十字軍(読み)じゅうじぐん(英語表記)Crusade
Croisade[フランス]
Kreuzzug[ドイツ]

精選版 日本国語大辞典 「十字軍」の意味・読み・例文・類語

じゅうじ‐ぐん ジフジ‥【十字軍】

一一世紀末から一三世紀にかけて西ヨーロッパキリスト教徒が起こした異教徒討伐の遠征。聖地エルサレムの回復を目的とした。一〇九六年教皇ウルバヌス二世の勧告で第一回十字軍を送って以来、第八回まで行なわれた。第一回のとき聖地を回復、エルサレム王国をたてたが、以後は失敗。教皇権の衰退と封建貴族の没落の因となったが、反面、市民と貨幣経済の成長、都市の発生を促し、特に、イスラム文化が西ヨーロッパ諸国に多大の影響を及ぼした。
※百学連環(1870‐71頃)〈西周〉二「都府 Jerusalem に於て十字軍と称するの兵大に起れり」

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デジタル大辞泉 「十字軍」の意味・読み・例文・類語

じゅうじ‐ぐん〔ジフジ‐〕【十字軍】

11世紀末から13世紀にかけて、聖地エルサレムイスラム教徒から奪回するため、前後8回にわたり行われた西欧キリスト教徒による遠征。信仰上の動機や教皇権拡大の意図などのほか、やがて東方貿易の利益など種々の動機が絡むようになった。結局、目的は達成されなかったが、イスラム文化との接触は西欧人の視野を拡大したほか、都市の成長や貨幣経済の発展などは、中世封建社会崩壊のきっかけとなった。

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改訂新版 世界大百科事典 「十字軍」の意味・わかりやすい解説

十字軍 (じゅうじぐん)
Crusade
Croisade[フランス]
Kreuzzug[ドイツ]

クレルモン会議(1095)で教皇ウルバヌス2世により宣言された第1回十字軍以来,チュニスで敗退した最終回(1270)まで何回かにわたって西欧キリスト教徒の軍団が行った中近東各地への軍事遠征。広義にはイベリア半島,イタリア,地中海の島々などをイスラムの支配下から解放する11世紀後半からの戦いや,公式遠征に数えられていない自発的民衆巡礼団の軍事行動および中近東の十字軍国家を起点とする近隣諸地域への進出行為などの総称とされ,13世紀末以降16世紀にまで続けられたキリスト教諸国民とオスマン帝国を中心とするイスラム諸勢力との戦い(1389年のコソボの戦,1526年のモハーチの戦など)をも十字軍の名でよぶ見方もある。

ヨーロッパのほぼ全域を渦中にまきこみ,数世紀にわたって持続した東方進出の気運は,その根元に社会経済的要因と精神的動機をもっている。まず数世紀間を周期とする気候変動の影響が11世紀中葉から現れた。日照時間の増大,気温の上昇,降水量の低下などによって,農業生産性は著しく高まり,それまで過疎状態にあった西欧の人口動態は密度・総計ともに爆発的に増加しはじめた(農業革命)。十字軍開始期には森林が切り開かれて,耕地面積は拡大し,より豊かな衣食住の条件が追求されるようになり,経済発展に対応する社会身分の流動性が見られた。農民の階層化,市民階級の新たな形成が始まり,とくに軍馬の飼育・所有を独占的に行った騎士階級の出現が西欧社会の特色をなすにいたった。このような富,知的教養,権力といったさまざまな面で上昇運動の活力を生み出した社会は,その内部エネルギーの膨張力によって対外進出を大規模に行い得る態勢を整えたことになる。

 他方,中世前半のキリスト教の発展と深化にともなう信心形態の変化は,神に人間の業(わざ)の最良最善のものをささげたいと念願する各種の営みを生み出した。ロマネスク芸術を駆使した大聖堂(カテドラル)の建設,修道院における霊的修練生活の普及,各地の聖所をめぐり聖遺物を崇敬する巡礼の流行などがその具体的表れである。さらに異教徒の住む諸地方への軍事的進出を正義の戦いとみなし,これを苦行として実践しようとする贖罪意識の高揚も重要な要素である。この精神的動機から西欧中世人の集団的心性の産物として,定期的に遠隔地の聖所へ向けて巡礼団を送る習慣が定着した。精神的指導者として聖職者(司教,司祭),修道士,民間説教師が付き添い,非武装の巡礼の護衛者として諸侯,騎士,歩卒の軍団が配属され初期の十字軍遠征隊が編成された。

エルサレムはユダヤ教,キリスト教,イスラムの共通の聖地であり,とくにキリスト教徒はこの都を〈キリスト受難〉の地として諸巡礼地のうち最高の聖域とみなし,その地のキリストの〈聖墳墓〉の解放を十字軍の最終目標にかかげた。このため中世の史料は十字軍を〈エルサレムもうで〉〈聖墳墓参り〉などと記録している。十字軍の発端となったのは,こうしたキリスト教徒の聖地や,聖地への巡礼が,1071年にエルサレムを占領したセルジューク朝ビザンティン帝国領であったアナトリアに侵入したルーム・セルジューク朝などトルコ系諸族によって圧迫・迫害されているという西方キリスト教国の認識であった。そして,ビザンティン帝国の対イスラム防衛戦争にノルマン人出身のシチリア遠征隊をはじめ西欧騎士の傭兵隊が導入されるようになると,ローマ教皇庁のビザンティン帝国救援政策が聖地解放のための企てとして具体化された。ピアチェンツァ会議(1095年3月)に列席したビザンティン皇帝アレクシオス1世Alexios Iの使節はイスラムによる被害を誇張し,東方正教会守護の緊急性を訴えた。教皇ウルバヌス2世はこの要請を受けいれて援助を確約したが,教皇の意図は次のようなものであったと推論される。(1)西欧における〈叙任権闘争〉の延長線上に,教会改革の促進と教皇権の皇帝権に対する優位確立をめざす運動を展開する。(2)西欧の封建諸侯,騎士の私闘を抑制する〈神の平和〉運動を勧奨し,彼らの軍事力を対異教徒戦争に転用する。(3)民衆運動として大流行をきたしている巡礼伝統を活用し,贖罪行為としての遠征参加を呼びかけ,彼らに物心両面の報酬を約束する。(4)教皇代理の資格をもつ高位聖職者を総司令官に任命し,東方正教会の教皇裁治権下への復帰(1054年以降分離)と中近東各地の占領予定地の教会管理権の復活をはかる,などである。1095年11月28日,教皇はこれらの内容をふくむと推定される〈十字軍宣言〉を公表し,フランスを中心とする西欧各地でこのアピールにこたえる遠征参加希望者の大集団が数組結成された。ここに〈贖宥(しよくゆう)〉(罪のゆるしに伴うつぐないの免除)という精神的特権を付与された武装巡礼団が公式十字軍として,2世紀余にわたって断続的に中近東各地へ派遣されることになった。

