セバスティアン
Sebastião
生没年:1554-78
ポルトガル王。在位1557-78年。ジョアン3世の孫。父ドン・ジョアンの死後に生まれ,3歳で即位した。1568年の親政まで,祖母でスペイン王フェリペ2世の妹のドナ・カタリナ,大叔父のエンリケ枢機卿が摂政に就いた。狂信的なカトリック教育を受け,親政後はジョアン3世が放棄したモロッコに対する十字軍戦争を計画した。側近の反対にもかかわらず,78年モロッコの内紛に乗じて大軍を率いて北アフリカに上陸した。しかし,セバスティアンの無謀な作戦でポルトガル軍はアルカサル・キビルで壊滅し,国王自身も行方不明となった。国王は独身であったため,王位継承問題を引き起こし,80年エンリケ枢機卿の死後,ポルトガルはフェリペ2世のスペインに併合され,1640年までの60年間独立を失った。日本ではこのセバスティアン治世期の1568年,長崎がポルトガルとの交易のために開港され,本格的な日本との交渉が始まった。
執筆者:金七 紀男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
セバスティアン(待望王)
セバスティアン[たいぼうおう]
Sebastião, o Desejado
[生]1554.1.20. リスボン
[没]1578.8.4. モロッコ,アルカッセルキビル
ポルトガル王 (在位 1557~78) 。ポルトガル王位継承者ドン・ジョアンとスペイン王カルロス1世 (神聖ローマ皇帝カルル5世) の娘フアナ・デ・アウストリアの子。スペイン王フェリペ2世の甥。父の死後 20日目に生れ,3歳にして祖父王ジョアン3世 (敬虔王)の跡を継いだ。祖母でカルロス1世の妹カタリナの摂政下にマドリード宮廷の影響を強く受けた。親政 (68) 後,狂信的な十字軍精神からジョアン3世が財政負担の軽減のため徐々に撤退してきたモロッコの再征服を企図したが,1578年アルカッセルキビルの戦いで大敗し,みずからも 24歳の若さで戦死した。嗣子なく,2年後ポルトガル王位は叔父にあたるスペイン王フェリペ2世の手に渡り (ポルトガル王フェリペ1世として即位) ,以後 60年間ポルトガルは独立を失った。のちにその悲劇的な死に対して生存説が流布し,1640年の再独立の際のポルトガルの抵抗を示す「セバスティアニズム」を生んだ。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
セバスティアン
Sebastião
1554~78(在位1557~78)
ポルトガル,アヴィス朝の第7代国王。祖父ジョアン3世のあとを継いで3歳で即位。14歳から親政。十字軍の理想からモロッコ征服を企図するも,1578年のアルカセル・キビルの戦いで敗北,戦死。スペインとの同君連合の一因をつくった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
セバスティアン
生年月日:1554年1月20日
ポルトガル王(1557〜78)
1578年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のセバスティアンの言及
【ポルトガル】より
…海外領ではキリスト教布教に尽力しヨーロッパ文明の伝播者となったイエズス会も,国内では自由と寛容の精神を圧迫し始めていた。 1557年ジョアン3世の死後,幼いセバスティアンが即位するとスペイン王室の影響が強まり,経済的にも東洋交易に不可欠な銀をスペインに依存するようになった。78年セバスティアンが無謀なモロッコ侵略戦争で戦死して2年後の80年,ポルトガル王位は,ジョアン3世の妹を母に,同じくジョアン3世の娘マリアを妻にもつスペイン王フェリペ2世の手に渡った。…
【ラゴス】より
…同港から出航したジル・エアネスの艦隊は,1434年当時の〈地の果て〉ボジャドール岬を初めて南下した。ドン・[セバスティアン]が1578年モロッコのアルカサル・キビルを攻略したときも同港を拠点とした。近年は地の利を生かした観光開発が著しく,漁港としても重要である。…
※「セバスティアン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」