翻訳|slave
所有の客体,〈物〉として扱われる人間で,社会的または法的にそのようなものとして正当化された身分の人間をいう。それは人間による人間の抑圧,したがってまた人間の隷属の最も粗野な形態であり,いっさいの差別の原型をなしている。なぜなら奴隷とは,人格を含めて身ぐるみ所有の対象,動産とされた人間であるからである。
奴隷の人格否認が最も徹底したのは,奴隷制社会を生み出した古典古代においてであった。ギリシアのアテナイでは奴隷は〈生きた道具〉とされ,ローマでは〈話す道具〉とされた。このような身分が初めて生み出されたのは,原始共同体の段階においてであったが,戦争捕虜を多数殺さずに奴隷として生かしておくことが常例となったのは,奴隷を生かしておくだけの富がその社会の一部に蓄積され,しかも奴隷を働かせて富や権威を増やすだけの労働対象が蓄積されるという段階においてであった。最も古い記録から奴隷の存在が証明される。奴隷は隷属者の部類に入るが,それが生み出される過程は,近隣共同体間の戦争のなかで,敗者が彼らの共同体を破壊され,その一部が勝者の奴隷にされるという過程であった。それゆえ奴隷は,自分がそのなかで生きてきた共同体が破壊されるか,あるいは自己の共同体から切り離されるという過程を通じて,そのような無権利の状態に落とされたのであって,征服された共同体が全体として隷属共同体として保存され,賦役や貢納を強制されるにいたった隷属農民とは区別されなければならない。
ミュケナイ時代のギリシア人の諸王国に,ホメロスに見られるギリシア人の王家の数十人の奴隷よりも多い数百人の奴隷がいたことが,線文字B文書の解読によって判明した。これは略奪された外国人か貿易で入手された女が主体をなす労働群に分けられていた。ヘシオドスでは小農民の農業が1人か2人の奴隷所有を前提していたことがわかる。植民市建設によるギリシア世界の拡大の結果,ギリシア人の通商活動が盛んになると,その先頭に立って栄えたキオス島やコリントス,アルゴスなどで奴隷使用が発展したが,古典期アテナイで奴隷制が最も発展し,市民とその家族を合わせた人口十数万と同数程度の奴隷がいたものと推測される。そこでは十数人から数十人の奴隷を使う手工業製作所(エルガステリオン)が成立したし,1000人もの奴隷を抱えて鉱山採掘業者などに貸して賃貸料を取る者も現れたし,弓を持ってアテナイの警察業務を行ったり,死刑執行人になったりする公共奴隷も多数いた。これらの奴隷は多くトラキア人,フリュギア人,スキタイ人などの異邦人で,奴隷商人の手を通じて輸入されるものが多かった。このころにはギリシア人相互間では戦争捕虜を身代金を取って解放するのが通例となり,奴隷はだいたいにおいてバルバロイであるという現実ができた。
ローマでは共和政後期における対外戦争の結果として,大規模な奴隷制によって経営される大土地所有制(ラティフンディウム)が発展し,前1世紀のイタリアの総人口400万のうち奴隷は150万くらいに達したと推測される。ヘレニズム期,ローマ帝政前期には,オリエント世界やガリア人,ゲルマン人の世界にも奴隷制が浸透したが,そこでは伝統的な農業のもとでは,奴隷ではなくて隷属農民や自由農民が主要な役割を果たしていたと思われる。奴隷制の発展は古典古代の市民共同体の成員間の貧富の差を大きくし,共同体の分解を推し進める作用をするとともに,ローマでは奴隷の大反乱を引き起こすこととなった。ことに大規模な農業奴隷制が大土地所有内で発展したイタリアやシチリアでは,前2世紀を通じてしばしば大奴隷反乱が起こり,前73年にはスパルタクスの率いる大奴隷反乱が起こってローマ軍を脅かした。このように奴隷制の最盛時は奴隷反乱の多発した時代でもあった。しかし奴隷使用は後1世紀ころからしだいに減少し,隷属的小作制が発展し,帝政後期の4世紀ころからはコロヌス制が農業生産の基礎的な形態となった。
