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パリ パリ Paris

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8件 の用語解説(パリの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

パリ
パリ
Paris

フランスの首都。フランス北部,パリ盆地の中心に位置する。古代名ルテチア Lutetia (ラテン語) ,ルコティキア Loukotikia (ギリシア語) 。1市で1県 (ビルドパリ県) を構成し,20区に分かれる

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百科事典マイペディアの解説

パリ

フランスの首都。同国北部,パリ盆地の中央,セーヌ川中流のシテ島を中心に同心円状に広がる。フランスの政治,経済,文化の中心。北緯48°50′にあるが,西岸海洋性の温和な気候で,月平均気温1月3℃,7月19℃,年降水量約600mm。
→関連項目アンバリッドケイタパリオリンピック(1900年)パリオリンピック(1924年)パリのセーヌ河岸フランス

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デジタル大辞泉プラスの解説

パリ

ビルケンシュトックが販売するサンダル

パリ

オーストリアの作曲家W・A・モーツァルトの交響曲第31番K297[300a](1778)。原題《Paris》。パリのオーケストラ、コンセール・スピリチュエルのために作曲された。

パリ

《Paris》フランスのファッションブランド、イヴ・サンローランのフレグランス。1983年発表。調香師、ソフィア・グロスマンの作。

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世界大百科事典 第2版の解説

パリ【Paris】

フランスの首都。行政上は1市1県で,面積105km2,人口213万(1994)。フランス北部,イギリス海峡に注ぐセーヌ川の河口から直線距離で約170km,イル・ド・フランス地方のパリ盆地の中央,セーヌ川とマルヌ川の合流点の西に広がる。パリ盆地は東西400km,南北350kmで,セーヌ川とその支流が蛇行しながら流れ,古くから水上交通路として利用されてきた。年平均気温は10.9℃,最寒月の1月の平均気温は3.1℃,最暖月の7月は19.0℃である。

パリ【Ferruccio Parri】

1890‐1981
イタリアの政治家。反ファシズム活動でたびたび逮捕されたあと,1943年行動党の結成に参加。武装レジスタンス期(1943年9月~45年4月)に行動党を代表して国民解放委員会の指導部に入り,パルチザン部隊の指揮や連合軍との交渉など重要な役割を演じた。ファシズム崩壊後に短期間首相を務め(45年6月~12月),その後も主として独立左派の立場から政治活動を続け,63年終身上院議員となる。【北原 敦】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