アミアンの隠者ペトルスPetrusをカリスマ的指導者と仰ぐ北フランスとライン川沿岸地方の民衆約2万人が,自発的にエルサレム巡礼を目ざして結成した〈先発隊〉の出発(1096年7月)を最初として,公式・非公式,大小無数の武装・非武装の海外進出団体(単位集団当り数百人から20万人余)が続々として東方へ向かった。その構成員には,貴族的・政治的・侵略的性格の強い要素と,民衆的・宗教的・平和的性格を示す要素とが混在する〈二重構造〉が見られ,十字軍の全期間を通じてこの複合性は持続された。史料が十字軍参加者を〈巡礼たち〉と総称しているのはこの事実を示している。十字軍士はつねに勇猛な戦士と敬虔な使徒との両面を兼ね備えていたのである。

 公式十字軍をその戦略的側面から時代区分すると次の4段階となる。(1)初期十字軍 11世紀末~12世紀末,エルサレム王国(1099-1187)建設期とその攻勢的防衛期。(2)中期十字軍 13世紀前半,占領地の守勢的維持期。(3)末期十字軍 13世紀後半,占領地の全面的喪失期。(4)〈後の十字軍〉期 14~16世紀,東地中海からの後退期,〈大航海時代〉への転換期。また狭義には第3段階の1291年アッカー(アッコ)陥落をもって十字軍時代の終末と見なす説もある。

 十字軍の舞台となった地域は,(1)北欧をふくむ西欧諸国,西地中海など十字軍運動の策源地。(2)東欧諸国,アナトリア(小アジア),東地中海など遠征ルートの途上地域。(3)シリア・パレスティナ,ヨルダン,キプロス島など十字軍国家の直轄領域。(4)エジプト,チュニス,ロードス島,マルタ島などの外縁地域とに区分され,初期・中期十字軍は(1)~(3)の地域に,末期および〈後の十字軍〉は(4)の地域を舞台にしている。遠征の行軍ルートは第1段階の半ばまでは陸路をとり,河川,海峡の渡渉に一部船便を併用したが,アナトリアにおけるイスラム軍の抵抗が強く,兵力の消耗が甚大であった。12世紀後半から海運の発展によって,ビザンティン帝国とイタリア諸都市の海軍力が強大となり,もっぱら聖地に直航する地中海ルートが利用された。

第1回十字軍は,上述の地域(1)の各地で遠征が発起され,ルピュイ司教アデマールAdhemar du Puyを教皇代理の調停者として4軍団が地域(2)において前進基地,補給源(コンスタンティノープル)の設定を行い,ビザンティン皇帝に対する臣従誓約の履行を受諾した後,アナトリア横断中,各地で同地を支配していたルーム・セルジューク朝軍との前哨戦ののち,地域(3)の門戸をなすアンティオキア争奪の攻城戦をもって本格的作戦に入った。同時に別働隊によるエデッサ攻略戦が行われ,遠くユーフラテス川流域地方までヨーロッパ人の占領地が拡大された。この時点でアンティオキア侯領とエデッサ伯領の十字軍国家が成立し,イスラム側はアナトリアのルーム・セルジューク朝,ダマスクスとアレッポのセルジューク朝,エジプトのファーティマ朝など,勢力が分断されていたため十字軍主力のシリア海岸南下を許すことになった。

 1099年7月,正規4軍団とペトルスの巡礼団はエルサレム包囲戦を開始し,宗教的敬虔さと征服者的残忍さを同時に発揮して2日間の攻城戦の後,ファーティマ朝(エルサレムを1098年8月以来セルジューク朝より奪取)の総督を下し,住民の大量虐殺を行って占領を遂げた(7月15日)。〈巡礼たち〉は聖墳墓教会に参詣して十字軍誓願の成就を告げ,シリア・パレスティナに所領を獲得した一部の諸侯,騎士やその領内で土地財産を分配された少数の市民,農民を除いて,大部分の遠征隊員は西欧への帰路についた。このため十字軍国家はその後永年にわたって人口不足と防衛力の劣弱さに悩まされ,イスラム側の反撃を容易にすることになった。聖地に踏みとどまった諸侯は〈聖墳墓守護者〉の称号を帯びたゴドフロア・ド・ブイヨンGodefroy de Bouillonを宗主とするエルサレム王国を創設し,その封建所領としての前記2侯伯領のほか,1109年占領のトリポリ伯領,トランスヨルダン領などを支配し,地中海東岸の諸港市を西欧との交流の窓口とする東方植民地国家を建設し終わった。

 しかし12世紀を迎えると,イスラム側は,モースルとアレッポに拠るザンギー朝(1127-1222)の反撃が始まり,十字軍国家の北東部,北部の喪失が相次ぎ,その衝撃とともに西欧において高揚を続けていた〈十字軍運動〉,とくにクレルボー修道院の院長で当代きっての宗教家ベルナールの勧説による第2回十字軍(1147-53)の企てが実現した。第1回十字軍の成功後まもなく騎士身分と修道士とを一身に兼ねる新しいタイプの社会的エリート集団が創造され,十字軍理念を高く掲げた〈騎士修道会〉を結成し,聖地の常備軍的性格の軍事力としてその後の十字軍に重要な役割を演ずることになる。フランス王ルイ7世,ドイツ王コンラート3世の遠征によるイスラム側ダマスクスへの攻撃(1148)は,喪失領土の回復戦略とはなり得ず,その敗退によってザンギー朝のヌール・アッディーンの下でのアレッポとダマスクスの同盟を許し,十字軍国家はシリア沿岸部の狭小な帯状地域に圧縮された。

