登場してきたが,そこには鉄枠にガラスの入った高い天井をもったパッサージュ(アーケード)やパノラマ館,写真館が並んでいた。初期の百貨店や中国風浴場,レストランも軒を連ねた。パッサージュにはパリで最初のガス灯がともり,名店街が形成された。こうしてこの界隈は,新しい産業と技術の開花を象徴することとなった。
この産業化の上げ潮のなかでパリの改造に着手したのが,ナポレオン3世とセーヌ県知事G.E.オスマンである。まずシテ島内部の貧民街を一掃し,パリの中心を東西および南北に貫通する大通りを建設するとともに,中心部を迂回する大通り,鉄道駅から中心部に向かう交通路,それに西のエトアール広場,東のナシヨン広場を中心として放射状に道路を配置するなど,いくつもの街区を貫通する大通りの建設に力を注いだ。水については160km離れたヨンヌ川などからパリに送水するため水道橋を築き,これによってパリの水量は倍増することになった。下水道については,セーヌ川の両岸に沿って大下水道を建設し,すべての下水をこれに流し込んで市外のセーヌ川下流で放出するようにした。
1859年の法令で,60年よりパリの市域はティエールが1840年に築いた城壁まで拡大されることになった。旧来の12区は20区になり,面積は34.02km2から78.02km2となる。これまで郊外の町であったラ・シャペル,ベルビル,ビレット,ボージラールなどもパリ市に編入された。新しく編入された地域の人口は,すでに1831年の7万5574から56年の36万4257へとほぼ5倍に激増していた。機械製造業や化学工業,繊維工業などの工場がこの地域に立地しはじめていたことによるものであった。オスマンは新市域に対する道路建設にも力を入れたが十分でなく,ベルビルなどは水道もなく,パリのシベリアといわれた。61年,新しい市域の人口は169万6000に達した。
1870年の普仏戦争と第二帝政の崩壊という事件のなかで,パリはプロイセン軍の包囲するところとなり,パリ市民の日常生活は解体する。民衆は今度は自らの手で国民軍を編成しようとし,しだいにそれが民衆生活と防衛の中心と考えられるようになった。ここで明らかになったことは,パリ改造にもかかわらず,民衆の生活様式や心的態度はいまだ変化していないということであった。71年のパリ・コミューンは,こうして民衆運動の再生として現れ,政府軍の武力により鎮圧される。
71年以後もパリの人口は増大を続け,72年の185万が1901年には271万となった。この間,パリ改造がつづけられ,とくに外側の諸地区での道路建設が進んだ。しかしこの第三共和政期の特徴は,各街区ごとに小学校が建設されていったことである。これは初等教育の義務化,無償化の進展に呼応したもので,この時代に社会の諸制度の網の目が整えられていくことを象徴するものであった。万国博覧会が1878年,89年,1900年とパリで開かれるが,78年には街灯に電灯が使用され始め,89年にはエッフェル塔が出現し,1900年には初めての地下鉄が完成している。乗合自動車が出現するのは1905年である。産業化の進展のなかでブルジョア層は安定感を得ていたが,1905年5月1日,革命的サンディカリストの8時間労働を要求するゼネストが大規模に展開され,軍隊の出動をみた。
第1次世界大戦後になるとパリの人口はようやく安定に向かうが,郊外地帯が拡大していった。とくに北部は大工場地帯として発展するが,南部は郊外住宅地となっていった。オスマンのパリ改造の構想のなかには郊外地帯をいかに組織するかという考えが欠けていたといわれるが,この時点でパリは郊外に対する都市計画の必要に直面していたのであった。ティエールの城壁は1919年に取壊しが決まり,20年から24年に実施された。この場合にも,その広大な跡地を,パリ市と郊外を結ぶ交通の要点としておさえ,都市計画を立てるということがなされなかった。パリ市の中心には大会社の本社や諸官庁が集中し,パリ市の人口でもこうしたオフィスに勤務するサラリーマン層や自由業者の比率が増大し,逆に労働者層のそれは減少した。労働者層の比重は郊外で増大し,こうした地域の住宅や交通の問題が深刻化していった。
執筆者:喜安 朗