不自由身分としての奴隷は,その後もビザンティン社会や国家の形成に向かって発展するゲルマン,スラブ,アラブの初期社会にもかなり広範に存在したが,古典古代における市民共同体の繁栄した時と所とにおけるように,農業生産の主要な労働組織となったという意味で奴隷制社会と規定することを許すほどのものではなかった。なお,近代にいたって新しい条件のもとで北アメリカ,ブラジル,カリブ海地域に発展した黒人奴隷制は,安易な人道主義だけでは奴隷制を廃止することができないことを示した。
→奴隷制社会
執筆者:太田 秀通
コロンブスの第2回航海(1493-96)で初めてラテン・アメリカに導入された黒人奴隷は,征服地の拡大とともに新大陸の全域に居住領域を広げ,植民地時代の全般を通じて労働力として植民地経済を支えただけでなく,原住民,ヨーロッパ人とともに新大陸の人種,文化の再編に多大な影響を与えた。
征服時代に導入された奴隷は,基本的にスペイン中世の奴隷制の伝統を受け継いだもので,後に経済開発を目的として導入される奴隷とは,その社会的ありようも大きく異なっている。彼らはすでにスペインで奴隷としての体験をもち,文化的にもかなり白人社会に同化していた。征服者の従者として征服戦に参加した彼らは,その功労によって自由身分を許され,原住民に対する支配者としての地位についた者も多い。一方,16世紀前半から砂金開発をはじめとする経済開発の労働力として,直接アフリカから大量の奴隷が組織的に導入された。その背後には,征服直後から始まるラテン・アメリカ原住民人口の激減と原住民保護運動があったが,17世紀初頭のアシエンダ(大農園制)の確立に伴って,ますます黒人奴隷への需要は高まっていった。なお16世紀中ごろからメキシコ,ペルーを中心に活発化する銀開発にも奴隷が投入されたが,農業奴隷に比べその数は少なく,原住民労働者を監視する鉱夫頭など,一定の地位を与えられている例が多い。
17世紀中ごろまでの奴隷制がブラジルを除く大陸部を中心に展開したとするなら,同世紀後半からはカリブ海地域がその中心を担う。すなわち,オランダ,イギリス,フランスのカリブ海進出とプランテーション経済の確立によって奴隷貿易は最盛期を迎え,今日のカリブ海地域の人種構成の基礎が固められた。なお,すでに16世紀の前半に奴隷供給源をアフリカに確保していたポルトガルの場合も,その植民地ブラジルへ大量の奴隷を投入するのは,金鉱開発と熱帯農業が急速に進展する18世紀初頭以降であった。ラテン・アメリカ諸国の大半は,独立を契機として奴隷貿易と奴隷制の廃止に踏み切るが,独立が遅れたキューバで無条件の奴隷解放が実施されるのは1886年,ブラジルは1888年であった。
征服以降奴隷制の廃止までにアフリカから輸入された奴隷は,ブラジルだけでおよそ350万,スペイン領全体で300万,イギリス領,フランス領,オランダ領合わせて約350万と推定され,ラテン・アメリカ全体で1000万を超えるものと考えられる。黒人奴隷が新大陸社会に及ぼした影響は多岐にわたる。とくに大陸部では,奴隷制の廃止以前にすでに自由身分を獲得した黒人も多く,植民地当局による人種規制にもかかわらず原住民,白人と混血し,さまざまな混血人種を生み出した。また16世紀初頭以来,奴隷の逃亡が頻発し,彼らが形成した逃亡奴隷社会の存在は,植民地末期にいたるまでつねに新大陸全域にわたって白人社会の一大脅威であった。なおスペイン領には,16世紀の後半からマニラから太平洋経由で,日本人を含む東洋人奴隷もわずかながら輸入されている。
