飛騨屋久兵衛
ひだやきゅうべえ
江戸時代の材木商、蝦夷地(えぞち)の山請負および場所請負人。祖は甲斐(かい)武田の武将といわれ、姓を武川(たけかわ)という。初代(名は倍行(ますゆき)、1674―1728)のとき松前(まつまえ)に渡り、1702年(元禄15)松前藩から蝦夷檜(ひのき)(エゾマツ)伐採の許可を得て、志利別(しりべつ)、のちに沙流(さる)、久寿里(くすり)、厚岸(あっけし)などの各山を開き、江戸へ積み出し巨利を得た。3代(倍安(ますやす)、1737―84)のときに石狩(いしかり)12場所の下請負、さらにヱトモ、厚岸、霧多布(きりたっぷ)、宗谷(そうや)場所を請け負い、その活動範囲を山から海へと広げた。しかしその後、藩と結託した元手代嘉右衛門(かえもん)とのいざこざがあり、藩により伐採業を禁止され、また4代(益郷(ますさと)、1765―1822)に至って国後(くなしり)・目梨(めなし)におけるアイヌ蜂起(ほうき)の責を負わされ請負場所を没収された。以後没落の一途をたどり、1791年(寛政3)ついに松前の店を閉じるに至った。
[山崎節子]
『飛騨屋久兵衛研究会編『飛騨屋久兵衛』(1983・下呂ロータリークラブ)』
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飛騨屋久兵衛(初代)
没年:享保13(1728)
生年:延宝2(1674)
江戸中期,蝦夷地場所請負商人。飛騨国益田郡湯之島村(岐阜県下呂町)で木材請負業武川久右衛門の長男に生まれ,倍行と称した。下呂を拠点とする同家は,久兵衛が元禄9(1696)年木材の大市場である江戸進出を果たし,以後次第に発展,飛騨屋と号した。下北の大畑(青森県大畑町)を経て同15年松前にも進出し,蝦夷地産の木材を江戸市場などに送って巨利を得た。「碌々と山間に生涯を終らんよりは寧ろ他国に出て事を成す」との意志が強く,この冒険的事業家としての性格が,成功の要因であったと思われる。 以後代々久兵衛を名乗るが,2代目までは山林事業。3代目は安永2(1773)年,松前藩への巨額の貸付金の代償としてアッケシ,クナシリなどの4場所を請負い,山林経営から漁業経営に転換してゆく。しかし4代目は,アイヌ酷使のため寛政1(1789)年のクナシリ,メナシのアイヌ蜂起にかかわって,松前藩から場所を没収された。<参考文献>根室シンポジウム実行委員会編『三十七本のイナウ』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
飛騨屋久兵衛(初代) ひだや-きゅうべえ
1674-1728 江戸時代中期の商人。
延宝2年生まれ。蝦夷(えぞ)地の山請負。祖先は甲斐(かい)武田の武将といわれる。23歳のとき江戸にでて,栖原(すはら)角兵衛家の手代となる。元禄(げんろく)15年(1702)松前にわたり,松前藩の許可をえてエゾマツを伐採し,江戸,大坂へつみだして材木商として成功した。享保(きょうほう)13年11月10日死去。55歳。飛騨(ひだ)(岐阜県)出身。姓は武川。名は倍行(ますゆき)。
飛騨屋久兵衛(4代) ひだや-きゅうべえ
1765-1822 江戸時代中期-後期の商人。
明和2年8月生まれ。家業の蝦夷(えぞ)地の場所請負をついだが,寛政元年(1789)国後(くなしり)と目梨(めなし)のアイヌが過酷な収奪に反抗してたちあがった戦い(クナシリ島の乱)の責任をおわされ,請負場所を没収される。3年松前の店をとじ,父祖の地飛騨(岐阜県)下呂にかえった。文政5年死去。58歳。姓は武川。名は益郷(ますさと)。
飛騨屋久兵衛(3代) ひだや-きゅうべえ
1737-1784 江戸時代中期の商人。
元文2年生まれ。家業の蝦夷(えぞ)地の山請負をついで,木材の伐採・販売業をいとなむ。のち松前藩の圧迫で木材業をやめ,厚岸(あっけし),霧多布(きりたっぷ),国後(くなしり),江鞆(えとも),宗谷の場所請負人となった。天明4年5月3日死去。48歳。姓は武川。名は倍安(ますやす)。
飛騨屋久兵衛(2代) ひだや-きゅうべえ
1698-1750* 江戸時代中期の商人。
元禄(げんろく)11年生まれ。初代の弟の子で,養子となって家業の蝦夷(えぞ)地の山請負をつぎ,エゾマツの伐採・販売にあたる。寛延2年11月30日死去。52歳。姓は武川。名は倍正(ますまさ)。
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飛騨屋久兵衛(4代目) (ひだやきゅうべえ)
生年月日:1765年8月22日
江戸時代中期;後期の材木商;蝦夷地の山請負・場所請負人
1827年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報