 12世紀中葉から末期にかけて,十字軍側と,ファーティマ朝を打倒してエジプトとシリアにまたがるイスラム統一勢力を結集した英傑サラーフ・アッディーン(サラディン)を始祖とするアイユーブ朝(1169-1250)の〈ジハード(聖戦)〉との戦いは,エルサレムの争奪をめぐって熾烈となり,1187年7月ヒッティーンの戦に大勝したサラーフ・アッディーンはエルサレムを同年10月に奪回した。これに対し西欧3大国の君主(イングランド王リチャード1世,フランス王フィリップ2世,神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)が勢ぞろいした大規模な第3回十字軍(1188-91)が編成され,両者の争いはその最高潮に達したが,結局西欧側の退勢を挽回し得ず,かろうじて1192年エルサレムへのキリスト教徒巡礼の自由通行を保障する協定の締結をもって幕を閉じた。

西欧側は臨時首都アッコを中心として,エルサレムなき残存領土の維持に努める一方,シリア・パレスティナの外周地域で間接的作戦を行いつつ,外交手段をもってエルサレム奪回を企てた。その間に起こったキプロス王国成立(1192),いわゆる〈方向転換十字軍〉という悪評の高い第4回十字軍(1202-05)によるギリシアのラテン帝国創設(1204),第5回十字軍末期のカイロ攻撃失敗(1221)などはいずれもその実例である。また1228-29年には親イスラム的な神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が教皇から破門をうけた身で聖地に渡り,アイユーブ朝の第5代スルタン,カーミルとの友好関係を利用して〈無血十字軍〉により一時エルサレムの返還を勝ちとった。この時期に西欧の海外進出熱や身分的上昇運動は鎮静化に向かい,それまでの信仰と領土的野心を内容とした十字軍思想は変質し,教皇と神聖ローマ皇帝の対立を軸とする政治的利害が十字軍の動機に強く反映するようになった。

シリア・エジプトを統一したイスラム勢力の包囲網の中に孤立した十字軍国家は,第7回十字軍(1248-54)のエジプト攻撃失敗の後,その統率者フランス王ルイ9世による聖地防衛力の再建にもかかわらず,カイロの新政権マムルーク朝(1250-1517)の強襲をうけてほとんど破局的打撃を被った。最後の第8回十字軍(1270)はエルサレムから3000km余も遠くへだたったチュニスで挫折し,アッカーに踏みとどまっていた聖地のキリスト教徒は戦死者と捕虜を除いてすべて〈海に掃き落とされ〉,十字軍が築いた中近東の植民地は全面的に崩壊した(1291)。かろうじてキプロス島に退却した生存者はなおこの島を前衛として〈後の十字軍〉による退勢挽回を企てることになる。

十字軍に対する評価は,同時代から今日まで賛否両極の間を揺れ動いて不定であり,毀誉褒貶相半ばしているが,中世西欧社会の全体像を浮彫にした総合的な歴史事象としての意義は重要である。西欧キリスト教徒諸国民が〈十二世紀ルネサンス〉として知られる文化的高揚期を体験し,彼らのアイデンティティを確信しえたことは,十字軍史の展開過程とまったく時代的に並行しており,十字軍が中世西欧社会の成熟期をもたらしたと考えることができる。第2の意義は,キリスト教徒の大集団が長期にわたって東地中海世界に進出し続けたことによる東西文化交流の発展にある。戦術,築城術をはじめ衣食住の日常生活慣習など和戦両様の相互影響関係が生まれ,精神的領域においても古典古代の学芸の再交流が促されたことは中世末期の西欧社会にとって大きな意義があった。

 十字軍の影響について見ると,その軍事的失敗にもかかわらず,ヨーロッパ人に物心両面におけるグローバルな視野の拡大をもたらした点が重要である。精神面においては宗教を異にする人々の平和的共存が現実性をもち始め,キリスト教徒側に寛容の精神が芽生え,戦士に代わって宣教師が異教徒との対話を実践する時代が訪れた。フランシスコ会士による東洋布教活動などはその先駆であり,十字軍による中世キリスト教の世界的規模の展開と見ることができる。第2に,14世紀以降オスマン帝国の勢力西漸によって東方進出運動を抑止されたヨーロッパ人が,大西洋,アフリカ大陸沿岸に目を転じ,やがて〈大航海時代〉に連なる大規模な海外進出運動を続行したことがあげられる。東洋のキリスト教君主〈プレスター・ジョン〉の探索や,十字軍時代に普及した香料など東洋的嗜好品への執着は,前記のキリスト教布教活動への使命観とともに彼らの冒険心をあおり,〈後の十字軍〉と相前後して新大陸,東アジア諸地域へのキリスト教徒の集団的植民地開拓時代を招来することになるのである。
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十字軍運動の発端は,エルサレムを占領したセルジューク朝トルコによる巡礼者の迫害にあったとされている。しかしセルジューク朝が異教徒の処遇について,イスラム法のジンミー保護の規定を著しく逸脱した政策をとった事実は認められない。一般に当時のイスラム教徒は十字軍の真の目的を理解できず,ヨーロッパから来住したキリスト教徒の武装集団を,十字軍ではなく,単にフランク人Ifranj,Firanjと呼ぶのが慣例であった。ザンギー朝のヌール・アッディーンはスンナ派擁護の政策に基づいてイスラム世界の統一を図り,異教徒に対するジハードを宣言して十字軍に対する最初の反撃を開始した。その成果はアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンに受け継がれ,マムルーク朝のバイバルス1世アッバース家のカリフを擁するスンナ派の国家体制を樹立して対十字軍戦争を遂行し,その勢力をシリアの海岸地帯に封じ込めた。イスラム軍の主力はアミールとその配下のマムルーク(奴隷軍人)によって構成されていたが,これらのアミールはエジプト,シリアにイクター(分与地)を授与された騎士であって,戦時には自ら装備を整えてスルタン軍に加わることが義務づけられていた。