→キロンボ →シマロン
執筆者:清水 透
北アメリカのイギリス領植民地に,初めてアフリカの黒人が足跡をしるしたのは1619年であった。彼らが奴隷であったのか,年季契約移民であったのかは明らかでないが,20人の黒人がバージニア植民地のジェームズタウンにオランダ船によって連れてこられたのである。41年には北部のマサチューセッツ植民地が初めて奴隷制度を確立し,以後他の植民地にもひろまった。のちに奴隷廃止運動の一つの中心になるマサチューセッツが真っ先に奴隷制度を合法化したのは,ここが貿易業の中心であり,奴隷貿易業者が多かったからである。しかし北部では一般に,奴隷は家事労働者,小規模な農園の労働者として使役され,奴隷労働を大量に必要とする産業構造はなかった。これに対して,タバコに代表されるプランテーション経営が経済活動の中心を占めていた南部では,大量の労働力確保のために黒人奴隷が求められた。奴隷化された先住民インディアンは逃亡の可能性が高く,また伝染病に弱かったこと,白人の年季契約移民は労働力として費用がかかったことなどの事情もあずかっていた。18世紀半ばの南部では,バージニアの植民地人口29万(1756)のうち12万が,サウス・カロライナの場合13万(1765)のうち9万が奴隷人口であった。
自由主義の風潮が高まる独立革命期以降,北部では州ごとにしだいに奴隷制度が廃止され,1787年の北西部条令はオハイオ川,ミシシッピ川,五大湖に囲まれる地域での奴隷制度を禁止した。しかし,88年に発効が決定した合衆国憲法では,奴隷制度は廃止されず,政治上の州人口の算定にあたって,奴隷は1人ではなく3/5としか数えられなかった(第1編第2節3項)。一方,南部では,E.ホイットニーの綿繰器の発明(1793)によって綿花栽培が飛躍的に拡大し,奴隷の需要がますます高まった。1808年に奴隷貿易が禁止されたものの密貿易は絶えず,出生による人口増加も図られ,新しく開拓された南西部との間の,国内の交易も商売として成立した。
奴隷の多くは厳しい監督の下で綿花畑で働かされた。そのため奴隷制度を認めない北部諸州へ向かって逃亡する奴隷があとを断たず,奴隷暴動もまた各地で頻発した。所有者は私有財産として奴隷を自由に売買できたので,夫婦,親子,兄弟姉妹が売られて別れなければならないこともあった。所有者が女奴隷に産ませた混血児は,やはり奴隷として売買された。黒人の血が少しでも入っている者は黒人として取り扱われた。奴隷同士の結婚は多くの場合許されており,生まれた子どもはもちろん所有者の財産となった。宗教はキリスト教を強制されたが,白人と同じ教会を使うことは許されず,むしろキリスト教は奴隷制度を維持するための手段として使われることが多かった。
一方,個人的に所有者から解放されたり,逃亡に成功した黒人もかなりいて,自由な身分の黒人free negroはいつも全黒人人口の10%を超えていた。しかし北部においても彼らは白人と同じ権利が与えられていたわけではない。奴隷制度には反対だが,黒人を白人と平等と考えない北部人が多かったし,南部でも奴隷制度に反対の白人がいた。カンザス・ネブラスカ法(1854)をめぐる奴隷制度支持派と自由派との対立にもみられるように,奴隷制度は南部と北部との政治上の争点であり,南北戦争の原因ともなった。1863年南北戦争の最中にリンカン大統領は奴隷解放宣言を出したが,実際に奴隷が解放されたのは65年に戦争が終わったときであり,同年の憲法第13修正で明文化された。
執筆者:猿谷 要
