パリ(英語表記)Paris

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デジタル大辞泉 「パリ」の意味・読み・例文・類語

パリ【Paris】[書名]

モーツァルトの交響曲第31番ニ長調の通称。1778年作曲。全3楽章。パリのオーケストラ、コンセールスピリチュエルのための作品。自身の交響曲として初めてクラリネットが用いられた。

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改訂新版 世界大百科事典 「パリ」の意味・わかりやすい解説

パリ
Paris

フランスの首都。行政上は1市1県で,面積105km2,人口216万(1999)。フランス北部,イギリス海峡に注ぐセーヌ川の河口から直線距離で約170km,イル・ド・フランス地方のパリ盆地の中央,セーヌ川とマルヌ川の合流点の西に広がる。パリ盆地は東西400km,南北350kmで,セーヌ川とその支流が蛇行しながら流れ,古くから水上交通路として利用されてきた。年平均気温は10.9℃,最寒月の1月の平均気温は3.1℃,最暖月の7月は19.0℃である。冬から春にかけて北東風,夏から秋にかけて南西風が卓越する。市街地はセーヌ川流域の南北に広がり,北を右岸(リーブ・ドロアト),南を左岸(リーブ・ゴーシュ)と呼ぶ。市の南北周辺はゆるい丘陵地となり,ビュット・ショーモン,ビュット・モンマルトル,ビュット・シャイヨー,モン・パリ,モンパルナスなどの丘がある。

パリ市街は1859年まで1~12区の約15km2にすぎず,13~20区は郊外にあったが,現在はその全区域に加えて,パリ近郊3県のオー・ド・セーヌ,セーヌ・サン・ドニ,バル・ド・マルヌが,完全に市街地化して連なっている。近郊は幅約10kmの内帯をなし,面積355km2,人口293万(1982)を擁して,パリと一体化している。これを囲んだ郊外は,幅35kmの外帯をなし,バル・ドアーズ,イブリーヌ,エッソンヌ,セーヌ・エ・マルヌ県にはみ出して,面積540km2,人口206万(1982)を擁している。以上にパリ市の217.6万(1982)を加えると人口717万,面積1000km2になる。パリ市はその中心部にすぎず,郊外を含めたパリ大都市圏の住民全体がパリジャンと呼ばれている。これら諸県全体が〈イル・ド・フランス地域〉を形成し,パリ県知事が地域知事となって地域計画を進めている。ただしパリ市長は市民から選出され,県知事は政府が任命するため,二重行政のかたちをとっている。

 パリ市の人口は1931年を頂点として減少し始め,都市成長は周辺部に移ってきた。しかし,それでも人口密度は東京よりはるかに高く,9区のロシュ・シュアール地区では5万人/km2を数え,ブーローニュとバンセンヌの森を除いて平均2.5万人/km2である。市内,近郊は地域別機能分化,住分けが進み,郊外の高級住宅地,ル・ベジネではわずか3000人/km2である。

 市内では,セーヌ川右岸の中心部1,2区から西側の8,9区にかけて銀行,保険会社やさまざまな大企業の中枢管理機能が集中し,一部は西郊のデファンス,左岸のモンパルナスにみられる。パリで最も交通が混雑する部分はサン・ラザール駅,コンコルド広場シャンゼリゼ大通りを結んだ三角形のパリ核心部である。左岸5,6区のカルティエ・ラタンは文教地区,7区は政府・官庁地区で第2の核心をなしている。政治,外交,経済,文化に関連する重要な諸施設が集中し,外国人観光客を含む多くの人々がここを訪れる。これらの人々を対象とする高級服飾店やデパート,画廊,宝石商などの集まる通りが右岸に,本屋,宗教用品などの専門店街や出版社が左岸にみられる。この核心部に通勤する幹部職員の多い高級住宅街は,16,17区とその南西側のオー・ド・セーヌ県に広がり,またバンセンヌなどの公園周辺やマルヌ川などに臨む環境に恵まれた地に飛地状に広がっている。

 パリ市の東半分,3,4,11,12,19,20区などでは,縫製,印刷,木工や〈パリ製〉と銘打った雑貨の製造,卸小売が行われ,零細な町工場が労働者住宅と混在し,一部ではサンタントアーヌ通りの家具街,タンプル地区の衣類・服飾品卸街,パラディ通りのガラス・陶器街などの特化した専門店街を形成している。この地域は外国人観光客はほとんど訪れないが,外国人労働者の流入が多い。東側各区や北東のオベルビリエ,北部のサン・ドニなど周辺には北アフリカの人が多く,13区の南東部には中国人・ベトナム人街が形成されつつある。その他外国人の集住地区は,マレ地区のユダヤ人街,パッシーのスペイン人街,モンパルナスのロシア人街などがあげられるが,これらは東側各街区の下町に比べて,労働者階層が少ない。パリ市の20区だけをとれば,19万5000人が外国人で,郊外を含むパリ地域の移民人口は100万人(人口の18%)に達する(1990)。