イタリアの政治家。反ファシズム活動でたびたび逮捕されたあと,1943年行動党の結成に参加。武装レジスタンス期(1943年9月~45年4月)に行動党を代表して国民解放委員会の指導部に入り,パルチザン部隊の指揮や連合軍との交渉など重要な役割を演じた。ファシズム崩壊後に短期間首相を務め(45年6月~12月),その後も主として独立左派の立場から政治活動を続け,63年終身上院議員となる。
執筆者:北原 敦
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フランスの首都。セーヌ川のシテ島にケルト系パリシイ人が住み着いたのが名前の由来。ローマ時代にはルテティアと呼ばれた。中世初期,パリ伯の子孫がカペー朝を開きフランス王となって以来,パリは首都としての役割を担うと同時に,司教座聖堂(ノートルダム)や大学を有する宗教や学問の中心となった。周囲には幾度か城壁が築かれ,商工業者や商人たちが市政を担ったが,絶対王政下では王権がしだいに都市支配を強化していった。フランス革命期のパリは政治の重要事件の舞台で,19世紀の諸革命もパリで生じており,近代のパリは何より政治の中心であった。他方,コレラの発生をみた19世紀には上下水道の整備や公衆衛生において進展がみられ,第二帝政期には知事オスマンによって大規模な都市改造が行われた。以来パリでは新しい科学技術や最先端の流行が示され,万国博覧会も開かれた。第二次世界大戦では一時ドイツに占領されたが,戦後は再びヨーロッパの政治や文化の中心としての役割を果たしている。
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…政治的には区長は地区民主党組織の利害代表であることが多い。フランスでもパリ市に20の区arrondissementが設置され,当該区選出の市会議員,市長任命の戸籍官,市議会の選出した者からなる区委員会が,一部の地域行政を処理している。イギリスでは,1963年以来,ロンドン地区に広域自治体として大ロンドン県Greater London Councilが設けられ,その下に,ロンドン市と32の区London Boroughが設けられている。…
…アメリカのワシントンは直接公選の首長と議会をもつが,行財政について連邦議会の承認を必要としている。フランスのパリは市および県としての機能を有する自治体である。長らくパリ市長は中央政府が任命してきたが,1977年以来市長は市議会での選挙となり,またパリの20区arrondissements municipaux委員会委員および執行部の選出も自治に基づくものへと改められた。…
…しかし,70年7月19日ビスマルクの策謀によってプロイセンに宣戦布告(普仏戦争)し,9月2日に降伏した。その知らせが9月4日パリに届くや,民衆が一斉に蜂起し第二帝政はあえなく崩壊した。
[経済,社会]
第二帝政期は,フランスにおける経済的・社会的転換期をなしている。…
…そして居城,市場,教会を中心に高密度な市街地が形成されていた。ルネサンス期になると商業の発達が著しく,パリ,フィレンツェ,ベネチアなどの都市の人口が増加し,中世の都市の改造が行われはじめた。16~17世紀にかけて,デューラー,スカモッツィなどの理想都市の提案があった。…
…パリのシテ島にある司教座教会。フランス・ゴシック建築のなかでは西正面が最も調和を見せている,初期ゴシック建築の壮大な作例である。…
…また,この言葉からバスの語が派生した。 哲学者のパスカルが17世紀後半に入って最初に考案したといわれ,その計画は1662年にパリ市内で実現され,営業が認可された。この乗合馬車は19世紀に発展したものと同じ性格をすでにもっており,パリの街区から街区へと決められた路線を定時運行し,五つの路線をもち,運賃は5ソルと高価なものだった。…
…パリの中心地区ボーブールBeaubourgにある芸術・文化活動の諸機能を集めたセンター。正称は〈国立ジョルジュ・ポンピドゥー芸術・文化センターCentre national d’Art et de Culture Georges‐Pompidou〉。…
※「パリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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