日本古代の奴隷は,すでに《魏志倭人伝》に生口(せいこう)の記述が見られるので3世紀ころから存在したが,7世紀後半から8世紀にかけて律令法の定める官戸(かんこ),官奴婢(ぬひ)(私奴婢),家人(けにん),私奴婢などの賤民(せんみん)の身分に編成された。奴隷は,犯罪,人身売買,債務,捕虜などにより生じたが,律令法により人身売買や債務により良民を賤民すなわち奴隷とすることは禁止され,奴隷の供給は生益と犯罪に限定された。日本古代には西洋古代におけるような奴隷制社会は存在しなかったので,世界史の発展段階としての古代奴隷制社会論を日本に適用するために,部民制や隷属的性格の強い公民に,あるいは奴隷や隷属的な非血縁者を包摂する古代家族の普遍的な存在に,奴隷制社会の日本的形態を求める見解が第2次大戦前に提出された。戦後にはさらにアジア的な古代社会を設定する立場から,支配者層における奴隷所有が公民支配の本質を規定するとの見解や,公民自体がアジア的な奴隷そのものであるとの見解など,多様な理論が提起されている。厳密に階級としての奴隷として認定できるのは,奴婢などの賤民である。ところが,8世紀の奴婢は,地域差はあるが人口の数%以下であり,かつ多くの場合労働奴隷ではなく,分散的に雑役労働に従う家内奴隷であり,また租税や力役などの負担主体としての公民の階層分化の阻止のために奴隷制的分解を法的に認めなかったために,日本古代を奴隷制社会と規定するのは実証的に困難があるといわれている。しかし,奴隷階級の存在が身分制や人民の意識にどのような意義をもつのか,奴隷制社会と規定できないとした場合に,日本古代社会の発展段階はどのような理論により解明されるのかが問題として残されている。
→賤民 →奴婢
執筆者:石上 英一
奴隷という言葉は中国にもかなり古くから存在するが,より一般的には奴婢と称せられた。そのほかに奴僕,僮奴,家奴,家人,蒼頭,青衣,駆口など種々の名称があった。ただし,これらの名称は時代によって必ずしも常に奴隷を意味しているとは限らない場合もあることに注意しなければならない。しかしここでは,一般に奴隷とみなされている者を,奴婢という言葉で総括して説明する。
まず奴婢の社会的地位をみると,先秦時代は別として,漢代以降においては人民を良と賤とに分けることが多く,その賤民に属するものの一つとして奴婢が数えられる。賤民には部曲その他も含まれているが,良民を自由民とみるならば,賤民は不自由民ということになる。しかし賤民の中でも奴婢は最下級に属し,これを不自由民というなら,その他の賤民は半自由民ということになろう。それなら奴婢はヨーロッパの古典的な奴隷と同じように,まったく物として扱われたのかといえば,必ずしもそうではない。確かに家畜と同一視され,主人の意のままに売買されたり,贈与されたりする点では,物的性格をもっているが,同時にある程度の人格も認められている。すなわち,彼らは自ら財産権の主体として,土地その他の財産や,ときには奴婢をさえ所有していた。奴隷は主人のために無償で無制限の労働に服するものと考えられるが,奴婢に財産権が認められるということは,彼らの労働が完全に主人に収奪し尽くされるのでなく,程度はさまざまであるにせよ,自ら蓄財する機会があったことを示す。また奴婢に制裁を加えることは主人の自由であったけれども,生命を奪うことには制限があり,たとえ有罪の奴婢であっても,勝手に殺害すれば主人が処罰を受けた。さらに奴婢は結婚することもできた。もっともこの結婚は主人に対しては保護されていなかった。ともかく,このように奴婢は人格の一部を認められ,法律的には半人半物の存在であったと理解される。また奴婢はその所属によって官奴婢と私奴婢とに分けられ,前者は宮廷または政府の所有するものであり,後者は個人の所有であった。一般に宮廷あるいは政府が奴婢の最大の所有者とされるが,唐代までは貴族,豪族の中にもかなりの奴婢を所有している者があったと考えられる。