 11世紀に至るまで,ヨーロッパ世界についてのイスラム教徒の知識は,そのほとんどが間接的な情報に基づくものであったから,戦闘を通じてヨーロッパのキリスト教徒とイスラム教徒が直接の交渉をもったことの意義は少なくなかった。少数ではあるがウサーマ・ブン・ムンキズのように十字軍騎士と親交を結ぶ者もあったし,戦時中一段と活発になった交易活動を通じて,砂糖生産やガラス工芸の技術なども西方に伝えられた。しかし200年に及ぶキリスト教徒との戦闘は,イスラム教徒の間に不寛容なスンナ派主義をはぐくむ結果となり,十字軍に対してばかりでなく,土着のキリスト教徒やユダヤ教徒をも非難・攻撃する風潮が生まれ,やがて都市のなかに宗派別のハーラ(街区)が形成される一因となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「十字軍」の意味・わかりやすい解説

十字軍
じゅうじぐん
Crusade 英語
Croisade フランス語
Kreuzzug ドイツ語

11世紀末から13世紀にかけて8回以上にわたって西欧キリスト教徒が東欧、中近東各地に向けて行った軍事遠征の総称。公式遠征のほかに民衆巡礼団の自発的行動や、中近東の十字軍国家を起点とする近隣地域への進出なども広義の十字軍に含まれる。また、13世紀末以降16世紀に及ぶキリスト教諸国とオスマン・トルコ帝国との戦争をも十字軍とよぶことがある。参加者が衣服に十字架の印をつけていたことから、13世紀後半以来この名称が用いられたが、それ以前の史料には「エルサレム旅行」または「聖墳墓詣(もう)で」などと記されている。

[橋口倫介]

起源

中世西欧社会においては、11世紀前半までの数世紀間に、自然条件の緩慢な好転による生産・流通の向上と人口増加がみられ、これに伴って技術革新と知的活動が促進され、新興都市圏と伝統的農村地域の双方の生活が並んで活性化の方向をたどり、全般的に物心両面の著しい発展期を迎えていた。また精神面では、キリスト教の普及により修道院文化が栄え、神学、哲学、法学、文芸の深化は信心形態の洗練された表明手段を生み、ロマネスク様式による教会芸術の完成をみた。聖遺物崇敬や聖所参詣(さんけい)はその普遍的習俗の典型であり、巡礼は贖罪(しょくざい)行為として信徒の心性にかなう伝統となって流行した。『旧約聖書』の詩篇(しへん)「上京のうた」に賛美されたエルサレムは聖都として巡礼の最高目標と考えられ、『新約聖書』に記されたキリストの「受難」のゆかりの地である聖墳墓への参詣は信徒の生涯の悲願ともなっていた。

 他方、11世紀中ごろに、地中海世界を構成する西欧、ビザンティン帝国、イスラム圏の三大政治勢力間にバランスの変化がおこり、それまで閉塞(へいそく)状態にあった西欧がイスラム勢力の包囲網をはねのける態勢に移行し、またビザンティン帝国がイスラムの圧迫に単独で対抗しえず、西欧に救援を要請するに至った。西欧キリスト教諸国民はこれを受けて宗教的使命感に情熱を燃やし、政治的、経済的、軍事的野心をも満たす好機とみて、聖地解放を大義名分とする武装巡礼団を対イスラム遠征軍として派遣することとなった。「十字軍運動」とよばれるこのような海外進出の気運は西欧全般にみなぎり、封建社会のすべての階層がこれにかかわり、未知の東方世界への憧憬(しょうけい)の念と、生活水準や社会身分の向上を望む欲求とが結び付き、持続的で大規模な「脱西欧」現象を引き起こすエネルギー源となった。

[橋口倫介]

動機

十字軍遠征の発動は、多分に東欧のキリスト教国ビザンティン帝国の内外情勢判断に対応しており、イスラム勢力の動静は間接的な動機をなすにすぎない。11世紀中ごろセルジューク・トルコが東イスラム圏の実権を握り、エルサレムをはじめシリア、小アジアの要衝を相次いで占領し、1071年マラズギルトMalazgirt(現トルコ東部)でビザンティン軍を撃破したため、ビザンティン帝国は強い危機感を抱き、国土防衛と失地回復を目的とする戦略的親西欧政策を採用し、ナポリ、シチリアに進出していたノルマン人騎士や聖地巡礼途上の西欧諸侯に傭兵(ようへい)派遣を要請したり、1054年の東西教会分離以来疎遠になっていたローマ教皇庁との再接近を図るなど、西欧人の介入に道を開いた。皇帝アレクシオス1世は1095年春ピアチェンツァPiacenza教会会議に使節を送り、東方における「イスラム禍」を誇大に宣伝し、キリスト教信徒、教会、巡礼の被った被害を訴えた。これを受けて教皇ウルバヌス2世は、東西教会の再合同、東方における教会国家の創設、西欧諸国民の大量移民などを目的とする大規模な救援軍派遣計画を構想し、同年11月クレルモン公会議開催中に第1回十字軍発動の宣言を行った。その趣旨は、全キリスト教徒の義務として聖墳墓に参詣する誓願をたて、イスラム占領下の聖都を奪回し、シリア、パレスチナの教会を解放するための軍事行動を勧説するところにあった。同教皇はまた、即位以来の懸案であるドイツ(神聖ローマ)皇帝との「聖職叙任権闘争」を教皇側に有利に解決する意欲と、西欧封建社会の積弊であった諸侯・騎士同士の私的闘争を「神の平和」運動によって抑止する念願とを達成するため、十字軍運動の盛り上がりを巧みにとらえ、教皇代理ル・ピュイLe Puy司教アデマールAdhémarを総司令官とする軍団編成をフランス諸侯に呼びかけた。

[橋口倫介]

十字軍の構造と経過

広義の十字軍は、その舞台となった西欧と東地中海世界の情勢変化に対応して、初期、中期、末期および「後の十字軍」の4段階に時代区分することができる。

[橋口倫介]

初期十字軍

(11世紀末~12世紀末) クレルモン公会議における教皇の勧説を理論的根拠とする第1回十字軍(1096~99)の公式遠征隊4個軍団(ロレーヌ人、ノルマン人、南フランス人および北フランス人各部隊)は、1099年7月エルサレム占領を遂げ、シリア、パレスチナ一帯に獲得した3封建所領(エデッサ伯領、アンティオキア侯領、トリポリ伯領)を含むエルサレム王国を創設した。そして、その基礎を固めると同時に、周辺のイスラム勢力に対する攻勢的防衛作戦を行った。この時期には、アミアンの隠者ペトルスPetrusをカリスマ的指導者とする民間巡礼団約2万人の先発隊が公式十字軍と協働した。また1101年には、新興エルサレム王国への入植希望者約20万人が少数の騎士隊の護衛下に民衆十字軍として東方へ出発し、途中ルーム朝セルジューク軍の攻撃を受けてほとんど全滅の憂き目をみたが、これにより、非武装の民間人集団が十字軍運動の主体をなしていたことが看取される。