パリ
ぱり
Paris

概説

フランスの首都。同国北部、パリ盆地の中央部に位置し、セーヌ川が市内を貫流する。人口212万5246、首都圏人口964万4507(1999)。欧州諸国のうちでも統一の早かったこの国のあらゆる面における中心都市として発展し、現在なお政治、経済、工業そして文化、科学、芸術などすべての部門における活動は他国に例のみられないほどパリに集中しており、世界の大都会のなかでもっとも典型的な意味における「首都」である。その歴史の各時期を通じて変わることなく続いたこの特性は、現在の都市構成および市民生活一般のうちにも明らかに反映しており、パリの魅力もここにある。市街を弧状に貫流してその景観に深い情緒を添えているセーヌ川は、その水運を通じてパリの発生と発展の原動力となったが、現在なおこの役目を果たしながら(パリ河港の年間荷扱量2130万トン、1994)、一方では息詰まりがちな大都会の住人のために憩いの空間を提供している。[日高達太郎]
自然
パリは北緯48度50分、東経2度20分に位置し、ほぼ六角形の国土の中心からは約200キロメートルも北に偏っている。しかし、セーヌ川およびパリ付近でこれに合流する諸支流の存在が、肥沃(ひよく)なパリ盆地をもたらし、河川を連絡路として盆地を支配できるという好条件をパリに与えた。これによりパリは古くから他市を排して首都となることができた。市街中心部セーヌ河畔の標高は26メートルにすぎないが、周囲には100メートル前後の丘が五つある。パリ盆地の南北方向の主要連絡路は、モンマルトルとショーモンの丘の間の「峠」を通過し、セーヌ川の中の島シテ島を飛び石としてこの谷を渡り、南側ではサント・ジュヌビエーブの丘とモンパルナスの間のビエーブルの谷をさかのぼって広い台地の上に出るものであった。
 オアーズ川、マルヌ川などのセーヌ支流は東方および北方の両地域との連絡路となった。この天然の十字路ともいうべき立地が、パリの経済的発展と政治的影響力の全国浸透に大きな役割を果たす。周囲の丘は、石材、漆食(しっくい)など建築材料を提供して都市建設に役だった。
 気候条件も、北緯50度に近いにもかかわらず、西に向かって開いている盆地内にあって大西洋とイギリス海峡からの影響を受けるおかげでけっして厳しいものではない。平均気温は1月の3.4℃、7月の19.1℃、年降水量は641ミリメートル、降雨日数171日。とくに春に天候が不安定になる海洋性の温帯気候に属している。[日高達太郎]
市街
19世紀なかばのパリ市街は、現在の第1区から第10区までに相当する中心部、約25平方キロメートルにすぎなかった。ついでその外側に第11区から第20区までの手工業を主とする地区が発展、産業革命とともに、工業地帯が輸送に便利なセーヌ下流に向かって延びる一方、鉄道に沿って放射状に広がった。他方、19世紀なかばにはパリ周辺地区の森林を切り開く宅地造成により、小さな庭をもった郊外個人住宅地が現れ、第一次世界大戦後は大規模な宅地造成が耕作地にも及ぶ。第二次世界大戦を機に、トラックによる貨物輸送の発展、自家用自動車の普及などにより、工場、新都市の建設地選択はかなり自由となり、近郊に残っていた緑地の一部も都市化された。かくしてパリを中心とする都市圏の広がりは、約1世紀の間に、「小冠」Petite Couronne(または都市域冠Couronne Urbaine)に属するセーヌ・サン・ドニ、バル・ド・マルヌ、オー・ド・セーヌ3県と「大冠」Grande Couronne(または副都市域冠Couronne Suburbaine)に属するバル・ドアーズ、セーヌ・エ・マルヌ、イブリーヌ、エソンヌ4県を擁するイル・ド・フランス全域(面積1万2012平方キロメートル)におよび、人口は200万強から約1000万に膨張した。全国土の2%にあたる土地にフランス全人口の18.5%が集中していることになる。この約1世紀間の人口増加は、郊外地区では約15倍であるのに対し、パリ市域では約50%増にすぎない。
 行政上のパリ市(20区内)は、現在も1840年の城壁跡の環状大通りの内側にとどまっている。その広がりは東西12キロメートル、南北9キロメートル、これに西側のブローニュの森846ヘクタールと東側のバンセンヌの森995ヘクタールが加わり、面積は約105平方キロメートル、大国の首都としては小さい都市である。この小さなパリ市は政府所在地として特別市を形成し、同時にパリ県をもなし、市長を議長とする市議会が県行政も行っているが、近年はしだいに一般の市の行政形態に近づく傾向がある。
 いわゆる「花の都パリ」として世界に知られる中心部は、16、17世紀の国王による首都建設を基盤としている。しかし現在の姿は、まず19世紀中葉のオスマン知事による大胆な都市計画に始まって20世紀初頭まで、老朽家屋の密集地区の取り壊しとその住民の市域外縁への移転、大通りの貫通など、多くの改新、建設工事による近代化の結果である。パリの歴史的建築物の大部分は、第1区から第6区までを構成するこの核心部に集中しており、都市機能もセーヌ右岸の商業・金融・手工業地域と、左岸の教育・文化地域に分かれているなど、中世以来の伝統を反映している。この西側に、エトアール凱旋門(がいせんもん)を中心に発する12本の大通りを骨格としたいわばブルジョア地区があり、なかでもブローニュの森に接する第16区は高級住宅地として発展した。東側と南北両側には中級以下の住宅、小工場、倉庫などが多く、近年に至って老朽、非衛生的地区を対象とした大刷新工事が行われ、メーヌ・モンパルナス地区、第15区セーヌ左岸地区など、パリとしては異様ともいえる高層建築物が出現した所も少なくない。[日高達太郎]
交通
水道は、飲用水道延長1750キロメートル、非飲用水道1610キロメートル、有名な下水道2200キロメートルを備える。道路は5959本、その延長は1901キロメートル。ほかに、セーヌ河岸自動車専用道路15キロメートル余、市域を完全に取り巻く高速道路35キロメートルなどがあるが、市内自動車交通と公害の増大に直面している。うち331キロメートルの歩道上には計10万本の並木、7032のベンチ、市域総面積の25%にあたる2214ヘクタールに達する各種公園緑地を確保している。
