ミヨー

デジタル大辞泉 「ミヨー」の意味・読み・例文・類語

ミヨー(Darius Milhaud)

[1892~1974]フランスの作曲家。フランス六人組の一人。多調ポリリズム(多リズム)の手法を使って広い分野の作品を残した。作品に、ピアノ曲「ブラジルへの郷愁」「スカラムシュ」、バレエ音楽「世界の創造」など。

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百科事典マイペディア 「ミヨー」の意味・わかりやすい解説

ミヨー

フランスの作曲家。エクス・アン・プロバンスの生れで両親ともにユダヤ系。パリ音楽院コンセルバトアール)に学び,終生の友オネゲルイベールと知り合う。第1次大戦中はクローデルの秘書としてブラジルに滞在。1919年に帰国し〈六人組〉の活動に参加。バレエ音楽《屋根の上の牡牛(おうし)》(1919年。台本コクトー,舞台装置デュフィ),同《世界の創造》(1923年。台本サンドラール,衣装・舞台装置レジェ),管弦楽曲《ブラジルの思い出》(1923年)など,初期の傑作が相次いで誕生した。第2次大戦中は米国に亡命し,カリフォルニアのミルズ・カレッジで教える。1947年−1962年母校作曲科教授。20世紀の作曲家としては友人のビラ・ロボスらと並ぶ多作家として知られ(6つの室内交響曲を含め交響曲だけでも19曲),異なる調を同時に用いる〈多調〉やポリリズム,複雑な対位法書法をしばしば用いるが,いたずらに難解にならず常に調性感を保ち,生命力みなぎる音楽を書き続けた。作品ではほかに,クローデルの台本によるオペラ《クリストフ・コロン(クリストファ・コロンブス)》(1928年),管弦楽曲《プロバンス組曲》(1936年),2台のピアノのための《スカラムーシュ》(1937年),5つの管楽器のための《ルネ王の暖炉》(1939年)などが広く知られる。→ニジンスカ
→関連項目オーリッククセナキスクルターグシャブリエタンスマンビドール別宮貞雄ライヒロン

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改訂新版 世界大百科事典 「ミヨー」の意味・わかりやすい解説

ミヨー
Darius Milhaud
生没年:1892-1974

フランスの作曲家。パリ音楽院に学ぶ。第1次大戦中,外交官詩人P.クローデル秘書官としてブラジルに滞在。戦後帰国して〈六人組〉に参加。第2次大戦中はユダヤ系であったためアメリカに亡命し,カリフォルニアのミルズ・カレッジで教鞭をとる。1947-62年パリ音楽院作曲科教授。職人的技術をもち,多作家で知られるミヨーの音楽は,20世紀の作曲家としては異例といえるほど膨大な量に上ると同時に,またあらゆるジャンルに及んでいる。論理的構成と多調性,ラテン的明澄性と抒情性を特徴とし,いわゆる新古典的作風を示している。代表作にクローデルの台本によるオペラ《クリストフ・コロン》(1928),J.コクトーの台本によるバレエ曲《屋根の上の牡牛Le bœuf sur le toit》(1919),B.サンドラールの台本による,同《世界の創造》(1923),オーケストラ曲《ブラジルの思い出》(1921),同《プロバンス組曲》(1936),2台のピアノのための《スカラムーシュ》(1937)などがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミヨー」の意味・わかりやすい解説

ミヨー
みよー
Darius Milhaud
(1892―1974)