 征服地の支配は、戦略目標地域の中心となる城壁都市の占領に一番乗りの功名を得た軍団司令官にゆだねられ、当時の西欧で確立されていた封建制を導入して、陪臣のモザイク的封土の上に、王、諸侯、騎士、市民、農民などの身分階層制のピラミッドが構成された。エルサレム王位は、初代の「聖墳墓守護職」という称号をとったバス・ロレーヌBasse-Lorraine侯ゴドフロア・ド・ブイヨン以来、女系相続を含む世襲制によって継承され、西欧諸国の君主と同等の権威を備えていた。12世紀中ごろのボードゥアン3世Baudouin Ⅲ(在位1144~62)時代に、その領土は、北はユーフラテス川沿岸から南は紅海のアカバ湾に至る最大版図に達した。この広大な面積に比して、西欧人支配者の人口はきわめて少数で、大部分の被支配者層は征服時の大虐殺を免れ、あるいは逃亡後帰順した原住民であった。王国の防衛軍事力は、12世紀初頭西欧に相次いで創設された騎士修道会の海外管区に属する城砦(じょうさい)と、騎士軍とを中心として、少数の現地諸侯に臣従する騎士階層にゆだねられていた。他方、十字軍の進出期にたまたま政治的対立から分裂していたイスラム諸政権側に、ようやく統一的反撃の気運が生まれ、12世紀中ごろまでに、イスラム側はエデッサ伯領全域とアンティオキア侯領の東半部との奪還に成功した。そして同世紀後半には、サラディンによるアイユーブ朝の創始を契機として大規模なイスラム側の反十字軍「聖戦」が唱道されたが、その結果、第2回(1147~49)、第3回(1189~92)十字軍が発動され、ついには挫折(ざせつ)をみることによって初期十字軍の性格は変質することとなる。

 1146年5月フランス中部ベズレーVézelayの集会において、当時西欧随一の精神界の指導者であったクレルボーのベルナルドゥスにより勧説が行われ、第2回十字軍が決定した。フランス王ルイ7世、ドイツ王コンラート3世指揮下の遠征隊に加え、テンプル、聖ヨハネ両騎士修道会とエルサレム王国諸侯軍が参加した。ダマスカスを攻撃したが、籠城(ろうじょう)側の激しい抵抗に阻まれて敗退し、アンティオキア防衛に有効な状況を生むことなく、かえってザンギー朝の勢力拡大を許す結果となった。また、1163年以来エルサレム王国がカイロのファーティマ朝に対して行った干渉行動(数次のエジプト遠征)が引き金となって、アイユーブ朝のエジプト、シリア統合作戦が成功裏に進められ、1187年7月ハッティーンHattīn会戦においてエルサレム王国軍は惨敗を喫した。ついで同年10月サラディンによるエルサレム奪回が実現すると、十字軍国家の命運は危殆(きたい)に瀕(ひん)し、第3回十字軍の大々的発起を促すこととなった。当時西欧諸国中に覇を唱え、ローマ教皇の権威をも脅かす勢いにあった神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世(赤髭(あかひげ)王)、騎士道精神の鑑(かがみ)として人気の高いイングランド王リチャード1世(獅子(しし)心王)およびフランス王フィリップ2世(尊厳王)の三大君主が勢ぞろいしたこの十字軍は、一部地中海航路を利用するようになった新ルートによってアッコAkkoに上陸し、エルサレム再占領を目ざして戦闘を繰り返した。しかし、フリードリヒ1世の事故死によるドイツ軍の不参と、英仏両国君主間の不和に災いされて結局竜頭蛇尾に終わり、西欧の十字軍熱にも陰りを生ずる時代を招いた。

[橋口倫介]

中期十字軍

(13世紀前半) 1192年9月、第3回十字軍の最後まで孤軍奮闘したリチャード1世とサラディンとの間に休戦協定が成立し、エルサレム王国はティルスTyrusからヤッファJaffaまでの海岸部のみに領土を狭められた状況下に、アッコを臨時首府として残存領土の守勢的維持に汲々(きゅうきゅう)とする中期十字軍時代に移行する。他方、内陸シリアを回復しエジプトとの連係を確立したアイユーブ朝は、休戦期間中キリスト教徒巡礼のエルサレム通行権を許可する寛容政策を打ち出した。西欧側は、この時期に新たに領有したキプロス島を中継地として海路による東西連絡手段を確保しており、なお1世紀にわたってこの海外植民地を経営し、物心両面の交流を促進することができた。別名「方向転換十字軍」とよばれる第4回十字軍(1202~04)は、教皇権の絶頂期を代表するインノケンティウス3世の提唱により、また西欧修道制の理念を標榜(ひょうぼう)する隠修士フールク・ド・ヌイイFoulques de Neuilly(生没年不詳)の勧説によるものであったが、参加諸侯・騎士の経済力不足と戦略思想の不統一が災いして、ベネチア人の商業至上主義に引きずられ、キリスト教国であるビザンティン帝国を攻撃し、コンスタンティノープルを占領して「ラテン帝国」を創建するという異常な事件となった。フランス人のフランドル伯ボードゥアンBaudouin(在位1204~05ころ)を初代皇帝とするこの新帝国は、トラキア、マケドニア、ギリシア各地を征服し、東方教会を一時ローマ教会のもとに統合してラテン文化を東欧に広めたが、小アジアに亡命して復興の機をうかがっていたビザンティン皇帝によって反撃を受け、1261年その短命な歴史を閉じた。第5回十字軍(1217~21)も、シリア、パレスチナに向かわずエジプトを攻撃したということで、いわば方向転換十字軍であった。この十字軍は、教皇ホノリウス3世Honorius Ⅲ(在位1216~26)の宣布による公式十字軍であるが、参加者は東欧の新興キリスト教国ハンガリー王、オーストリア侯のほか、フリースラント人騎士など概して弱小な軍事力であり、これにエルサレム王国の現地軍が協働してダミエッタDamiettaを占領するのが精いっぱいであった。一方、イスラムのカイロ政権側では、ダミエッタとエルサレムの交換条件によって十字軍の撤退を求めた。教皇代理ペラギウスPelagius枢機卿(すうききょう)(生没年不詳)の強気の提案でこの条件を拒否し、カイロ攻撃を続行した十字軍は、イスラム側の反撃とナイル川洪水に妨げられ、すべての戦果を失って敗退した。