 このほか,工業地帯が近郊の内帯に拡大しており,労働者が多く左翼の有力な地盤であるため〈赤い帯〉とも呼ばれ,保守派がシャンゼリゼで行進すれば,左派はバスティーユや北郊のサン・ドニに集まるのも地盤の関係である。また7月14日の革命記念日には,市の西側の住民はバカンスに出かけて残っている者は少ないが,東側には住民が多く残っており,たとえば12区のアリグル広場は住民たちでにぎわいをみせ,庶民的な親しさを感じさせる。外帯の郊外に向かって南東のセーヌ上流や北のサン・ドニ方向には化学工業や食品加工業などが発展し,ブーローニュ・ビヤンクールから北西のセーヌ下流方向には自動車をはじめ各種の機械工業が広がり,パリ港,火力発電所や石油精製工場などが広い敷地を占めている。これら多様な工業活動も,1955年以来とられている工業の地方分散政策によってパリでの工場新設・拡大を禁じられたこと,第3次産業の発展に伴う事務所街の発展によって地価が上昇していることなどから,郊外の外帯や地方に転出する工場が増大している。資力のある発展しつつある工業が市外に転出する一方,零細な町工場と建設・土木業関係の企業だけが市内に残るため,とくにパリ東部では職場を失う人,低賃金の職場に転職する人が多くなっている。それに伴ってパリ市内の人口は減少し,外帯の人口が増加している。他方,パリ西部では,第3次産業の発展による中産階級の通勤が遠距離化し,昼食に帰宅する伝統的な生活様式を維持できる人々が減少し,職員食堂が増加している。また近年は遠い郊外に住み,ウィークデーだけパリにいる人,いわばパリに〈別荘〉をもつ人も増加し,こういう〈別荘〉が市内で5万戸に達しており(1982),とくにシャンゼリゼ,サン・ジェルマン,モンマルトルに多い。

 これらの都市問題を解決するため,パリ市内における事務所機能の拡大を抑制し,むしろ工業・手工業機能を確保し,再開発による住環境を整備する一方,近郊からの通勤を容易にするために地域高速鉄道網(RER)を完成させ,さらに工業団地,県庁など行政機関,大学,商業・各種サービスセンターを備えたニュータウンを建設して,パリへの昼間人口の集中を抑えようとしている。代表的なニュータウンは,パリから17kmのマルヌ・ラ・バレ,次いでサン・カンタン・アン・イブリーヌ,エブリ,セルジ,ポントアーズ,そして40km離れたムラン,セナールなどである。計画としては,増加する人口の3分の2,新築家屋の4分の1,事務所面積の3分の1,工場面積の3分の2をこれらニュータウンが引き受けるとしている。ニュータウンは,しばしば実験的・前衛的建築からなっており,パリ市内の古びた建物からは想像できない色彩と形状を備えている。実際,市内の建築の約80%が1948年以前に建設されたものであって,現代のフランスを理解するうえでも,ニュータウンを見のがすことはできない。

 なお,空港は市の南14kmにあるオルリー空港と,北東25kmにあるシャルル・ド・ゴール空港がある。また,1994年開通のユーロトンネルにより,パリ~ロンドンは約3時間で結ばれることになった。
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パリ盆地には,ローマ人のガリア征服により約2000年も前から定住者がいたと推定されるが,最初にセーヌ川の現在のシテ島に住みついたのは,ケルト系のパリシイ族Parisiiであった。彼らは,カエサルのガリア征服の半世紀ほど前には,工芸品ともいえるみごとな金貨を鋳造し,セーヌ川によって交易していたとされる。しかし侵入したローマ軍の圧力でパリシイ族はこの島を放棄し,以後ローマ人はこの地をルテティアLutetiaと称した。これから半世紀後にいたって,ローマ人はこの地に都市を築いた。東西,南北に伸びる街路,シテ島からセーヌ川左岸にかけての野外劇場,集会場,浴場,それに北方のランジスの台地の泉をこの都市に導入するための全長15kmの水道などが建設された。3世紀半ば,聖ドニらによってこの地にキリスト教がもたらされるが,この世紀末期のゲルマン人の移動で,フランク族,アラマン族が侵入し,ローマ人の都市は破壊された。ローマ人はシテ島に退いて城砦を築き,356年にユリアヌスを派遣して防衛にあたったが,かつての都市を再現するには至らなかった。

 メロビング朝が成立し,クロービスがパリに宮殿を建てたことで,この地は小康を得,キリスト教が確固とした基盤を固めた。セーヌ川右岸に大小さまざまの修道院がつくられ,左岸にも後にサン・ジェルマン・デ・プレ修道院に発展する小修道院が建てられた。しかし次のカロリング朝はパリを重視せず,845年から886年までの間しばしばノルマン人の侵入を受けた。このノルマン人の攻撃に対してパリを防衛した指導的人物のパリ伯ウードは,888年にフランク国王になる。この子孫のユーグ・カペーが987年に聖俗貴族の集会で推挙されてカペー王朝が成立すると,パリは新しい発展の段階を迎える。

カペー朝のルイ6世(在位1108-37)の頃より,パリは国王の恒常的な居住地となった。農村共同体の出現によって農業生産は飛躍的に上昇するとともに,それを基盤として封建諸侯が出現し,国王は封建諸侯の推挙によってその頂点に立った。農村共同体の成立とともに,パリ周辺では修道院を中心に農地の開墾が盛んに行われ,パリを中心とする物資の流通も発展した。後にグレーブ広場となるセーヌ川右岸の河岸に市場が開かれたが,ルイ6世は1137年にこの市場を当時シャンポーと呼ばれた場所に移転させて規模を拡大し,さらにフィリップ2世(在位1180-1223)は,市外のサン・ラドル市場もそこに併せ,高い屋根の別棟を二つ建てた。これが1969年まで維持されたレ・アル(パリ中央市場)の起源である。このときレ・アルの周辺には,これまでシテ島内にあった肉屋や毛織物などの同職組合が移り,街路にそれぞれの業種の名を付した。またシテ島内にはM.シュリによってノートル・ダム大聖堂が建てられた。

