トゥサン・ルベルチュール(読み)トゥサンルベルチュール(その他表記)François Dominique Toussaint L'Ouverture

百科事典マイペディア の解説

トゥサン・ルベルチュール

ハイチ独立革命の指導者。フランス領植民地サン・ドマングの農園奴隷の子として生まれる。1791年フランス革命の影響を受けて起こった黒人奴隷反乱に加わり,組織化に指導力を発揮。1794年奴隷制を廃止したフランス革命政府側について黒人軍を率い,介入したイギリス軍を撤退させた(1798年)。1801年東部(1795年のバーゼル条約でフランス領)に進撃して全島掌握,独自の憲法を制定して自ら終身総督となり,実質的に黒人の独立体制を確立したが,同年末には,植民地保持と奴隷制度再建をはかるナポレオンの遠征軍に捕らえられ,フランスで獄死。しかし戦いは続けられ,遠征軍を破って1804年1月ハイチ共和国の独立が宣言された。
→関連項目カリブ海奴隷廃止運動ハイチ

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改訂新版 世界大百科事典 の解説

トゥサン・ルベルチュール
François Dominique Toussaint L'Ouverture
生没年:1743-1803

ハイチ独立運動の指導者。〈ブラック・ジャコバン〉と呼ばれる。イスパニオラ島のフランス植民地サン・ドマングのブレダ農園に生まれた奴隷であったが,御者獣医,家令としてラテン語やフランス語,数学の知識をもち,奴隷解放と独立を夢見ていた。1793年フランスがスペインと戦争に入ると,彼は島の東部(サント・ドミンゴ)を支配するスペイン軍に参加し,優れた軍事的才能を発揮した。だが94年スペイン軍と手を切り,フランス軍に帰順して,奴隷を解放し,島の平和建設に着手しようとした。彼はフランス総督を巧みに追放し,その間イギリス軍が介入したため抗戦の末,98年これを打破し,事実上全島を黒人の手中に収めた。しかし,島の再征服を図るナポレオンの奸計によって,1802年逮捕され,03年4月アルプス山中で獄死した。だが同年11月ルベルチュールの遺志を継ぐ人々によって,島の完全独立が達成された。
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世界大百科事典(旧版)内のトゥサン・ルベルチュールの言及

【カリブ海】より

…奴隷の抵抗としては,1730年代にジャマイカで起こったマルーン戦争が有名だが,その規模が最も大きな反乱は,フランス革命の影響のもとで91年にサン・ドマングで起こった奴隷の大蜂起である。トゥサン・ルベルチュールの指導で進められたこの反乱は,やがて当時ヨーロッパで最強であったイギリス軍やナポレオンの軍隊を撃退して,1804年ついに世界で最初の黒人共和国ハイチとして独立した。世界史上空前の事件である。…

【ハイチ】より

…フランスはここをサン・ドマングと命名し,奴隷労働に基づく綿花,砂糖,コーヒー栽培を行い,18世紀末には奴隷人口は40万人に達した。1791年8月,フランス大革命の影響を受けて奴隷反乱が発生し,解放奴隷トゥサン・ルベルチュールの指導下でそれが独立革命に発展した。1801年に憲法が制定され彼は終身総督となったが,ナポレオンは2万5000の兵士を派遣して革命の鎮圧に当たった結果,ルベルチュールは捕らえられ,03年フランスで獄死した。…

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