韓国,南東端の都市。人口は375万(2003)で,ソウルに次ぐ。天然の良港釜山港を中心に形成された都市で,1963年に政府の直轄市に昇格した。95年に広域市に各称を変更,現在15区,1郡が置かれている。李朝時代の15世紀には三浦(さんぽ)の一つとしてこの港が開かれ,富山浦と呼ばれた。日本の対馬との貿易が近郊の倭館で行われたが,富山浦自体は閑散とした漁港であった。また,豊臣秀吉の朝鮮侵略の際には日本軍の上陸地点となった。1876年の日朝修好条規による開港以後,日本の居留地が置かれ日朝貿易の拠点として飛躍的に発展した。1905年の日露戦争を契機に関釜連絡船,京釜鉄道(京城~釜山),京義鉄道(京城~新義州),さらに中国東北部の安奉鉄道(安東~奉天)へと連なる日本の大陸侵略路が完成し,釜山はその第1関門として重要な位置を占めた。初期には貿易と水産業が中心だったが,植民地時代後半には綿工業,造船などの諸工業が発達し,人口も1904年の1万2000人から10年2万2000人,29年12万人へと急増し,首都ソウルに次ぐ大都市となった。当時の市人口の1/3以上を日本人が占め,市の南部の影島や富民洞一帯に日本人町をつくり,現地人の生活とは別天地をなしていた。
朝鮮戦争(1950-53)中は戦禍を免がれ臨時首都とされたが,南下した避難民によって人口が急増し(約105万。1955),海岸に迫った丘陵地一帯に板子村(バラック)が乱立して,街全体がスラム化した。
戦後いち早く,繊維,食品や合板,鉄材等の建材など,衣食住関連の工業が発展したが,60年代後半からは電子,縫製品,靴などの輸出産業が多数勃興し,釜山港は韓国第1の貿易港に成長,人口も75年には245万人に急増した。洛東江岸の沙上が輸出工業団地として,東萊以北が新興住宅地として開発される一方,金海国際空港の開設(1976)を機に洛東江河口の中州が釜山市に編入されるなど,市域も1960年の241km2から749km2に拡大された。市街地は海岸線と凡川に沿った細長い平地に形成されている。市の中心地にある竜頭山公園の西下に広がる一帯は国際市場と呼ばれ,ソウルの東大門市場と並び称される大商業地となっている。縦に細長く発達した市街地を結ぶ幹線道路が長く1本しかなく,交通事情はよくなかったが,最近南北を貫通する地下鉄が開通し,大幅に改善された。北部の東萊温泉は1000年前から利用されていたといわれる韓国屈指の温泉場であり,近くの海雲台海水浴場とともに国民的な休養地となっている。なお,70年以後,日本の下関との間に関釜フェリーが,さらに近年,博多間を結ぶ高速船が就航している。日本に近いため日本のテレビやラジオの電波も受信できる。
執筆者:谷浦 孝雄
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韓国(大韓民国)南東端に位置する広域市。面積758.21平方キロメートル(1999)、人口410万8400(2001推計)。1914年に府制実施、朝鮮戦争中、韓国の臨時首都になり、57年に区制実施、63年直轄市に昇格。95年地方自治制度の改革により広域市となる。15区1郡で構成され、韓国第二の都市である。主要な工業地区の特色をあげると、まず沙上(さじょう)地区では最近、中心部の工場を移転して工業団地を造成し、製造業全体の約30%が集中、釜山最大の工業地域を形成しており、各種の工場が立地している。忠武地区は水産物加工業、印刷業、亀浦地区には小規模の工業が集中している。影島地区は造船、金属工業、陶磁器工業、甘川地区では化学、金属、水産物加工業、東莱(とうらい)地区では繊維、金属工業が盛んである。凡一・蓮山(れんざん)地区には繊維、金属、靴類の工場が密集している。
釜山は韓国第一の貿易港である。1999年の輸出額は58億ドルで、おもな輸出品は織物、履き物、鉄鋼、船舶など。輸入額は43億ドル。とくにコンテナ取扱い個数では香港(ホンコン)、シンガポール、ロッテルダムなどに続いて世界第5位となっている。釜山はまた鉄道京釜線の終着点でもあり、京釜高速道路(ソウル―釜山)、南海高速道路(釜山―光州)などが集中しており、国際・国内旅客港の機能も韓国第一である。金海国際空港には毎日、東京、名古屋、大阪、福岡との間に旅客機が発着する。釜山大学校、東亜大学校、釜慶大学校、高神大学校、釜山女子大学校など教育施設も多い。
[邢 基 柱]
高麗(こうらい)時代まで寒村だったが、李朝(りちょう)初期に倭寇(わこう)を防ぐ水軍の根拠地となり、日本との交易地にも指定された。1419年、朝鮮軍の対馬(つしま)攻撃(応永(おうえい)の外寇(がいこう))で倭寇が鎮静すると、三浦(さんぽ)(開港場)の一つとして「倭館」が設けられ、日本との交易が行われた。1547年以降、対馬島主宗(そう)氏に限定した日朝貿易の唯一の交易地とされ、豊臣(とよとみ)秀吉軍の侵入により一時断絶したが、江戸時代末期まで続いた。1876年の開国以後、日本の進出拠点となり、領事館、居留地が置かれ、下関、博多(はかた)との航路や京釜鉄道も開通した。日本の植民地下では日本人の商店、会社が林立し、人口も急増して朝鮮第二の都市に成長した。
[吉田光男]
プサン。韓国南東端にある都市。15世紀初め,李朝は日本からの寄航地を富山浦(釜山)・薺浦(せいほ)・塩浦(えんぽ)の三浦に制限したが,1510年(永正7)三浦の乱後,富山浦のみとした。文禄の役(壬辰倭乱)では日本軍の上陸地点となり,江戸幕府による国交回復後,この地の倭館が唯一の外交・貿易の場となった。1876年(明治9)の日朝修好条規で開港,居留地がおかれて日朝貿易の拠点となった。日露戦争を機に関釜連絡船を開設,京城をへて南満州鉄道に直結する大動脈が成立した。朝鮮戦争中は大韓民国の臨時首都がおかれた。現在韓国第2の都市に発展。直轄市。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…溶岩流の厚さは30m以上,幅最大1.3km,長さ5.5kmあり,表面は大小の岩塊が積み重なりすさまじい景観を呈する。天明の噴火後,山頂火口は二重となり,前掛山・東前掛山の外輪山の内側に比高170mの中央火口丘釜山(2560m)が生じた。その頂部には直径350m,深さ150mの大火口があり,現在でも活動している。…
…70年代以降,居留地の廃止は,条約改正とともに,日本国民の強い要求となった。居留地貿易内地雑居【小野 正雄】
[朝鮮における居留地]
朝鮮では,日朝修好条規にもとづき翌1877年釜山にはじめて日本専管居留地が設置された。江戸時代の日朝貿易は,釜山草梁の倭館における対馬藩の制限貿易として行われ,明治政府はこれを継承しながら同条規で一方的に有利で自由,無制限の貿易権を得た。…
…日本からの使客接待のために朝鮮に設けられた建物。室町期には三浦(富山浦,薺浦(せいほ),塩浦)と漢城(現在のソウル)に,江戸期には富山浦(現在の釜山)のみに置かれた。室町期の日朝貿易は外交使節往来の形式をとり,日本各地からの渡航使者は三浦で朝鮮側役人による書契,図書・文引などの検察をうけ,倭館(東平館・西平館の2館に分かれる)に入宿し,使節の格に応じて朝鮮側の接待をうけた。…
※「釜山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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