 フィリップ2世は1190年第3回十字軍に出発するに際し,パリに城壁を築くことを命じ,シテ島内の王宮のほかにセーヌ川右岸にルーブル宮を建てた。また市内の道路の舗装にも着手した。さらにこの時代にパリ大学の基礎が確立された。サント・ジュヌビエーブの丘の周辺(現,カルティエ・ラタン)に集まっていた司教学校や修道院学校の教授や学生が,フィリップ2世から特許状を得て,国王裁判権を免れた一つの社団を形成して,大学の自治を出現させたのがそれである。

こうして中世都市に発展したパリは,国王の任命するパリ奉行prévôt de Parisの裁判権と行政権の下に服していた。国王は初めのうちはパリ奉行を富裕な市民に請け負わせていたが,13世紀半ばより最高の国王役人を任命するようになった。ルイ9世(在位1226-70)治下にこの職に任命されたÉ.ボアローが,王命によって《同職組合の書》を著し,パリの同職ギルドの慣習の一覧を作成したことはよく知られている。パリの市民である手工業者や商人はそれぞれの業種の同職組合に依存して活動したが,こうした勢力を背景に,商人の代表がプレボ・デ・マルシャンprévôt des marchandsとなった。これはパリ奉行の支配下にありながら,商事裁判権を握り,商取引を規制するなどの自治権をもっていた。この自治の起源は,セーヌ川の舟運と商取引を独占していた水上商人組合が中心となって,1210年ころに有力な同職組合を連合させ,市場の統制・管理に乗り出したことにあった。こうした経緯からプレボ・デ・マルシャンの地位は水上商人組合の長が就任するものとみなされた。このいわばパリ市長ともいえる代表者のもとでの自治は,商取引の規制のほかに,市壁,道路舗装,河岸,港,下水,給水泉など市の公共施設の維持にも及んだとされる。

 14世紀に入ると,フランスは領主制の危機,百年戦争,ジャックリーの乱に直面し,国家と社会の変動期を迎えるが,パリでは同職組合が質量ともにその力を増大させ,商人ブルジョアの経済力が高まり,土地を購入して地主化する富裕な市民も発生するようになる。人口はヨーロッパの都市のなかで最大の20万に達したといわれる。こうした背景のもとでプレボ・デ・マルシャンとなったÉ.マルセルは,1357年にパリで開かれた全国三部会を動かして,王権に対して国制改革を約束させたが,この〈大勅令〉が拒否されると翌年に反乱を起こした。しかし64年に即位したシャルル5世は,絶対王政に向かって中央集権化に努め,フランスに小康をもたらした。彼はセーヌ川右岸の商工業地域の拡大に対応した新たな城壁を築き,またバスティーユ城塞を建設してパリの反乱に備えた。しかし彼の死後,パリはマイヨタン一揆(1382)やカボシュー一揆(1413)を発生させ,一時はパリ奉行も廃止されるという事態も起こり,パリと王権の対立は深まった。加えて諸貴族はアルマニャック家とブルゴーニュ家の両陣営に分かれて全国で戦い,これに百年戦争がからんで混乱した政治状況が生まれた。経済的困難に加え,ペストの流行と戦争のなかで人口は1380年から1400年にかけて半減したとみられており,一地方都市になったかにみえたパリは,ようやくアラスの和約の後,1436年にシャルル7世をパリに迎え入れ,この王権の下での国家統一を支持するにいたり,手工業者や商人に対する王権の支配が強化された。

ここで中世末期の都市パリの景観をみておこう。パリの動脈はつねにセーヌ川であった。穀物やブドウ酒4~5樽を積んだ小舟が河岸の港に着き,パリ市民の生活を支えていた。シテ島を通ってセーヌの両岸に通じていた橋はまだ二つしかなく,上流のそれはノートル・ダム橋とそれに続くプチ・ポン,下流の橋はポントー・シャンジュ橋とそれに続くサン・ミシェル橋であった。これらのいずれの橋の上にも家屋が建てられていた。橋を渡る者には通行税が課せられていたが,学生だけは免除された。セーヌ川はしばしば洪水を起こしたが,1499年にはノートル・ダム橋が橋上の家もろとも流失した。翌年に再建工事が始まり,これまでの木造の橋に代わって六つのアーチに支えられた石橋が出現した。橋上の両側には26軒ずつ3階建ての家屋が建ち,その1階がアーケード付きの店舗となり,人々の目をみはらせた。当時の一般の家屋は木骨で,壁面にそれが露出した造りである。こうした造りの4~5階建ての家屋が街路に建ち並ぶという状態も一部に出現していた。

 街路は,サン・マルタン通りやサン・ジャック通りで8~9mの幅をもっていたが,シテ島内はほとんど1~1.5mであった。パリ奉行の下には道路管理官が置かれ,路上の状態の取締りにあたっていた。窓から水を捨てる場合,住民は〈水に注意!〉と3度叫ぶことを義務づけられていたという。台所の塵芥を路上に捨てることは禁止され,各世帯は自宅前の路上の清掃に責任を負い,さらに自己負担で塵芥を市外に捨てに行かねばならなかった。そのため住民は共同で塵芥運搬用の車を借りたりしていた。

 生活に必要な水はセーヌ川と井戸にたよっていた。セーヌの水を桶に汲んで市中を売り歩く水売りの姿は,13世紀にすでにみられる。また修道院が地下水路をつくってベルビルの台地の泉から水を市内に引き入れ,プレ・サン・ジェルベの村落の泉からは鉛の導管で水を引いていた。この水は特権階層が優先的に使用したため,13世紀に市内に三つの公共用の給水泉が初めて設けられたにもかかわらず,給水泉から水が出ないという状態だった。