 シチリア王としてイスラム文化に親しんだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世による第6回十字軍(1228~29)は、出発遅延の理由で教皇グレゴリウス9世Gregorius Ⅸ(在位1227~41)からフリードリヒが破門されたため、公式十字軍とみなされない場合もある。フリードリヒ2世は、カイロのスルタンと個人的親交があり、結婚政策によってエルサレム王を兼ね、外交手段を用いて1229年2月ヤッファ協定を結び、エルサレムへの無血入城を果たした。宗教的寛容思想により十字軍の本来の目的が達成されたのであるが、政治的、経済的利害の側面では西欧人同士の調整がつかず、破門皇帝と現地諸侯の対立や出身地を異にする諸国民間の不和が表面化し、王国は無政府状態の混乱に陥っていく。

[橋口倫介]

末期十字軍

(13世紀後半) キリスト教とイスラム教の平和共存が、1244年のホラズム・トルコ人によるエルサレム占領という突発事件によって終止符を打たれたのち、中近東情勢は多極的な諸勢力離合集散の新局面を迎える。ホラズム・トルコ人の背後からモンゴル人がシリアに進出し、西欧はモンゴル人をキリスト教徒と信じて同盟を構想し、イスラム圏内ではシリアとエジプトが対立する一方、新政権マムルーク朝による統一勢力が急速に成長してくる。西欧においては、フランス王国の政治的、経済的優位のもとにゴシック芸術が繁栄し、ルイ9世(聖ルイ王)の敬虔(けいけん)な信仰がキリスト教徒の模範とされ、托鉢(たくはつ)修道会士による海外布教活動も盛んであった。また13世紀初頭以来何度か繰り返された少年十字軍や牧童十字軍のように民衆宗教運動への熱意も強かったが、軍事力による十字軍遠征に参加する諸侯・騎士の情熱は冷却しつつあった。「エルサレムの鍵(かぎ)はカイロにあり」という戦略思想のもとにルイ9世が行った最後の2回の十字軍(第7回1248~54、第8回1270)は、エジプトとチュニスに向け精強な大軍を送ったが、いずれもイスラムの包囲網の中に孤立した聖地の救援に直接影響を与えることなく敗退し、かえってカイロの新政権マムルーク朝のキリスト教徒掃討作戦を挑発する結果を招いた。1265年から91年にかけて、シリア海岸のアンティオキア侯領、トリポリ伯領をはじめ残存領土のすべてを喪失、エルサレム王国直轄領は最後の拠点アッコの陥落によって滅亡した。わずかな生存者がかろうじてキプロス島に避難し、後図を図ることとなる。

[橋口倫介]

後の十字軍

(14~16世紀) キリスト教徒にとって聖地の喪失は十字軍そのものの終焉(しゅうえん)を意味したが、対イスラム戦争という政略的構想による東方観は近世まで持続され、マムルーク朝との抗争、新しい強大な敵対者オスマン・トルコ帝国との対決は「後の十字軍」という観念で考えられている。その過程で、1344年のキプロス(ロードス)十字軍と1396年のニコポリス十字軍とが特筆される。いずれも西欧における十字軍運動の盛り上がりとは異なる東欧キリスト教諸国の守勢的攻撃であり、15世紀に入ると、1440年のハンガリー十字軍を転機として東西勢力関係の逆転が明らかとなり、オスマン帝国軍の西方進出が高潮期に達し、1453年にはビザンティン帝国の滅亡をみるに至り、16世紀には東地中海制海権の全面的放棄を強いられ、名実ともに十字軍は消滅する。

[橋口倫介]

世界史上の意義

十字軍運動の開始以来今日まで約900年の間、その評価は賛否両論に分かれ、学説も区々であるが、これを単なる数回の軍事遠征の記録としてではなく、西欧中世後半期の人間社会の総合的全体像として観察し、そこに文化的高揚期の西欧人のアイデンティティをみいだそうと試みることが望ましい。また、数世紀にわたって持続された地中海世界の東西交流の影響はきわめて顕著であり、沿岸諸民族の十数世代の人々がこの長期の交流によって精神的、物質文明的視野を広げ、やがて地球的規模での「大航海時代」への発展を生む素地を築いたことも疑いない。

[橋口倫介]

『橋口倫介著『十字軍――その非神話化』(岩波新書)』『ルネ・グルッセ著、橋口倫介訳『十字軍』(白水社・文庫クセジュ)』『ルネ・グルッセ著、橘西路訳『十字軍』(角川文庫)』『セシル・モリソン著、橋口倫介訳『十字軍の研究』(白水社・文庫クセジュ)』『木村尚三郎編『世界の戦争5 中世と騎士の戦争』(1985・講談社)』『橋口倫介著『十字軍』(教育社歴史新書)』


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百科事典マイペディア 「十字軍」の意味・わかりやすい解説