次に奴婢の来源については,およそ4通りの場合がある。第1には犯罪によるもので,これが奴婢発生の起源ともされている。第2には戦争による俘虜がある。とくに古い時代には,被征服部族が全体として奴隷化される場合があったとされる。さらに第3としては債務奴隷,すなわち経済的苦境に陥った者が,自らあるいは妻子を売って奴婢となる場合がある。最後に第4として出生による場合があげられる。奴婢の子は生まれながらにして奴婢身分を継承するというわけである。一方,奴婢身分からの解放については,官奴婢であれば赦免により,私奴婢であれば主人の意志によるが,解放といっても直ちに良民となる場合のほか,上級賤民とされ,さらに良民となる2段階を踏む場合もあった。
奴婢の労働内容は,各種の農作業や手工業などの生産労働をはじめとして,家内の雑役その他あらゆる種類にわたっていた。なかには他の奴婢の指揮監督といった管理的業務に従事する場合もあった。生産労働との関連でいえば,古い時代の方がその比重が大きく,近世においては家内労働が主であったと考えられる。ただし彼らが生産労働全体の中で主要な役割を果たした時期,すなわち奴隷制時代の問題については,非常に大きな見解の相違がある。第2次大戦後の日本の学界では,唐代までを古代すなわち奴隷制の時代とする説が提唱され,かなり広い賛同を得たが,その際には人民全体が国家の奴隷であったとする,いわゆる総体的奴隷制が想定されており,ここで述べている奴婢を奴隷とする理解とはずれがある。また同じく奴婢を奴隷とする理解に立つ説の間にも,奴隷制の具体的な時期をどこに画するかについて大きな差がある。漢代までが奴隷制で南北朝以降は封建制であるとみる説もあれば,明代までを奴隷制とみなす説もある。このような日本の学界の状況は,中国においても類似した点があり,奴隷制時代の具体的な設定時期についてさまざまの説がある。古くみる説では殷代を奴隷制時代としており,新しくみる説では漢代がそれだと考え,その中間にも諸説がある。有力な説は周代を奴隷制の時代とし,春秋戦国時代を封建制への過渡期とみる説であろう。日本の諸説と比較した場合,時期の設定がはるかに古くなっていることと,総体的奴隷制の考え方があまり適用されていないことが特徴といえるであろう。
→賤民
執筆者:岩見 宏
アラビア語では,自由人(フッルḥurr)に対して奴隷一般をラキークraqīqというが,通常は男奴隷をアブド`abdあるいはマムルークといい,女奴隷をアマamaあるいはジャーリヤjāriyaと呼ぶ。イスラム法の規定では,奴隷は異教徒の戦争捕虜か女奴隷の子どもに限られ,債務奴隷の存在は原則として否定された。また女奴隷の子どもであっても,主人がこれを認知すれば自由人となり,解放後は,アッバース朝カリフの多くが女奴隷の子どもであったことからも明らかなように,自由人女性の子どもとほぼ同等の権利を与えられた。奴隷をもつことができるのはムスリムだけであったが,主人は奴隷を〈物〉として所有し,これを売買,相続,贈与の対象とすることができた。しかし奴隷は〈人間〉としての権利も認められ,主人の許可を得て結婚することも可能であったし,職業や信仰の点でも自由人とさしたる違いはなかった。ただ一般には奴隷が裁判官(カーディー)のような公の権威ある職に就くことは禁止され,礼拝やジハードの義務も比較的ゆるやかであったところに自由人ムスリムとの差別があったといえよう。