 公共交通機関の重要性が増大している今日、パリ市交通公団地下鉄(通称メトロ)は15路線、延長202キロメートル、週日には1日当り456万人を輸送している。同公団バスは、55路線の網目を張り、延長510キロメートルを連絡、年間3億3200万人余の足となっている。さらに、バス専用レーンも通れる1万4900台のタクシー(個人営業8600台)が、468の専用駐車場に分散して、1日平均33万回利用されている(以上の数値はほとんど1994年または95年)。
 市内に通う郊外居住者のためには、高速道路による連絡に続いて、郊外電車と地下鉄を結び付けたRER(首都圏急行網)も発展、週日には1日当り140万人、1日当り平均11キロメートルに及ぶ移動を受けもっている。中央集権の強化にも役だったパリ中心の全国鉄道網とは、方角により六つのターミナル駅で結ばれ、列車本数は1日平均628、年間乗客数は計8820万人に達する。これら六つの共用駅のほか三つの専用駅をもち、パリを中心に50キロメートル圏内を結ぶ郊外線(28路線、延長1285キロメートル)が通じている。その列車本数は日に5100、年間利用者数は5億4000万余人である(以上1994年の数値)。
 国内諸地方はもとよりヨーロッパ諸国とは、20本の幹線国道と東西南北に向かう4本の高速道路によって結ばれる。南の高速道路はコート・ダジュールへ観光客を導くのみならず、首都の胃袋が必要とする南フランスの生鮮食料の大部分を輸送している。パリ向け食料品全体の60%は、各地方からのトラック輸送によっている。北と東の高速道路はベルギー、ドイツから輸入される工業製品のルートである。空路では、市街中心から北東25キロメートルにロアシー(シャルル・ドゴール)、南約15キロメートルにオルリーの2国際空港がある。シャルル・ドゴール空港は年間に旅客4344万人、貨物98万トンを扱う(1999)。ほかに自家用機、試験飛行用の小空港も首都圏内にいくつかある。[日高達太郎]
産業
中世以来の伝統的「パリ製品」として宝石細工、貴金属細工、楽器、高級家具、香水、高級衣装などがあるほか、精密器具、出版物、音楽産業、映画などが広く知られている。これらの産業は、パリの商業、文芸活動、観光など、いわばパリ的人間活動に密接に結び付いているだけに、古くから市内あるいはその外縁近くに集中していた。現在なおマレ地区、タンプル地区の貴金属細工、サンタントアーヌ地区の調度品、左岸ラテン区(カルチエ・ラタン)の出版など、典型的な例も残っている。一方、首都圏全体は同国経済活動人口の25%を擁する最大かつ多様な工業地域を形成している。これも自然立地のほか、人口、資本の集中、行政機能など、中央集権国家の首都としての特恵的諸条件によるところが大きい。
 パリ工業地帯発展の原動力としては、18世紀以来の研究と資本とを生かした化学工業、19世紀中葉以後のパリを起点とする鉄道建設、鉄骨建築の発展などに伴う鉄工業などがあり、さらに20世紀初頭以来の電気、自動車、航空機など、時代の先端を行く諸工業がこれに加わっている。
 パリ市内では小工場がしだいに住宅あるいは事務所に転換され、「非工業化」が緩慢に行われている一方、現在も東と北側の遠郊工業地帯の建設が進んでいる。これらの工業地帯は、石塀と煙突に工員住宅という伝統的なものとは異なり、芝生と広い駐車場に囲まれた機能的で明るい工場が並んでおり、従業員は多少とも離れた静かな環境のうちに住んでいる。これら工業地帯の立地も景観も、技術、運輸手段、通信網の発展、生活水準の向上など、社会条件の変革の反映である。
 第三次産業部門においても、パリは全国最大の産業都市である。政府と公共機関は、首都圏活動人口の20%を吸収している。また、ユネスコ本部をはじめ400を超える国際機関の存在は国際都市の名にふさわしい。通信・報道、出版、演劇、芸術、観光などの諸部門が発展しているし、さらには銀行、保険会社の本社、大企業の本部と研究部門の存在などが第三次産業を支えている。[日高達太郎]
文化施設
フランスの知的活動と文化財もパリに集中している。パリ第一~第十三大学までのパリ大学と4大学校(理工科大学〈エコール・ポリテクニク〉、高等師範学校〈エコール・ノルマル・シュペリュール〉、国立行政学校〈エコール・ナショナル・ダドミニストラシオン〉、工業専門学校〈エコール・サントラル〉)には計約30万に及ぶ学生が通い、その3分の1以上が地方あるいは外国出身である。主要な調査研究機関の大部分がパリ市内とその近郊にあり、市内には市立図書館64、博物館・美術館134、劇場141がある。
 多くの観光客が訪れるパリには歴史的建造物が豊富である。その主要なものをあげれば以下のとおりである。ゴシック様式のノートル・ダム大聖堂(12~13世紀)は、パリ発祥の地シテ島に建ち、ルーブル宮殿(現ルーブル美術館、16~19世紀)とともにパリの象徴的存在である。アンバリッド(廃兵院)は17世紀古典様式の完成例で、ルイ14世の命により建築された。ノートル・ダム大聖堂に近いセーヌ右岸に建つ市庁舎は、19世紀ルネサンス様式を模した宮殿建築。ネオ・バロック様式のオペラ座も同時期のものである。これらに対して、大革命100年記念の万国博で建てられたエッフェル塔(1889)や、モンマルトルの丘の頂上に白く輝くサクレ・クール大聖堂(1876~1919)などは、近代パリを象徴する建築物となっている。[日高達太郎]
世界遺産の登録
さまざまな歴史的建造物が建ち並ぶセーヌ川河岸は1991年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「パリのセーヌ河岸」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。[編集部]

