リスボン(読み)りすぼん(英語表記)Lisbon

翻訳|Lisbon

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リスボン」の意味・わかりやすい解説

リスボン
りすぼん
Lisbon

ポルトガルの首都。テージョ川タホ川下流の三角江右岸にある。人口55万6797(2001)。同国最大の都市である。ポルトガル語ではリズボアLisboaといい、リスボンは英語名。8世紀に北アフリカから北上したイスラム勢力がLuzbonaとかUlixboneなど、現在と似た呼称を用いたようである。気候は温暖で、平均気温は8月23.0℃、1月11.2℃、年降水量706.1ミリメートルである。

[田辺 裕・柴田匡平]

市街

山の手のアルトAlto地区、中心部の低地であるバイシャBaixa地区の二つに大きく分けられる。両地区は公共のエレベーターやケーブルカーで結ばれている。ローマ同様七つの丘があるというのがリスボン市民の自慢だが、北西に延びる現市街には12以上の丘がある。テージョ川対岸には高さ109メートルのキリスト像(1959)が望まれる。1966年に完成した西ヨーロッパ最長の吊橋(つりばし)「4月25日橋」(旧サラザール橋)は初めて対岸との間をつなぎ、地域開発に資することとなった。1755年の大地震ののち、時の宰相ポンバル侯の采配(さいはい)で復興と再開発が積極的に推進され、現在の中心部の街路が整備された。レスタウラドーレス広場(1640年の独立回復を記念する広場)から北西に向かって、ポンバル侯広場まで延びる幅90メートル、長さ1.5キロメートルの並木通りリベルダーデ通りはリスボンの中心街路で、1880年の開通である。

 バイシャには文化、商業、行政、交通の各施設が集中する。とくににぎわうのはカフェーに囲まれ、波紋模様のタイルが美しいロシオ広場から官庁街にあるコメルシオ広場にかけてである。ロシオ広場の東の丘陵上にサン・ジョルジェ城がそびえ、その東側のアルファーマ地区は1755年の大地震の災厄を免れ、入り組んだ街路と古い建物の残る雑踏の巷(ちまた)となっている。リスボンの主要街路は緑が多く、随所の広場で歴代君主のオベリスクがみられる。またイギリスとの歴史的な結び付きを反映する施設名が多く、サン・ジョルジェ城はイギリスの守護聖人聖ジョージにちなみ、リベルダーデ通り北西突き当たりにあるエドワルド7世公園は同国王のポルトガル訪問を記念したものである。西端のベレン地区には、テージョ川の河畔マヌエル様式のベレンの塔(1515)が建ち、その北東には16世紀マヌエル様式のジェロニモス修道院がある。この両建築物は1983年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)として登録されている。ベレン地区にはほかに国立古美術館、グルベンキャン美術館、海洋博物館、考古学・人類学博物館など、文化施設も多い。リスボン大学(1911創立)、工科大学、カトリック大学など、五つの総合大学がある。

[田辺 裕・柴田匡平]

産業・交通

おもな経済活動は観光と商業であり、とくにリスボン港は貨物集散地として重要な役割を果たしている。在来の地場産業としてはせっけん、軍用品製造、製鉄などがあったが、これにガラス製造、電子機器、マーガリン製造などが加わってきた。大規模な工業開発が促進されているのはテージョ川対岸部の工業地帯で、セメント工場、穀物サイロ、製鉄コンビナートなどが建ち並んでいる。ただし近年の政治的・経済的停滞のためにその発展はかならずしも順調ではない。空港は北約7キロメートルのポルテラ・デ・サカベーム空港。国鉄の駅は市内に四つあり、国内各地やスペイン、フランスへの国際列車も発着する。市内の交通は地下鉄、バス、市電がある。都市問題としては住宅難があげられ、住宅建設が市の外郭部で進められている。

[田辺 裕・柴田匡平]

歴史

すでにローマ時代からオリシポOlisipoの名で知られており、この町にきたユリウス・カエサルからフェリキタス・ユリアFelicitas Juliaとよばれた。西ゴート人の支配を経て、716年からイスラムの支配下に入った。1143年カスティーリャから独立したポルトガルの国王アフォンソ1世Afonso Ⅰ(1109?―1185、在位1139~1185)は、おりからドーロ川河口に入った北方十字軍船団の支援を得て、3か月のリスボン包囲ののち、1147年10月24日これを解放した。1249年アフォンソ3世Afonso Ⅲ(1210―1279、在位1248~1279)のアルガルベ征服によってポルトガルのレコンキスタ(国土回復戦争)が完了すると、南部の重要性が高まり、13世紀中葉からリスボンはコインブラにかわって王国の首都となった。以後、リスボンは地中海と北海を結ぶ貿易路の中継地として発展し、1383~85年王国独立の危機に際しては、リスボンのブルジョアジーが独立を守るために決定的な役割を果たした。リスボン市政は、24人のギルド代表からなる24人会によって行われた。1498年バスコ・ダ・ガマがインド航路発見に成功すると、リスボンは東洋の香料の荷揚げ港として空前の繁栄をみた。それまでサン・ジョルジェの山城にこもっていた国王は、テージョ川の岸辺に王宮を構え、さらにジェロニモス修道院、ベレンの塔などマヌエル様式を代表する建造物がつくられた。当時リスボンの人口は約7万と見積もられ、ヨーロッパ有数の大都市に成長した。1755年11月1日大震災にみまわれ、市街地の大半は廃墟(はいきょ)と化した。時の宰相ポンバル侯は市街の抜本的な改造を図り、テージョ川に面したテレイロ・ド・パソを中心に町を碁盤目状に区画し、家並みもいわゆるポンバル様式に統一したため、リスボンは啓蒙(けいもう)思想を体現した近代都市として生まれ変わった。しかし、15世紀以来、造船工業のほかに際だった工業はなく、本質的には商業都市として今日に至っている。

[金七紀男]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リスボン」の意味・わかりやすい解説

リスボン
Lisbon

ポルトガルの首都。リスボン県の県都を兼ねる。ポルトガル語でリシュボアまたはリズボア Lisboa (リスボンは英語) 。港湾都市で,イベリア半島の最西端,テージョ川の右岸に位置する。起源は古代フェニキアの植民市といわれ,ローマ帝国,ムーア人による支配の時代を経て,1147年アフォンソ1世の治下に入り,1256年アフォンソ3世によりポルトガルの首都と定められた。大航海時代以後はインド,ブラジル航路の玄関口として香料貿易などにより発展。 1755年の大地震では市街の大部分が破壊されたが,その後新市街を建設。テージョ川の三角江が自然の良港となり,ヨーロッパの主要都市や国内の後背地と鉄道で結ばれ,重要な交易の中心地となっている。政治,経済の中心地で,製鉄,自動車,造船,繊維,製紙,製油,たばこなどの工業が行なわれる。おもな輸出品はオリーブ油,ワイン,果実,コルク,木材,イワシの缶詰。東部のアルファマ地区にはイスラム時代のサンジョルジェ城があり,西部のベレンの塔ジェロニモス修道院は,1983年世界遺産の文化遺産に登録。ほかに 1290年創立の大学,馬車の博物館,宮殿などがある。 1966年にテージョ川を渡る長大な吊橋サラザール橋 (2.3km) が完成し,都市は左岸にも膨張して大都市圏を形成している。人口 54万5245(2011)。

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