十字軍【じゅうじぐん】

広義には中世ヨーロッパにおけるキリスト教徒の異教徒・異端者との戦い。狭義には11―13世紀にヨーロッパ諸国民がキリスト教発祥の聖地パレスティナをセルジューク・トルコの占領下から解放するとして行った遠征をさす。1095年教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議でこの遠征を宣言し,十字架を戦士の標識と定めた。第1回(1096年―1099年)は隠者ペトルスの巡礼群を最初とし,次いで教皇代理アデマール司教の統率下にゴドフロア・ド・ブイヨンなどフランス騎士軍が遠征した。小アジアにアンティオキア公領,エデッサ伯領,1099年エルサレム占領に成功してエルサレム王国を建設,1102年にはトリポリ伯領を建設した。これらを聖地四国という。このときテンプル騎士団ヨハネ騎士団成立。第2回(1147年―1149年)は聖ベルナールのすすめで,フランス国王ルイ7世,神聖ローマ皇帝コンラート3世がダマスカスを攻めたが失敗した。第3回(1189年―1192年)は1187年イスラム側のサラーフ・アッディーンがエルサレムを占領したのに対し,リチャード1世,フリードリヒ1世,フィリップ2世の英・独・仏3君主が出陣し,アッカー(アッコ)を臨時首府としてエルサレム王国を再建した。しかし,聖地奪回には失敗した。ドイツ騎士修道会成立。第4回(1202年―1204年)は聖地へは向かわず,ベネチア商人のすすめでハンガリー,ビザンティン帝国を攻撃,コンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建設した。第5回(1217年―1221年)はフランス貴族ブリエンヌらがエジプトのアイユーブ朝を攻めたが敗れて全軍捕虜となった。第6回(1228年―1229年)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が外交交渉で一時エルサレムを回復したが,間もなくホラズム・トルコに奪回された。第7回(1248年―1254年)はフランス王ルイ9世が指揮してエジプトを攻めたが王自身が捕虜となった。第8回(1270年)もルイ9世が指揮してチュニスを攻撃したが王の病死で失敗し,1291年アッカー(アッコ)が陥落して聖地諸国は全滅した。この間には少年十字軍(1212年)と呼ばれるものもあり,14世紀以後も十字軍は続けられたがオスマン帝国の興隆にはばまれ全面的に失敗に終わった。しかし十字軍の結果,教皇権の失墜と封建貴族の没落により王権が伸張し,東方貿易の繁栄によりアラビア文化・科学が伝播し,西欧諸都市の勃興(ぼっこう)をもたらした。なお,13世紀初頭南フランスのアルビジョア派を討伐したものをアルビジョア十字軍と呼ぶこともある。
→関連項目アッコイタリアエルサレム騎士騎士修道会地中海ティール東方貿易トロードスバーリビザンティン帝国ビルアルドゥアンブスラモンテ城ユダヤ人

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「十字軍」の解説

十字軍(じゅうじぐん)
Crusades

ビザンツ皇帝の要請を受けたローマ教皇の唱道のもと,巡礼者を保護し,イスラーム教徒に奪われたイェルサレムを奪還するために企図された「キリストの戦士(騎士)」による軍事遠征。1095年クレルモン教会会議で教皇ウルバヌス2世が提唱すると,熱狂的な反応があり,翌年最初の遠征が実現。2世紀近くにわたる断続的遠征で,唯一「成功」したのは,第1回十字軍(1096~99年)のみであった。ゴドフロワ・ド・ブイヨンをはじめとする諸侯に統率されたフランスの騎士軍を中心とし,アンティオキア公領,エデッサ伯領トリポリ伯領を設立したのちに,巡礼の精神に忠実な民衆の精神的な支えもあり,99年聖地を征服して,イェルサレム王国を建国した。第2回以後は,しだいに当初の理想が失われ,諸侯や騎士,イタリア都市の利権争いの場に転じた。また時代を下るにつれ傭兵が盛んに用いられ,「誓願」の換金償却,代行が一般化した。とりわけ第4回十字軍(1202~04年)は,聖地へ向かう代わりに,コンスタンティノープルを陥れてラテン帝国を建国した。最後にルイ9世(聖王)が企てた第7回(1248~54年)と第8回(1270年)遠征も,エジプトを攻撃して散々な結果に終わった。十字軍の背景には,清貧と贖罪(しょくざい)を追求する巡礼の伝統,西欧内部でのフェーデ(血の復讐(ふくしゅう))をキリスト教の敵への攻撃に転化させようとする教会人の思惑,聖戦の観念の継受,魅惑的な宗教的イメージ(天上のイェルサレム,聖ゲオルギウス,旧約聖書的世界)の力などがあった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「十字軍」の意味・わかりやすい解説

十字軍
じゅうじぐん
Crusades; Kreuzzüge; Croisades

11世紀から 15世紀中頃にかけて行なわれた,西ヨーロッパのキリスト教徒の東方遠征。エルサレム聖墳墓をイスラム教徒の手から奪還,防衛することを名目とした。元の意は「十字架の印をつけたもの」。狭義には 11~13世紀に行なわれた遠征をさす。第1次(1096~99)は,セルジューク・トルコの侵入に悩むビザンチン皇帝からの義勇軍要請を契機に,ローマ教皇ウルバヌス2世が教皇の名による独自の遠征軍の結成を提唱,主としてフランスの諸侯・騎士の率いる 40万の軍団が十字架の旗印を立てて出発した。1099年エルサレムに到着した軍は強襲により聖墳墓を奪還し,エルサレム王国を建設した。トルコが再び勢いを増したため第2次(1147~49)としてドイツ王コンラート3世,フランス王ルイ7世が参加したが敗退。続く第3次(1189~92),第4次(1202~04)では本来の目的である聖地奪還から逸脱し,地中海における政治上,経済上の利益の追求と擁護に転化した結果,ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを占領,ラテン帝国を樹立した。第5次(1218~21),第6次(1227~45),第7次(1248~68),第8次(1268~91)の遠征も,結局はイスラム勢力の軍事的勝利に帰した。この後も小規模な遠征が行なわれ,特に 1453年のコンスタンチノープル陥落は十字軍精神を回復させたが,もはや真の意味の遠征は行なわれなかった。十字軍運動は,地中海貿易の発展,イタリア諸都市の繁栄を促すとともに,イスラム文化の西ヨーロッパへの流入にも力をかす結果となった。(→子供十字軍

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旺文社世界史事典 三訂版 「十字軍」の解説

十字軍
じゅうじぐん
Crusade

11世紀末期〜13世紀の間,ヨーロッパ諸国のキリスト教徒が聖地イェルサレム回復のために起こした大遠征軍
セルジューク朝のキリスト教巡礼者に対する迫害(実際にはこのような事実はなかったが,西欧では事実と認識されていたともされる)と,その侵入に悩むビザンツ帝国皇帝の救援を機に,1096〜99年,教皇ウルバヌス2世の勧告(クレルモン公会議)で送られたのが始まり(第1回十字軍)。その後,おもなものとして1147〜49年(第2回),1189〜92年(第3回),1202〜04年(第4回),1228〜29年(第5回),1248〜54年(第6回),1270年(第7回)の計7回行われた。第1回のとき,聖地を回復してイェルサレム王国を建てたが,他はすべて失敗に終わった。インノケンティウス3世の提唱による第4回十字軍は,地中海商業の覇権をめざすヴェネツィア商人にあやつられ,コンスタンティノープルを占領,ラテン帝国を建てた。これ以後,純粋な信仰的動機よりは,しだいに征服欲や利益追求の傾向が強まった。十字軍は失敗したが,これによって教皇・教会の権威の失墜,封建貴族階級の没落,王権の伸張,東方貿易による北イタリア諸都市の発展,貨幣経済の進展による荘園制の崩壊,ビザンツ帝国・イスラーム諸王朝などの東方文化の移入によるルネサンス的機運の醸成など,中世ヨーロッパに大きな影響を与えた。このほか,1212年少年十字軍が起こり,南フランスのアルビジョワ派やスペインの異端討伐にも十字軍が結成された。