歴史


古代から中世へ
パリ盆地には旧石器時代からの生活の跡が認められているが、都市としての直接の淵源(えんげん)は、紀元前3世紀ころケルト系のパリシイ人Parisiiが後のシテ島を中心に住み着いたことにある。パリの名もそれに由来する。初め漁労生活を営んでいた彼らは、じきにセーヌ川を使って商業活動にも入った。この地はローマ人によってルテチアLutetiaとよばれ、前50年代のカエサルによるガリア征服とともにローマ帝国支配下に置かれる。紀元後3世紀にかけて、おもにセーヌ川左岸を中心に発展したローマ都市ルテチアには、すでに水上商人組合がつくられていた。現在でも、円形闘技場跡や、クリュニー修道院(現、クリュニー美術館)内の浴場跡に、当時のおもかげが残されている。聖ドニが初代司教として布教し、殉教の逸話を残したのも3世紀なかばであった。
 4世紀になるとゲルマン人、とりわけフランク人の侵入が激しくなり、その対応のためにローマから派遣されたユリアヌスはこの地に居を定め、360年に皇帝に推挙された。シテ島を中心に集住化が進み、5世紀初めには最初の市壁がつくられたが、ローマの支配は実質上終わりを告げてゆく。5世紀なかばにはアッティラの率いるフン人の襲来を受け、パリはふたたび脅威にさらされるが、その攻撃を退けた聖女ジュヌビエーブは、その後パリの守護聖人として崇(あが)められることになる。
 6世紀初めからクロービスによってメロビング朝の首都とされ、商業を中心に左岸のみでなく右岸にも町が広がり、修道院の建立などもみて宗教的にも重要になっていった。有名なサン・ジェルマン・デ・プレ修道院もこの時代に起源をもつ。だがメロビング朝末期からカロリング朝時代には政治の中心から外され、カール大帝はアーヘン(現、ドイツ)を首都とした。そして9世紀後半にノルマン人、いわゆるバイキングがセーヌ河口からさかのぼって襲来し、ガリア・ローマ時代からの都市周辺部は壊滅的な打撃を被る。[福井憲彦]
中世都市として
最終的にノルマン人の攻撃を退けることができたパリは、その声望を高めた。888年パリ伯ユードがフランク国王となり、その子孫ユーグ・カペーが987年にカペー朝を始めるころには、王国の中心としての位置は揺るぎないものになりつつあった。
 12世紀前半、カペー朝のルイ6世のころから、周辺の農業生産の発展を背景に経済的にも飛躍を示す。右岸にある現在の市庁舎前広場に発展しだした市場は、のちに「パリの胃袋」とよばれることになるレ・アル(中央市場)の場所に移され、フィリップ2世のもとで13世紀初めには本格的に取引の中心になった。イングランド王と争ってフランス王国の領土を拡張、封建諸侯を抑えて国王の権勢を強め、尊厳なる王(オーギュスト)とよばれたフィリップ2世は、パリの周囲を市壁で固め、街路に舗石(ほせき)を敷き、セーヌ川には橋を架けさせた。中世の橋は木造で、橋上には家屋がしつらえられており、ときには火災で焼失もしたが、シテ島を中央に左右両岸が連結して発展の途につく。彼はまたシテ島の王宮と並んで右岸にルーブル宮を建て、商人ギルドに特権を付与して経済の活性化を図った。左岸では、サント・ジュヌビエーブの丘にかけてパリ大学の基礎が築かれ、やがて中世末にはスコラ学の総本山として諸国から学者をひきつけることになる。知的・文化的中心としてのいわゆるカルチエ・ラタンの成立である。すでに12世紀なかばから、パリ司教座教会としてノートル・ダム大聖堂の建築が始まっており、ゴシック建築の偉容が宗教的中心の地位を象徴することになる。