16世紀にはいるとフランスはルネサンス文化の洗礼を受ける。フランソア1世(在位1515-47)は王権の強化に努める一方で,その宮廷に文人や美術家を招いたが,その一人G.ビュデは,1530年パリにコレージュ・ド・フランスの前身である王立教授団を設立し,ユマニストの拠点とした。しかし,この頃より宗教改革運動の波がパリにも及び,新教派ユグノーとカトリックの対立が激化し始めた。パリはソルボンヌとパリ高等法院を支えとしてカトリックの力が強く,宗教戦争の発生で王権が危機に陥る状態のなかで,パリの手工業者もカトリック側に加担していく。そして72年にはついにパリでサン・バルテルミの虐殺が発生した。バロア王朝断絶の後,新教派のアンリ4世が新王の宣言をすると,これにとりわけ反発したのがパリの旧教同盟で,市内16街区の代表が〈16人会〉を組織して,抗戦の体制をつくった。しかしアンリ4世は戦況を有利に展開しつつ,自らはカトリックに改宗して,ブルボン王権による国家統治の実現を目ざした。こうしてアンリ4世は94年パリに入城する。

このとき,アンリ4世は最初の布告のなかで,水の不足に悩むパリ市民のために給水泉の修復を命じ,併せてこれまで特権階層がもっていた取水の優先権を制限した。また給水泉の工事のためのブドウ税を新設した。こうして,アンリ4世は,宗教戦争で荒廃したパリに王権による支配を確立しようとする強い意志を示したのである。国王は新たな都市建設に努め,シテ島西端にドフィーヌ広場を,サンタントアーヌ街にロアイヤル広場(現,ボージュ広場)を設けた。またシテ島西端にすでに工事中だったポン・ヌフを完成させ,橋上にはこれまでのように家屋を建てさせず,歩道と欄干を備えさせた。さらにこの橋にパリで最初の水力ポンプ揚水場を建設し,セーヌ川の水をルーブル宮とチュイルリー庭園に導いた。この新しい橋といい,橋上の揚水場の堂々たる建物といい,ルーブル宮殿からの展望に偉観を加えるもので,パリ市民に新しい王権の力を誇示しようとするものであった。

 一般庶民の生活に直結する道路の管理にも力が入れられた。1563年以来パリ16街区の各区に2人ずつの塵介掃除人が配置されていたが,アンリ4世は,家屋の窓から物を投げ捨てることを厳禁し,塵介は路上に備えた籠に集積するものとし,収集車を毎日巡回させて,市外の投棄場所に運搬することにした。

ルイ13世(在位1610-43)の下で宰相となったリシュリューは,絶対王権の確立に力を尽くした。パリの市街はさらに発展を遂げ,サン・ルイ島やフォーブール・サン・ジェルマン街が富裕階層の街区として出現したほか,新しい市街地のための区画整理が行われ,投機の対象ともなった。リシュリュー自身,後にパレ・ロアイヤルとなる自邸を建て,その周囲の街区の整備に力を入れ,新しい屋敷町を実現した。またリシュリューはソルボンヌを再建し,ルイ13世は新たにパリの城壁を築いた。

 パリはこうした都市建設でうるおい,豊かになったブルジョア層のなかにはパリ周辺の土地を取得し,また官職を買い取って身分的上昇を遂げる者も出てきた。ロアイヤル広場の周辺にも,こうした富裕層が住みつくようになり,この広場やパレ・ロアイヤル界隈(かいわい)のにぎわいは,パリの伝統的手工業が生み出す奢侈品に販路を開くことになった。

 5歳で即位したルイ14世の下で,リシュリューの後をうけて宰相となったマザランは,三十年戦争の戦費負担の問題で1648年にパリ高等法院を中心とする法官の反抗に遭い,次いでパリ民衆も重税に反対して反乱を起こした。このフロンドの乱でルイ14世は一時パリを離れたが,翌年パリで妥協が成立した。地方のフロンドの乱を平定したマザランが61年に死去すると,ルイ14世の親政が始まり,フランスは内外ともに安定する。ルイ14世は70年にパリの城壁の撤去を命じ,その跡を幅36mの並木道,いわゆるブールバールとして造成し,以後パリの住民の散策の場として発展することになる。

 1702年市内は20街区に分けられたが,このうち15街区がセーヌ右岸にあった。人口はアンリ4世の時代からみると倍増して42万5000となっていた。そして富裕層が多く住む街区と民衆層が多く住む街区に分かれ,それぞれ異なった特色のあることがパリの地図の上に鮮明になってきた。リシュリューが形成したパレ・ロアイヤル界隈やフォーブール・サン・ジェルマン街,サントノレ街などが貴族や上層ブルジョアの住む街区として美しく飾られていく一方で,フォーブール・サンタントアーヌ街のような手工業者・民衆の街区がひらけていった。

 このフォーブール(城外区)は,中世にサンタントアーヌ修道院を中心に形成されたが,17世紀になると王の特許状を得た家具職人が集まり住むようになった。18世紀初頭には家具商や材木商も住みついて,この街の特色ができあがった。さらにコルベールが創設した王立ガラス工場では,18世紀になると500人の労働者が働いていた。またフランス革命直前にレベイヨン事件で有名になる壁紙工場もここに立地していた。王権の産業育成策によって,フォーブールにはマニュファクチュア形態の工場も設けられた。セーヌ川左岸のサン・マルセルもこうしたフォーブールであり,ビエーブル川沿いの地区には,毛織物の仕上工場や皮革製造所が建ち並び,王立ゴブラン織工場もここに設置されている。