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とっさの日本語便利帳 「十字軍」の解説

十字軍

聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還することを旗印に結成されたキリスト教徒の義勇軍。一〇九六年の第一回から一三世紀後半にかけて七回ないし八回の正規遠征を試みたが、多くは失敗。聖地回復はならなかったが、長期の東西接触はヨーロッパ史に大きな転機をもたらした。

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世界大百科事典(旧版)内の十字軍の言及

【エーグ・モルト】より

…当時,ルイの王権はフランス北部を勢力範囲としており,地中海への足がかりを欠いていたため,この地を基地として重視した。とりわけ,十字軍派遣の拠点として期待された。完成はルイの死後となったが,城郭は500m×350mのほぼ長方形をとり,4~5mの高さの壁と,10mにおよぶ塔によって守護される堅固なものであった。…

【軍服】より

…これらは量産され,国家から支給されたものであった。また13世紀の十字軍は鎖帷子(かたびら)の上に,各騎士団の十字の紋章をつけたシュルコを着て目印とした。15世紀の〈ばら戦争〉では,ヨーク家とランカスター家のそれぞれのバラの紋章が,日本の陣羽織にあたるタバードtabardにつけられていたという。…

【巡礼】より

…僧侶や学者は別として,一般人がエルサレム巡礼に出る風潮は4世紀ごろに始まったらしい。聖地巡礼路の確保が十字軍の発端であったことは周知の事実だが,十字軍そのものも当事者の意図においては巡礼にほかならなかった。ローマ巡礼は9,10,11世紀,および50年ごとに聖年が宣布されるようになった14,15世紀の2度にわたって極盛期を経験した。…

【シリア】より

…ただし文化面ではシリア出身者はそのヘレニズムの遺産をもって,いわゆるイスラム文明の興隆に大いに貢献した。
【十字軍とアイユーブ朝下での繁栄】
 9世紀半ばになってアッバース朝の支配が緩んでくると,エジプトで事実上独立したトゥールーン朝(868‐905)がパレスティナから中部シリアを支配し,10世紀の前半には同様の性格をもつイフシード朝がほとんど同じ領域を支配した。10世紀の前半から末まで,北シリアはハムダーン朝(905‐1004)が勢力を張っていた。…

【地中海】より

… ノルマンによって1130年に建国されたシチリア王国は,この東・西地中海の再結合に大きな役割を果たした。この時代,十字軍によってヨーロッパの勢力がレバントへ拡大したが,文化的には逆に優れたイスラム文化およびその地に保存されていた古代ギリシア文化がヨーロッパに大きな影響を与えた。たとえばアリストテレスの主要な作品がラテン語訳され,ヨーロッパで利用可能となったのも12世紀のことである。…

【バーリ】より

…87年バーリの水夫たちは,小アジアのミュラから聖ニコラウスの遺骸を持ち帰り,聖人にちなんだ大聖堂が建設され,バーリは巡礼の中心地となる。98年,第1回十字軍を組織したウルバヌス2世により,ラテン教会とビザンティン教会の和解を図る公会議が開催されたが,目的は果たされなかった。しかしこの事実により市の名声はあがり,以後の十字軍の重要な出発地となり,エルサレム巡礼への要地ともなった。…

【ヒッティーンの戦】より

…ティベリアス湖西方のヒッティーンHiṭṭīnで行われたムスリム軍と十字軍との決戦。1187年3月,サラーフ・アッディーンは聖戦(ジハード)を宣して,エジプト,シリア,ジャジーラから1万2000の正規軍と2万余の補助軍を結集,一方,エルサレム王のギーもほぼ同数の十字軍騎士を集めてこれに対抗した。…

【ユダヤ人】より

…ユダヤ人をこのように宗教集団としてみるか,民族あるいは人種集団としてとらえるか,さらにはこれを〈世界的国民〉とするか,また〈民族階級〉とみなすか,これらはいずれも,少数者集団としてのユダヤ人と,その周囲の多数者とがどのように互いにかかわりあっているかによるものであり,それぞれの歴史的情況によって規定されている。 中世,とくに十字軍以前は,ヨーロッパでもイスラム世界でも,ユダヤ人は,宗教的問題として,すなわちユダヤ教徒として扱われていたのに対し,これをもっぱら民族,人種とみる考え方は,19世紀以降,ヨーロッパにおいて,近代市民社会が国民国家という枠組みのなかで形成されるようになってから生まれた。そこでは,ユダヤ教徒のナショナリティが問われ,やがて国家をもたないユダヤ人は市民社会の矛盾を転嫁するかっこうの存在となり,宗教的差別が人種的差別に転化され,〈ユダヤ人〉概念が完成される。…

【ラテン帝国】より

…第4回十字軍とベネチアが,〈ローマニア(ビザンティン帝国支配領域)分割協定〉(1204年3月)に基づき,コンスタンティノープル攻略(1204年4月)後に合作した国家。同協定の定める皇帝選考委員会(ベネチア側,騎士側それぞれ6名から成る)は,自ら従軍したベネチア総督ダンドロEnrico Dandoloの筋書どおり,十字軍指導者のモンフェルラート辺境伯ボニファチオBonifacioをさしおいて,フランドル伯ボードアンBeaudouinを選び,後者は,皇帝を出さなかったベネチア側から選ばれたコンスタンティノープル・ラテン総主教モロシニTomaso Morosini(ベネチア貴族出の修道士)により,アヤ・ソフィア教会でボードアン1世(在位1204‐05。…

※「十字軍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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