 こうして中世都市としての姿を整えていったパリには、13世紀の聖王ルイ9世のもとで高等法院と会計院が置かれ、さらに商業の発展と相まって人口も10万を超えたといわれる。力を蓄えた商人たちは都市としての自治権を王から認められ、プレボとよばれる代表を市長として選任するようになる。1302年、教皇と対立していた国王フィリップ4世は、僧侶(そうりょ)・貴族と並んで市民代表にも支援を求め、最初の三部会をパリに開いた。これは市民の財力の強さを意味するが、またこれ以後パリは国王の重税に苦しむことにもなる。中世末の百年戦争に伴う周辺農村の荒廃、食料不足と物価高騰、重税といった経済的困難に、ペスト流行による大量死の恐怖が加わった。
 政治の改革を求めたパリは市長のE・マルセルの指揮下に1358年、大規模な反乱を起こすが、賢明なる王と称されたシャルル5世がこれを鎮圧し、いったん平穏が戻る。彼は右岸の市壁を広げて商工業の発展への対応を用意し、シテ島の王宮には秩序と革新の象徴ともいえる時計塔をつくらせた。
 しかしシャルル5世死後また混迷が訪れ、14世紀初めに20万といわれた人口は、同世紀末には半減していた。しかもアルマニャック派とブルゴーニュ派に分裂して全国で争っていた貴族のうち、15世紀初めに一時パリはイギリス軍と通じるブルゴーニュ派に支配されて荒廃と混迷を極め、市内にすらオオカミが出没するほどだったといわれている。[福井憲彦]
アンシャン・レジーム期
王権強化に腐心したフランソア1世は、1528年パリに本拠を定めた。市内にはルネサンス様式の建物が新築され、人文主義の風がパリにも及ぶ。G・ビュデを指導者として1530年、王立教授団が設置され、いまに続くコレージュ・ド・フランスの前身となり、商業も繁栄して人口はまた増加した。しかし同時に下層民も多く流入し、狭い路地が入り組む街区には、フランソア・ビヨンが詩に歌ったような怪しげな別世界が首都の下層に張り付く。これ以後パリにとって、堆積(たいせき)する下層民の問題は深刻なものであり続ける。
 16世紀末の約30年間、宗教戦争はまたしても首都を混乱に陥れ、カトリック勢力の支配下に、1572年にはサン・バルテルミーの虐殺が起こった。この宗教対立を収拾したアンリ4世統治下から、近代都市への整備と脱皮が徐々に進みだす。現在も美しい姿をみせるボージュ広場(当時はロアイヤル広場)やドフィーヌ広場は、その産物である。彼は工事中のポン・ヌフ(新橋)を完成させ、歩道を設け、道路管理や塵芥(じんかい)処理、さらに都市生活の命綱である上水道のための政策にも力を入れた。1648年のフロンドの乱でまたしてもパリは王権と衝突するが、その前のルイ13世時代には宰相リシュリューの下で、そして17世紀後半からのルイ14世治下にも、区画整理や再開発は続行し、貴族など上流階層の住む西寄りの街区がとくに整備されていった。ルイ14世自身は反抗的なパリを好まず、1677年にはベルサイユに移り、1682年にそこを政府本拠としたが、パリは商業はもとより、宗教や文化・文芸の都として全ヨーロッパに名が響く。約50万の人口を抱える都市への物資受け入れ口であるセーヌ河港は、大いににぎわった。
 啓蒙(けいもう)主義のサロンに哲学者や文人たちが集まった18世紀に、町はさらに西に広がり、現在のコンコルド広場やシャンゼリゼ大通りの原型もこの時代につくられた。膨張した都市の機能をよくするための区画整理、街頭照明、保健衛生などへの配慮が強まり、警察機構もヨーロッパ諸国のモデルにされた。
 しかしこうした都市整備の試みも、流入する人口の多さや問題の山積に追い付かず、公衆衛生や貧民問題は解決されないまま、旧体制(アンシャン・レジーム)の全般的危機はフランス革命を惹起(じゃっき)した。[福井憲彦]
大革命から現代へ