1661年,ルイ14世の親政が始まると,人口の増大に伴ってパリの行政と治安のための施策はいちだんと強化された。67年にルイ14世はパリ警視総監を置いたが,その権限はしだいに拡大し,70年の布告では,パリ市民の日常生活から宗教,科学,産業をも取り締まるものとされた。総監は多数の警視を擁し,独自の法廷を開き,国王の名において投獄,追放を命ずる封印状を発することができた。増大する浮浪者などのいわゆるマルジノー取締りが強化され,1657年にはオピタル・ジェネラルと称される強制収容所がパリにも設置された。そこには4万8000人といわれた浮浪者のうち1万人を収容したという。

 また都市施設の管理にも力が入れられる。コルベールは1666年に,パリには22の給水泉しかなく,50~60は必要であると警察の会議で述べたが,71-72年にノートル・ダム橋の上に2台の水力ポンプ揚水場を設置して,市内に15の給水泉を出現させた。彼の死後の95年にもトゥールネル橋に同様の揚水場ができた。そして18世紀に入るとパリは50の給水泉をもつようになる。

 17世紀には街灯が現れた。道路中央の柱や壁から出た腕木にろうそくのカンテラを下げたものだったが,18世紀になると灯油が使用されるようになった。1769年,街灯は会社の運営となり,そのときの総数は6000であった。街路名が四つ辻に掲げられるようになるのが1728年,一般の家屋に番地が付けられるのが79年,街路と街区はこのようにして管理されるようになる。

しかし18世紀の人口はさらに増大し,60万~70万と推定されている。新しい街区の建設も進んだが,老朽化した家屋,不完全な下水道や街路の状態など,パリの衛生状態が医学の問題としても取り上げられるようになった。こうした状態は庶民の生活に重くのしかかり,1770年に1000人の新生児の平均寿命は29歳,このうち1年以上を生きた3分の2についての平均寿命は40歳に達しなかった。

 この当時の手工業の親方は3万~4万人とされ,職人はその2~3倍の数に達していた。そのほかに臨時の雑業に従う日傭いや人夫などの下層労働者,またプチ・メチエと称される路上の呼売りなどでその日を暮らす貧民がいた。労働人口の約半数はこうした下層労働者や貧民であった。都市の施設はこうした庶民の生活環境を改善するには不十分であった。基本的な生活用水の確保についてみても,18世紀には目だった前進はなかった。1778年から81年にかけて,ようやくセーヌ川右岸のシャイヨに蒸気ポンプの揚水場ができ,87年には左岸のグロ・カイユーに同様の揚水場が完成したが,これを経営した会社は破産してしまった。

 それにもかかわらず18世紀のパリは〈啓蒙の都市〉と呼ばれることがある。確かにパリにはアカデミーや学会が多数できて活動し,科学者,哲学者,文人が集まってサロンでの議論に加わった。さまざまな協会やクラブが成立し,ダランベールらの《百科全書》をはじめ,出版活動が盛んとなり,日刊紙も出現した。18世紀末には,オデオン座コメディ・フランセーズ座なども新たに劇場を完成させ,オペラ座の発展も見のがせない。このように進んだ文化が,自らの足もとであるパリの状況に無関心であったわけではない。たとえば《百科全書》に象徴される新しい知の体系のなかから,パリの病理を追究する公衆衛生学が出てくるのである。

19世紀に入ったパリは,1784~90年に築かれた〈徴税請負人の壁〉と称される市壁によって囲まれていた。この市壁には60ばかりの市門があり,そこで市内に入る生活必需品の入市税が徴収された。このため市壁に対するパリ民衆の評判は悪く,フランス革命の際にはパリ民衆によっていくつかの市門が襲撃され,91年から96年まで入市税は廃止された。しかしこの税金は,19世紀に入って急激に人口が増大していくパリの都市機能をまがりなりにも維持していく主要な財源となっていた。

 1801年には54万6000であった人口は,51年には105万3000に膨張したが,これはナポレオン帝政以降の産業発展によって,稼ぎ口を求める人々が再びパリに流入してきたことによる。フランス革命期に後退した奢侈品や家具などの伝統的な工業が活気を取り戻し,1807年には建築業で2万5000,被服産業や食品業で各1万5000,金属産業で1万の労働者が働き,全人口の半数が工業で生活するにいたった。パリは48街区に分かれていたが,中心部の諸街区,とくに市庁のあるオテル・ド・ビル,その西隣のアルシ,シテ島内のシテは,超過密状態となり,古い家屋は貧民宿となって流入してきた人々が密集し,外辺部のいくつかの地区とともに,貧困と犯罪の巣となったといわれる。

 パリは膨張する人口をもはや支えきれなくなっていた。汚水,塵介,し尿などの処理にゆきづまり,セーヌ川の汚染が深刻化したが,パリ市民の大部分はその水をそのまま飲料水としていた。1802年ナポレオンの決断でウルク運河の工事が始まり,25年に96kmに及ぶこの運河によってパリに水がもたらされるが,それでもパリ市民が1日に使用できる水量は6lだったといわれる。パリの労働者階級は一年中,ふろに入ることはなかった。下水道の整備にも追われたが,汚水はすべてセーヌ川に流れ込んだ。こうした状況のなかで32年にはコレラの大流行があり,1万8402人の死者を出した。公衆衛生学者が対策や調査に活躍するが,医学は病気の治療には無力で,コレラの特効薬はショウノウだと信じられた。

