ソウヤ場所(読み)そうやばしよ

日本歴史地名大系 「ソウヤ場所」の解説

ソウヤ場所
そうやばしよ

蝦夷地北端、宗谷を中心とする場所(持場)名。モンベツ場所も含み、広大な海岸線を有した。「蝦夷地一件」に「西蝦夷地ソウヤと申所」は一六八〇年代(貞享年中)の開設とあり、商場はこの時期の成立とされてきたが、シャクシャインの戦に関連した記録「津軽一統志」には「そう屋 有縁泊りと言澗有、狄家あり、商場有、大将シルウヘンテアイン、同カシモレイ」とあり、一六六〇年代には商場があったとされる。また松前氏の船三艘が六月に「そうや」など三ヵ所に商いに来たとあり、当地の商場は松前藩主直轄であったとみられる。一六二〇年前後松前に潜入したイエズス会宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスとディオゴ・カルワーリュの「北方探検記」には天塩アイヌが「中国品のようなドンキ」(中国製絹織物、山丹錦・蝦夷錦)を松前に持ってきたとあり、カラフトから天塩アイヌに渡っていたのであれば、宗谷アイヌも同様に松前城下との交易に参加していたと推測できる。一六三五年(寛永一二年)に佐藤加茂左衛門・蠣崎蔵人らがカラフト検分を行い、また松前藩第二代藩主松前公広のときに家士が宗谷のサンナイから渡海してカラフトのウツサムなどまで行ったといわれることも(稚内市史)、早くから宗谷が交易の拠点となっていたことを示すものといえる。

一六九六年(元禄九年)五月、朝鮮王朝の下級官吏李志恒(李先達)ら八人の朝鮮人が利尻りしり島ないしは礼文れぶん島と思われる島に漂着、「小有我」(宗谷)を経て南下し、松前藩の保護のもと江戸・対馬を経て釜山に送還されている。李志恒の記録「漂舟録」には宗谷近辺に和人の姿はなく、アイヌが漁業に従事し干魚を生産する様子などが描かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報