1789年バスチーユ襲撃に始まり、パリ市民とサン・キュロットが活躍した大革命下に、パリはふたたび首都になった。革命直前に約65万から70万と推定される人口は、やがて1846年に約105万、周辺町村合併後の1861年に約170万、1901年には270万余と急増する。その増加は大部分が労働階層であったが、都市整備は人口急増に追い付かず、西の裕福なブルジョア地区と、北や東に多い下層労働者地区の落差は大きかった。とくに19世紀前半に労働階層は「危険な階層」として支配階層に恐れられ、実際1830年代からは労働運動や社会主義運動の中心にもなり始めた。19世紀のパリは、1830年の七月革命、1848年の二月革命と六月事件、1871年のパリ・コミューンをはじめ、フランス全体の政治やヨーロッパ全体をも震撼(しんかん)させる社会運動に揺れる激動の首都となる。
 パリが現在のもとになる姿をとるのは、第二帝政下に開始された「オスマン化」とよばれる都市改造からである。周辺町村を合併して現在の面積になり、全体を20の行政区に、各区を4カルチエ(区)に分ける制度も1860年からである。帝政の強権下に幅の広い大通りが旧街区を貫き、入り組んだ路地や古い建物が中心部から一掃されて第二帝政様式といわれる建物が新築され、ユゴーの『レ・ミゼラブル』で有名な下水道の整備も本格化する。一時コミューン蜂起(ほうき)で中断されるが、第三共和政下にも改造は続行され、基本的に現代の姿をとったパリは、19世紀末にはエッフェル塔や地下鉄など鉄と電気に示される工業文明によって、その変化を加速する。1905年からは乗合自動車(バス)も登場した。この産業化開始の時期には、革命的サンジカリズムとして高揚した労働運動の中心地ともなった。
 20世紀に入って首都圏として発展し始めたパリは、二度の世界大戦や人民戦線、1968年「五月革命」などのできごとで政治の檜(ひのき)舞台であり続けたばかりではなく、シュルレアリスムで有名なように世界各地から前衛的芸術家を集め、文学者をひきつける芸術の都でもあった。世界各地への多極化の動きは明確であるが、いまでもパリはファッションの中心であり、また学問研究や現代思想の新しい動きの震源地であり続けている。[福井憲彦]
『日高達太郎著『素顔のパリ――Paris sans ford』(1973・座右宝刊行会) ▽E・H・アッカークネヒト著、館野之男訳『パリ病院――1794~1848』(1978・思索社) ▽喜安朗著『パリの聖月曜日――19世紀都市騒乱の舞台裏』(1982・平凡社) ▽H・サールマン著、小沢明訳『パリ大改造――オースマンの業績』(1983・井上書院・The Cities = New Illustrated Series) ▽堀井敏夫著『パリ史の裏通り』(1984・白水社) ▽ミシェル・ダンセル著、蔵持不三也編訳『図説 パリ歴史物語+パリ歴史小事典 上』(1991・原書房) ▽地図資料編纂会編『革命期19世紀――パリ市街地図集成』(1995・柏書房) ▽高橋伸夫・手塚章、ジャン・ロベール・ピット編『パリ大都市圏――その構造変容』(1998・東洋書林) ▽今橋映子著『パリ・貧困と街路の詩学――1930年代外国人芸術家たち』(1998・都市出版) ▽ポール・ロレンツ監修、F・クライン・ルブール著、北沢真木訳『パリ職業づくし――中世から近代までの庶民生活誌』新装版(1998・論創社) ▽鹿島茂著『職業別 パリ風俗』(1999・白水社) ▽ジャン・ロベール・ピット編、木村尚三郎監訳『パリ歴史地図』(2000・東京書籍) ▽アルフレッド・フィエロ著、鹿島茂監訳『パリ歴史事典』(2000・白水社) ▽ピエール・ラヴダン著、土居義岳訳『パリ都市計画の歴史』(2002・中央公論美術出版) ▽シモーヌ・ルー著、杉崎泰一郎監修、吉田春美訳『中世パリの生活史』(2004・原書房) ▽M・ラヴァル著、小林善彦・山路昭訳『パリの歴史』(白水社・文庫クセジュ) ▽イヴァン・コンボー著、小林茂訳『パリの歴史』新版(白水社・文庫クセジュ) ▽R・ドゥ・ベルヴァル著、矢島翠編訳『パリ1930年代』(岩波新書) ▽玉村豊男著『パリ 旅の雑学ノート』(新潮文庫) ▽アンドレ・ヴァルノ著、北沢真木訳『パリ風俗史』(講談社学術文庫)』

