インドネシアの政治家。元副大統領。スマトラ島西部のミナンカバウ族の出身で,ブキ・ティンギに生まれたが,1920年代のほとんどをオランダですごした。留学中から民族主義運動に加わり,インドネシア協会の指導者として頭角を現した。26年末にインドネシア共産党の指導者であったセマウンとの間に〈反植民地運動の主導権を共産主義者から民族主義者へ委譲する〉旨のハッタ=セマウン協定を結んだ。32年に帰国し,シャフリルとともにインドネシア民族教育協会を指導して,当時インドネシア党を率いていたスカルノとの間で,現状認識,組織論,運動論をめぐって激しい論争を展開した。34年に逮捕され,ボーフェン・ディグール(イリアン),バンダネイラ(バンダ島)へ流刑された。日本軍政中に政界に復帰し,45年8月17日の独立宣言にはスカルノとともに署名した。その後,共和国初代副大統領としてスカルノと並び立ち,また,48年から50年にかけては首相・外相・国防相を兼任して国政の中枢にあった。56年,〈指導された民主主義〉への道を歩みつつあるスカルノの方針に反対して副大統領を辞任し,以後はついに政界へ復帰しなかった。その出身,経歴,資質等においてスカルノと対照的であり,それが,経済建設,議会制民主主義の政策論の主張として現れ,時代を超えて支持者を得る理由となっている。
執筆者:土屋 健治
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インドネシアの政治家。スマトラ西部ブキティンギ生まれ。1922~1932年のオランダ留学中に留学生独立運動「インドネシア協会(プルヒンプナン・インドネシア)」を指導した。1934年オランダ植民地政府に逮捕・流刑されたが、1942年彼の協力を求める日本軍によって釈放された。1945年スカルノと連名でインドネシアの独立を宣言。初代副大統領としてスカルノ大統領とともに「二者一体」と称された。1948~1950年には首相・外相・国防相を兼任、軍・行政の合理化と経済建設に心血を注いだ。しかし、カリスマ的指導者たるスカルノが権威主義的な「指導民主主義」に傾斜し、急進民族主義外交を展開し始めたことに失望して、1956年副大統領職を辞し、一知識人としてスカルノ体制を批判し続けた。彼の著『我等が民主主義(デモクラシ・キタ)』(1960)は「九月三〇日事件」後のスハルト新体制の一指針とされたが、同体制の軍政色が濃厚になるにつれ、しだいに体制批判を強めた。
[黒柳米司]
『ハッタ著、大谷正彦訳『ハッタ回想録』(1993・めこん)』
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1902~80
インドネシアの政治家。西スマトラ州出身。約10年のオランダ留学中から民族主義運動を指導。1932年に帰国し国民教育協会で活躍したが,34年逮捕,流刑された。日本軍政下で政治活動に復帰,45年スカルノとともに独立宣言に署名,副大統領に選出された。56年スカルノの政治路線に反対して副大統領を辞任。今も政界,思想界に学識と人柄を慕う人が多い。
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…その後,釈放されたスカルノを党首に迎えて勢力を伸ばしたが,再び政庁の弾圧を受け,36年に解散した。なお,国民党の解散に反対した少数派は,教育によって人民の政治意識の成熟をはかることが独立への課題であるとして,オランダ留学帰りのシャフリル,ハッタを中心にインドネシア国民教育協会を結成したが,このときの亀裂が,45年の独立革命以降も,共和国内のいわば土着派と親西欧派の対立に尾を引いた。【押川 典昭】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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