都市の問題はさらに中央市場,交通,食糧供給,貧民の監視など幾多の局面に及んだ。ナポレオンはレ・アル(パリ中央市場)の整備と分散を計画するが果たさず,41年にレ・アルのセーヌ川左岸のブドウ酒市場への移転案が市の委員会に提出されたが,これも実現しなかった。かろうじて1810年に五つの屠殺場が市内の外辺部に建設された。それまでは市の中心部の肉屋の店先で屠殺が行われ,市中を家畜の群れが市場に向かうという状態であった。

 中央市場には荷車や馬車や荷担ぎ人,便利屋などが集まってくるが,街路は狭く交通が渋滞し,パリ中心部を東西,また南北に通り抜けることが不可能になっていた。貸馬車や辻馬車の増大,28年からは乗合馬車路線も続々と生まれて,パリの交通問題はいちだんと深刻化した。一方,フランス革命期に食糧危機に直面したことが,サン・キュロット運動の原因の一つとなったことは支配者の記憶に新しいところであったから,民衆蜂起の危険を避けるために,パリ警視庁は19世紀を通じてパン屋とパン価格の統制には力をいれていた。

 パリの管理に責任を負ったのは警視総監とセーヌ県知事であったが,両者の権限はしばしば衝突した。しかし警視総監の活躍は都市問題全般にわたっており,48街区のそれぞれに警察署が置かれ,多数の警視と機動隊を指揮下に収めていた。警視総監の下にはパリ衛生審議会が置かれ,多くの公衆衛生学者が参加してパリの都市環境の調査や改善策を提出し,また実施した。にもかかわらず,パリを管理することは容易ではなかった。いまだ基本的な施設すら十分でなかったから,諸施設のシステムの網の目によって住民の生活をコントロールし規律づけることができなかったのである。

このような都市で自らの労働をたよりとして生きていかねばならぬ民衆にとって,支えとなるのは人と人との間の直接的な絆(きずな)であった。この絆を新しくつくり出し,また保持する場として重要な役割を果たしたのが居酒屋であった。19世紀になるとパリの市内や,市門の外には居酒屋や〈関〉の酒場が急激に増大した。パリの民衆はこうして,支配者の管理の外に自立した生活圏をつくり上げていき,フランス革命期のサン・キュロット運動の記憶とともに,1830年,32年,34年,48年と,新たな民衆騒擾を生み出す条件となった。

 したがって,これらの運動は都市騒擾としての側面を多分にもっていた。たとえば48年の二月革命の際,民衆は市門の入市税徴収所のほとんどすべてを襲撃して破壊した。また当時セーヌ川に架けられた16の橋のうち,そのときまで渡橋する者から税を徴収していた10の橋の収税所を破壊し,税金の徴収を廃止させた。また民衆は運動に際し,自分の住む街区の商店主層を中心に組織されていた国民軍の武力とも対決しなければならなかった。この国民軍は都市を管理しようとするブルジョア層の最後のよりどころであったからである。

 しかしパリのブルジョア層は,産業化する社会の動きを確実に自らの力としつつあった。19世紀の初め,ブールバールの西側のオペラ座界隈は彼ら新興階級の散策の場として登場してきたが,そこには鉄枠にガラスの入った高い天井をもったパッサージュ(アーケード)やパノラマ館,写真館が並んでいた。初期の百貨店や中国風浴場,レストランも軒を連ねた。パッサージュにはパリで最初のガス灯がともり,名店街が形成された。こうしてこの界隈は,新しい産業と技術の開花を象徴することとなった。

この産業化の上げ潮のなかでパリの改造に着手したのが,ナポレオン3世とセーヌ県知事G.E.オスマンである。まずシテ島内部の貧民街を一掃し,パリの中心を東西および南北に貫通する大通りを建設するとともに,中心部を迂回する大通り,鉄道駅から中心部に向かう交通路,それに西のエトアール広場,東のナシヨン広場を中心として放射状に道路を配置するなど,いくつもの街区を貫通する大通りの建設に力を注いだ。水については160km離れたヨンヌ川などからパリに送水するため水道橋を築き,これによってパリの水量は倍増することになった。下水道については,セーヌ川の両岸に沿って大下水道を建設し,すべての下水をこれに流し込んで市外のセーヌ川下流で放出するようにした。

 1859年の法令で,60年よりパリの市域はティエールが1840年に築いた城壁まで拡大されることになった。旧来の12区は20区になり,面積は34.02km2から78.02km2となる。これまで郊外の町であったラ・シャペル,ベルビル,ビレット,ボージラールなどもパリ市に編入された。新しく編入された地域の人口は,すでに1831年の7万5574から56年の36万4257へとほぼ5倍に激増していた。機械製造業や化学工業,繊維工業などの工場がこの地域に立地しはじめていたことによるものであった。オスマンは新市域に対する道路建設にも力を入れたが十分でなく,ベルビルなどは水道もなく,パリのシベリアといわれた。61年,新しい市域の人口は169万6000に達した。

1870年の普仏戦争と第二帝政の崩壊という事件のなかで,パリはプロイセン軍の包囲するところとなり,パリ市民の日常生活は解体する。民衆は今度は自らの手で国民軍を編成しようとし,しだいにそれが民衆生活と防衛の中心と考えられるようになった。ここで明らかになったことは,パリ改造にもかかわらず,民衆の生活様式や心的態度はいまだ変化していないということであった。71年のパリ・コミューンは,こうして民衆運動の再生として現れ,政府軍の武力により鎮圧される。

