タタールスタン共和国(その他表記)Tatarstan

改訂新版 世界大百科事典 「タタールスタン共和国」の意味・わかりやすい解説

タタールスタン[共和国]
Tatarstan

旧ソ連邦ロシア共和国内において,タタール自治ソビエト社会主義共和国として存続してきたが,1990年8月に主権国家宣言を行い,現在はタタールスタン共和国としてロシア連邦に加わっている。ウラル山脈の西,ボルガ川中流に位置し,面積6万8000km2,人口377万9265(2002)。首都カザン。1920年5月に自治共和国として成立した。民族構成はタタール人48%,ロシア人43%と二大民族が拮抗し,その他にこの地域の少数民族チュバシ人,モルドバ人,ウドムルト人と,ロシア人と共に移住してきたウクライナ人が数%を成す(1989)。ボルガ川がカマ,ビャトカ,ベーラヤ川水系と合流する地域を国土とし,その約90%は低い平たん地で,森林は16%である。気候は大陸性で,1月の平均気温は-13~-18℃,7月のそれは19~20℃,年降水量は400~450mm。〈タタール〉は北アジアのモンゴル部族を指す中国語に由来するといわれるが,ヨーロッパへのモンゴル来襲以降,ロシアではしだいに主としてトルコ系諸族を指す語として使用されるようになった。現在の共和国のあるボルガ中流域へのトルコ系民族の進出は6~7世紀に始まり,10~13世紀にボルガ・ブルガール国家,その後,キプチャク・ハーン国の支配を受け,15~16世紀にカザン・ハーン国が成立した。しかしカザン・ハーン国は1550年代にロシアのイワン雷帝によって征服され,以後タタール人はロシアによる植民地支配に長く苦しみ,ディアスポラの民となった。タタール人は16~18世紀には繰り返し農民反乱を起こして抵抗するとともに,ウラルシベリア,中央アジアの各地に進出し,19世紀末から20世紀初めのイスラム改革運動(ジャディディズム)を推進し,カザンは帝政ロシアのなかのタタール文化再生の一大中心となった。ロシア革命と内戦期にもロシアのムスリムのリーダーとして,独立への志向を強く示したが,ボルガ・ウラル地域の諸民族には個別の領域自治が与えられ,1920年5月にタタール自治共和国が誕生した。革命後は工業化が急速に進み,とくに石油・ガスの採掘,大型トラックの生産で知られる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のタタールスタン共和国の言及

【ロシア連邦】より

…一時期は,ロシア連邦からの分離・独立の可能性さえも一部でささやかれた。もっとも,大半の共和国は地政的・経済的に独立の条件を欠くので,〈独立〉論は,チェチェンを除き,本心というよりもブラフ(脅し)の色彩が濃かった(ある時期までチェチェンに次ぐ強硬派とみられたタタールスタンも,94年以降,連邦体制に取り込まれた)。とはいえ,そのようなブラフがなされたこと自体が,関係の不確定性を象徴していた。…

※「タタールスタン共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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