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世界大百科事典内のパリの言及

【区】より

…政治的には区長は地区民主党組織の利害代表であることが多い。フランスでもパリ市に20の区arrondissementが設置され,当該区選出の市会議員,市長任命の戸籍官,市議会の選出した者からなる区委員会が,一部の地域行政を処理している。イギリスでは,1963年以来,ロンドン地区に広域自治体として大ロンドン県Greater London Councilが設けられ,その下に,ロンドン市と32の区London Boroughが設けられている。…

【首都】より

…アメリカのワシントンは直接公選の首長と議会をもつが,行財政について連邦議会の承認を必要としている。フランスのパリは市および県としての機能を有する自治体である。長らくパリ市長は中央政府が任命してきたが,1977年以来市長は市議会での選挙となり,またパリの20区arrondissements municipaux委員会委員および執行部の選出も自治に基づくものへと改められた。…

【第二帝政】より

…しかし,70年7月19日ビスマルクの策謀によってプロイセンに宣戦布告(普仏戦争)し,9月2日に降伏した。その知らせが9月4日パリに届くや,民衆が一斉に蜂起し第二帝政はあえなく崩壊した。
[経済,社会]
 第二帝政期は,フランスにおける経済的・社会的転換期をなしている。…

【都市計画】より

…そして居城,市場,教会を中心に高密度な市街地が形成されていた。ルネサンス期になると商業の発達が著しく,パリ,フィレンツェ,ベネチアなどの都市の人口が増加し,中世の都市の改造が行われはじめた。16~17世紀にかけて,デューラー,スカモッツィなどの理想都市の提案があった。…

【ノートル・ダム大聖堂】より

…パリのシテ島にある司教座教会。フランス・ゴシック建築のなかでは西正面が最も調和を見せている,初期ゴシック建築の壮大な作例である。…

【乗合馬車】より

…また,この言葉からバスの語が派生した。 哲学者のパスカルが17世紀後半に入って最初に考案したといわれ,その計画は1662年にパリ市内で実現され,営業が認可された。この乗合馬車は19世紀に発展したものと同じ性格をすでにもっており,パリの街区から街区へと決められた路線を定時運行し,五つの路線をもち,運賃は5ソルと高価なものだった。…

【ポンピドゥー・センター】より

…パリの中心地区ボーブールBeaubourgにある芸術・文化活動の諸機能を集めたセンター。正称は〈国立ジョルジュ・ポンピドゥー芸術・文化センターCentre national d’Art et de Culture Georges‐Pompidou〉。…

※「パリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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