 71年以後もパリの人口は増大を続け,72年の185万が1901年には271万となった。この間,パリ改造がつづけられ,とくに外側の諸地区での道路建設が進んだ。しかしこの第三共和政期の特徴は,各街区ごとに小学校が建設されていったことである。これは初等教育の義務化,無償化の進展に呼応したもので,この時代に社会の諸制度の網の目が整えられていくことを象徴するものであった。万国博覧会が1878年,89年,1900年とパリで開かれるが,78年には街灯に電灯が使用され始め,89年にはエッフェル塔が出現し,1900年には初めての地下鉄が完成している。乗合自動車が出現するのは1905年である。産業化の進展のなかでブルジョア層は安定感を得ていたが,1905年5月1日,革命的サンディカリストの8時間労働を要求するゼネストが大規模に展開され,軍隊の出動をみた。

 第1次世界大戦後になるとパリの人口はようやく安定に向かうが,郊外地帯が拡大していった。とくに北部は大工場地帯として発展するが,南部は郊外住宅地となっていった。オスマンのパリ改造の構想のなかには郊外地帯をいかに組織するかという考えが欠けていたといわれるが,この時点でパリは郊外に対する都市計画の必要に直面していたのであった。ティエールの城壁は1919年に取壊しが決まり,20年から24年に実施された。この場合にも,その広大な跡地を,パリ市と郊外を結ぶ交通の要点としておさえ,都市計画を立てるということがなされなかった。パリ市の中心には大会社の本社や諸官庁が集中し,パリ市の人口でもこうしたオフィスに勤務するサラリーマン層や自由業者の比率が増大し,逆に労働者層のそれは減少した。労働者層の比重は郊外で増大し,こうした地域の住宅や交通の問題が深刻化していった。
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パリ
Ferruccio Parri
生没年:1890-1981

イタリアの政治家。反ファシズム活動でたびたび逮捕されたあと,1943年行動党の結成に参加。武装レジスタンス期(1943年9月~45年4月)に行動党を代表して国民解放委員会の指導部に入り,パルチザン部隊の指揮や連合軍との交渉など重要な役割を演じた。ファシズム崩壊後に短期間首相を務め(45年6月~12月),その後も主として独立左派の立場から政治活動を続け,63年終身上院議員となる。
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百科事典マイペディア 「パリ」の意味・わかりやすい解説

パリ

フランスの首都。同国北部,パリ盆地の中央,セーヌ川中流のシテ島を中心に同心円状に広がる。フランスの政治,経済,文化の中心。北緯48°50′にあるが,西岸海洋性の温和な気候で,月平均気温1月3℃,7月19℃,年降水量約600mm。セーヌ川の重要な河港で,フランスの鉄道網の中心をなし,オルリー,シャルル・ド・ゴールなどの国際空港をもつ。機械,自動車,航空機,化学,建設資材,食品加工,印刷などの工業が郊外を中心に行われるが,パリ市そのものは人口がしだいに減少し,サービス産業の中心地になりつつある。服飾,香水,出版などは世界的に有名。市街は19世紀末に大規模な都市計画が行われ,シャルル・ド・ゴール,バスティーユなどの広場を交差点とする放射状道路と城壁跡の環状道路を基礎に構成される。市内は20区に分けられ,中心市街はシャルル・ド・ゴール広場からコンコルド広場に通じるシャンゼリゼモンパルナスモンマルトルにはナイトクラブなどが多い。市の東側には町工場が集まっており,労働者や移民が多い。1900年からメトロ(地下鉄)が建設され,延長約200km,市内交通で重要な役割を果たす。エリゼ宮(大統領官邸),ブルボン宮(国民議会),リュクサンブール宮殿,ユネスコ本部,旧パリ大学(1215年創立),エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校),エコール・ポリテクニク(理工科学校),ルーブル美術館オルセー美術館ケ・ブランリ美術館ギメ美術館オペラ座コメディ・フランセーズなどがあり,またノートル・ダム大聖堂,サクレ・クール教会,サン・ジェルマン・デ・プレ修道院などの聖堂も多く,チュイルリー宮,エッフェル塔のあるシャン・ド・マルス,ブーローニュの森など公園・緑地も多い。 最初ケルト系のパリシイ人が居住していたが,ローマ軍が侵入,以後ルテティアと呼ばれ,前1世紀半ばカエサルに占領された。4世紀ころからパリと呼ばれるようになり,508年フランク王国,987年カペー朝の首都となってからはフランスの中心。12−13世紀フィリップ2世のもとに中世都市として整備される。16世紀にはルネサンス文化の洗礼を受ける一方,宗教改革の波が押し寄せる。17−18世紀にはルイ13世からルイ16世統治下でさらに膨張発展したが,人口増加は貧困化を招き,下水道の不備などと相まって都市民の生活を圧迫した。こうした状況を背景として1789年のフランス革命,1871年普仏戦争敗戦後のパリ・コミューンでは中心舞台となる。こうしたなか,1850年代から1860年代に,ナポレオン3世とセーヌ県知事オスマンによって,大通りの建設や下水道の整備などパリ中心部の大規模な都市改造が行われた。1855年以来数度の万国博覧会,1900年,1924年にはオリンピックが開催された。1940年−1944年はドイツの占領下にあった。1960年代,アルジェリアをはじめとする旧植民地からの移民労働者が激増。現在,郊外も含めたパリ地域の移民人口は100万人を超えている。218万1371人(2006)。首都圏人口は1014万2977人(2006)。(図)
→関連項目アンバリッドケイタパリオリンピック(1900年)パリオリンピック(1924年)パリのセーヌ河岸フランス

