シャフリル

百科事典マイペディアの解説

シャフリル

インドネシア社会党の指導者。西スマトラのミナンカバウ族の出身。オランダに留学して独立運動に参加,1931年帰国し,インドネシア民族教育協会を指導するが,1934年イリアンなどに流刑される。1941年以降の日本軍政下ではジャカルタに戻るが,日本への協力は拒否した。1945年11月《我らの闘争》を出し民主制の確立と親西欧協調路線を訴え,スカルノの対日協力姿勢を厳しく批判した。この宣言は青年,知識人に支持され,1945年から1947年まで,首相,外相として旧宗主国オランダとの交渉を進めた。1948年,インドネシア社会党を結成し党首となり,西欧的議会民主主義の確立を唱えて知識人層の支持を得たが,スカルノと敵対し,1962年反政府活動で逮捕された。1966年亡命先のスイスで客死。書簡集《流刑地から》はいまも読みつがれている。 →インドネシア

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世界大百科事典 第2版の解説

シャフリル【Sutan Sjahrir】

1909‐66
インドネシア共和国の政治家。インドネシア社会党の指導者で,スカルノの政敵。ハッタと同じく西スマトラのミナンカバウ族の出身。20歳の時ライデン大学に留学して以来政治活動に入り,1931年に帰国してからは,ハッタとともにインドネシア民族教育協会を指導した。34年以来イリアンとバンダネイラに流刑となり,日本軍政中にジャワへ戻ったが,軍政への協力は拒んだ。45年11月に《われらの闘争》という政治宣言を記し,スカルノを対日協力者であるとして厳しく批判し,民主主義政体の樹立を訴えて青年,知識人の支持と国際的な声価を得て政界入りした。

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世界大百科事典内のシャフリルの言及

【七月三日事件】より

…前年8月に独立を宣言したインドネシア共和国は,独立の実質を獲得するため旧宗主国オランダと戦争状態にあったが,国内ではジャワ島とマドゥラ島に限定して主権を回復しようとする〈外交派〉と呼ばれる穏健派と,全領土の完全独立をめざす〈闘争派〉と呼ばれる強硬派が拮抗していた。この事件では,後者がシャフリル首相ら外交派の政府要人を拉致し,権力の奪取をはかったとされる。計画は失敗してタン・マラカら闘争派は封じ込められ,以後,シャフリルの親西欧協調路線が大枠としてインドネシアの政治をリードする契機になった。…

【パルティンド】より

…その後,釈放されたスカルノを党首に迎えて勢力を伸ばしたが,再び政庁の弾圧を受け,36年に解散した。なお,国民党の解散に反対した少数派は,教育によって人民の政治意識の成熟をはかることが独立への課題であるとして,オランダ留学帰りのシャフリル,ハッタを中心にインドネシア国民教育協会を結成したが,このときの亀裂が,45年の独立革命以降も,共和国内のいわば土着派と親西欧派の対立に尾を引いた。【押川 典昭】。…

※「シャフリル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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