フランスの作曲家。エクサン・プロバンス生まれ。1909年パリに出て、パリ音楽院でクサビエ・ルルー、ジェダルジュ、デュカース、ビドールに師事。第一次世界大戦中には外交官詩人ポール・クローデルの秘書官としてブラジルに滞在。戦後パリに戻り、オネゲル、オーリック、プーランクタイユフェール、デュレーとともに、いわゆる「六人組」の一員となり、作曲家として活躍。第二次大戦中はアメリカに亡命し、カリフォルニアのミルズ・カレッジで教鞭(きょうべん)をとる。47~61年パリ音楽院作曲科教授。ジュネーブに没。多作家として知られ、作品は膨大な量に及ぶ。その音楽はラテン的明澄性と論理的構成を特徴とし、多調性やジャズのイディオムを巧みに取り入れた新古典主義的作風を示している。作品には、クローデルの台本によるオペラ『クリストフ・コロン』(1928)、バレエ音楽『屋上の牡牛(おうし)』(1919)、同『世界の創造』(1923)、管弦楽曲『ブラジルの思い出』(1921)、同『プロバンス組曲』(1936)、数多くの交響曲、種々の独奏楽器のための多くの協奏曲、膨大な数の室内楽曲、二台ピアノのための『スカラムーシュ』(1937)、ピアノ曲、独唱曲など多数がある。

[寺田兼文]

『J・ロワ著、広田正敏訳『ミヨー』(1971・音楽之友社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミヨー」の意味・わかりやすい解説

ミヨー
Milhaud, Darius

[生]1892.9.4. エクサンプロバンス
[没]1974.6.22. ジュネーブ
フランスの作曲家。ユダヤ人の家系に生れ,パリ音楽院で P.デュカース,V.ダンディに師事。 1916~18年は P.クローデルの秘書としてリオデジャネイロに滞在。帰国後「六人組」を結成した。 J.コクトーやクローデルの協力でバレエ曲を作曲。 40年にカリフォルニアのミルス・カレッジ教授,47年にパリ音楽院の教授。作風は複調と多調の技法を使用し,オペラ,バレエ曲,交響曲,協奏曲,管弦楽曲,器楽曲,映画音楽など,1960年代までに 400曲以上を作曲した。主作品はバレエ『世界の創造』 (1923) ,オペラ『コロンブス』 (30) ,管弦楽曲『プロバンス組曲』 (37) ,ピアノ二重奏曲『スカラムーシュ』 (39) 。

ミヨー
Millau

フランス南部,アベロン県の町。グランコースの石灰岩台地を刻むタルン川とドゥルビ川の合流点にあって,コースの牧羊を背景とした羊皮の手袋と羊乳製のロクフォール・チーズで有名。ローマ人による征服以前ケルト人の町があったところで,ローマ人は陶器生産の中心地として発展させた。 17世紀初頭にはユグノー派の牙城の一つであった。人口2万 2458 (1990) 。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ミヨー」の解説

ミヨー

裕福なユダヤ人家庭に生まれ、仏プロヴァンス地方で育つ。7歳よりヴァイオリンをはじめ、まもなく作曲も始める。パリ音楽院へはヴァイオリン専攻で入学するが、次第に作曲こそが自らの天職であると感じるようにな ...続き

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世界大百科事典(旧版)内のミヨーの言及

【映画音楽】より

…以下,そのおもな作品と作曲,編曲者をあげる。1919年,アメリカ映画《散り行く花》(L.ゴットシャルト),22年,フランス映画《鉄路の白薔薇》(A.オネゲル),アメリカ映画《愚かなる妻》(S.ロンバーグ),23年,ドイツ映画《ニーベルンゲン》(G.フッペルツ),フランス映画《人でなしの女》(D.ミヨー),25年,ソ連映画《戦艦ポチョムキン》(E.マイゼル),26年,フランス映画《ナポレオン》(A.オネゲル),ドイツ映画《メトロポリス》(G.フッペルツ),29年,ソ連映画《新バビロン》(ショスタコービチ)等々。
[トーキー以後]
 光学録音の発明とともに音と映像がいっしょにフィルムに密着することによって,音楽と映画の結びつきはより親密に,より実験的,前衛的になる。…

【ジャズ】より

… この時期,忘れてならないのはナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命したヨーロッパ音楽の巨匠の多くが,気候温暖なカリフォルニアに定住し,生活のため大学の教壇に立ったことである。D.ミヨー(ミルズ・カレッジ),A.シェーンベルク(南カリフォルニア大学。のちのカリフォルニア大学ロサンゼルス分校),トッホErnst Toch(1887‐1964,オーストリアの作曲家。…

※「ミヨー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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