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パリ」の解説

パリ
Paris

フランスの首都。セーヌ川のシテ島にケルト系パリシイ人が住み着いたのが名前の由来。ローマ時代にはルテティアと呼ばれた。中世初期,パリ伯の子孫がカペー朝を開きフランス王となって以来,パリは首都としての役割を担うと同時に,司教座聖堂(ノートルダム)や大学を有する宗教や学問の中心となった。周囲には幾度か城壁が築かれ,商工業者や商人たちが市政を担ったが,絶対王政下では王権がしだいに都市支配を強化していった。フランス革命期のパリは政治の重要事件の舞台で,19世紀の諸革命もパリで生じており,近代のパリは何より政治の中心であった。他方,コレラの発生をみた19世紀には上下水道の整備や公衆衛生において進展がみられ,第二帝政期には知事オスマンによって大規模な都市改造が行われた。以来パリでは新しい科学技術や最先端の流行が示され,万国博覧会も開かれた。第二次世界大戦では一時ドイツに占領されたが,戦後は再びヨーロッパの政治や文化の中心としての役割を果たしている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パリ」の解説

パリ
Paris

フランスの首都。セーヌ川に面し,ローマ時代にはルテティアと呼ばれ,ガリア地方の河川交通の要地。名称は先住ケルト人のパリシイ族に由来する
508年,フランク王国初代の王クローヴィスが宮殿を建設し,987年のカペー朝以後に首都となり,12世紀には大学も創立された。ルイ9世時代に発展し,百年戦争では一時イギリスの侵略を受けたが,16世紀以後はフランスを代表する文化都市となった。フランス革命の舞台となり,その後,七月革命・二月革命・パリ−コミューンなどの中心ともなって,革命の都と呼ばれた。1871年,普仏 (ふふつ) 戦争で一時ドイツ軍が占領。その後も多くの会議・条約締結の場所となり,ヨーロッパの文化や思想の中心としての地位を保った。1940年第二次世界大戦でまたドイツ軍に占領されたが,44年に解放された。現在,ユネスコ・経済協力開発機構(OECD)本部があり,郊外にはルイ14世造営のヴェルサイユ宮殿がある。

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デジタル大辞泉プラス 「パリ」の解説

パリ〔曲名〕

オーストリアの作曲家W・A・モーツァルトの交響曲第31番K297[300a](1778)。原題《Paris》。パリのオーケストラ、コンセール・スピリチュエルのために作曲された。

パリ〔香水〕

《Paris》フランスのファッションブランド、イヴ・サンローランのフレグランス。1983年発表。調香師、ソフィア・グロスマンの作。

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367日誕生日大事典 「パリ」の解説

パリ

生年月日:1838年8月24日
オルレアン公フェルディナンの長子,フランス王ルイ・フィリップの孫
1894年没

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世界大百科事典(旧版)内のパリの言及

【区】より

…政治的には区長は地区民主党組織の利害代表であることが多い。フランスでもパリ市に20の区arrondissementが設置され,当該区選出の市会議員,市長任命の戸籍官,市議会の選出した者からなる区委員会が,一部の地域行政を処理している。イギリスでは,1963年以来,ロンドン地区に広域自治体として大ロンドン県Greater London Councilが設けられ,その下に,ロンドン市と32の区London Boroughが設けられている。…

【首都】より

…アメリカのワシントンは直接公選の首長と議会をもつが,行財政について連邦議会の承認を必要としている。フランスのパリは市および県としての機能を有する自治体である。長らくパリ市長は中央政府が任命してきたが,1977年以来市長は市議会での選挙となり,またパリの20区arrondissements municipaux委員会委員および執行部の選出も自治に基づくものへと改められた。…

【第二帝政】より

…しかし,70年7月19日ビスマルクの策謀によってプロイセンに宣戦布告(普仏戦争)し,9月2日に降伏した。その知らせが9月4日パリに届くや,民衆が一斉に蜂起し第二帝政はあえなく崩壊した。
[経済,社会]
 第二帝政期は,フランスにおける経済的・社会的転換期をなしている。…

【都市計画】より

…そして居城,市場,教会を中心に高密度な市街地が形成されていた。ルネサンス期になると商業の発達が著しく,パリ,フィレンツェ,ベネチアなどの都市の人口が増加し,中世の都市の改造が行われはじめた。16~17世紀にかけて,デューラー,スカモッツィなどの理想都市の提案があった。…

【ノートル・ダム大聖堂】より

…パリのシテ島にある司教座教会。フランス・ゴシック建築のなかでは西正面が最も調和を見せている,初期ゴシック建築の壮大な作例である。…

【乗合馬車】より

…また,この言葉からバスの語が派生した。 哲学者のパスカルが17世紀後半に入って最初に考案したといわれ,その計画は1662年にパリ市内で実現され,営業が認可された。この乗合馬車は19世紀に発展したものと同じ性格をすでにもっており,パリの街区から街区へと決められた路線を定時運行し,五つの路線をもち,運賃は5ソルと高価なものだった。…

【ポンピドゥー・センター】より

…パリの中心地区ボーブールBeaubourgにある芸術・文化活動の諸機能を集めたセンター。正称は〈国立ジョルジュ・ポンピドゥー芸術・文化センターCentre national d’Art et de Culture Georges‐Pompidou〉。…

※「パリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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