日本大百科全書(ニッポニカ) 「キネマ旬報」の意味・わかりやすい解説
キネマ旬報
きねまじゅんぽう
日本でもっとも歴史ある映画雑誌。外国映画を愛好する、田中三郎(たなかさぶろう)(1899―1965)ら東京高等工業学校(現、東京工業大学)の学生によって、1917年(大正6)に同人誌として創刊された。関東大震災の影響で、1923年から1927年(昭和2)まで大阪に本社を置くが、その間に創設された「キネマ旬報ベスト・テン」は、興行成績によらない、アカデミックな選考基準に基づく映画賞として評価されている。第二次世界大戦前は若い知識人を読者層にもち、学生時代の古川緑波(ふるかわろっぱ)も同人として寄稿していた。創刊当初は、アメリカ映画を中心に外国映画を紹介する雑誌であったが、しだいに日本映画も取り上げられ、日本の映画批評における論壇としての役割を果たした。戦時下の雑誌統制のため、1940年に終刊となるが、戦後の1946年(昭和21)に復刊し、その後は1950年の一時休刊等を経て、現在まで発行され続けている。近年は、過去の誌面に掲載された、作品や人名の記録をデジタル化したデータベースが、インターネットで提供されている。
[上田 学]
キネマ旬報ベスト・テン
1924年(大正13)に創設され、現在も存続している、日本でもっとも長い歴史をもつ映画賞。主催はキネマ旬報社で、毎年雑誌『キネマ旬報』の2月発行の号に選考結果が掲載される。当初は雑誌読者による投票制で作品が選ばれ、第1回は外国映画を好んだ読者層を反映して、日本映画が選出されず、芸術映画部門で『巴里(パリ)の女性』(チャールズ・チャップリン監督、1923年)が、娯楽映画部門で『幌馬車(ほろばしゃ)』(ジェームズ・クルーズJames Cruze(1894―1942)監督、1923年)が1位を受賞した。1926年から日本映画と外国映画に部門が分かれ、1932年(昭和7)から選考委員による投票制へと選出方法が変更された。第二次世界大戦時中の1940年に、雑誌統制によって『キネマ旬報』が終刊したため、日本映画部門のみ後続誌『映画旬報』に掲載され続けたが、これも1942年で中止。戦後の1946年(昭和21)、『キネマ旬報』復刊とともに復活し、1955年からは個人に与えられるキネマ旬報賞も設けられた。興行成績に左右されない、アカデミックな選考基準に定評がある。
[上田 学]
『『キネマ旬報増刊 戦後キネマ旬報ベスト・テン全史』(1984・キネマ旬報社)』▽『『復刻版 キネマ旬報』第1巻(1993・雄松堂出版)』