イスラムは奴隷の解放を,死後天国に行くための善行として積極的に奨励したが,奴隷の存在そのものを否定することはなかったために,イスラム社会のさまざまな面で奴隷の労働力が活用された。男奴隷は家内奴隷として用いられるばかりでなく,傭兵としてもイスラム史上に重要な役割を演じ,なかでも,マムルークと呼ばれるトルコやクルドなどの出身の白人兵は,10世紀以降のイスラム諸王朝の軍隊の中核をなし,奴隷身分からも解放され,軍団や地方の長として,政治を左右する力をもつ者も現れた。また女奴隷は,ハレムへ入る者以外に,歌姫や料理女,あるいは子守女として広く用いられた。ただ職人として手工業生産に従事する奴隷はほとんどなく,農業奴隷も,アッバース朝時代のザンジュを除けば,ごくわずかであったことが特徴である。これらの奴隷は,奴隷商人(ナッハースnakhkhās)の手を経てバグダードやカイロにもたらされた。ブハラやサマルカンドの奴隷市場には男女のトルコ人奴隷が集められ,アラル海南岸のホラズム地方もスラブ人やハザル人奴隷の輸入地としてよく知られていた。またスラブ人の去勢奴隷はユダヤ商人によってイベリア半島に送り込まれ,ここからマグリブを経由してアレクサンドリアに運ばれるルートも存在した。黒人奴隷は,ヌビアやアビシニア,あるいはザンジバルなどの東アフリカからもたらされる以外に,中央アフリカからもリビア南方のザウィーラを経て輸入されたという。
ヨーロッパ諸列強の圧力によって,このような奴隷制が廃止の方向に向かうのは19世紀になってからのことであるが,奴隷の地位が比較的高く,しかも社会的に広く認められた制度であったから,当初はウラマーも奴隷制の廃止に反対であった。しかしコーランは新しい奴隷をつくることを禁止したとする考えがしだいに浸透し,20世紀に入ると青年トルコ党による奴隷制の廃止を皮切りに,アラブ諸国やイランも奴隷貿易が非合法であることを相次いで宣言するにいたった。
執筆者:佐藤 次高
社会的制度としての奴隷の存在は生産活動の発展と密接な関係がある。民族学の比較資料によれば,年代,地域にある程度幅のあるデータになるが,世界中の採集狩猟民社会の間では,わずか3%の社会に奴隷という名で呼べるような従属的で被拘束的な身分が認められるだけである。これに対して,原始的な農耕を行う社会では17%,高度な農耕を伴う社会では43%に奴隷ないし奴隷類似の非自由民が存在する。さらに漁労中心の社会では34%,牧畜民では73%に達する高率で奴隷的身分が認められる。この数字が示すところ,基本的に奴隷制は食料生産のどのような形態にも適合的な制度であり,一方,採集狩猟民社会で奴隷が存在するところでは特殊な条件がかかわっていると考えられる。この例として北アメリカ太平洋岸のクワキウトル・インディアン社会が示唆的である。この社会はサケ漁を基盤として物質的に恵まれており,周辺の諸部族に経済的・軍事的に支配力を及ぼしていた。暴力的略奪によって獲得された奴隷は水くみ,薪取りなどの家事労働のほか,カヌー作り,居宅の修理に奉仕し,またサケ漁,戦争でも重要な人的資源とされていた。農耕民のもとで奴隷制が発達している場合には,全体社会の階層分化および国家の存在との関連でこれを考えなければならない。
非西洋社会で大規模な奴隷制を有していたのはアフリカの伝統的王国である。周辺の部族社会から武力で,あるいは交易を通して獲得された奴隷は,家内奴隷として使われるほか,例えば西アフリカのアカン王国におけるように金鉱山での労働力として用いられた。また地方によっては岩塩山での奴隷の使用もあり,古く14世紀にテグハッザの塩山を訪れたイブン・バットゥータは,その地の塩生産が奴隷労働によっていることを記している。車が未発達で動物の使用にも限界のあるアフリカでは,長距離交易の輸送力としても奴隷は不可欠のものであった。アフリカの奴隷制については,これをヨーロッパの奴隷需要から発生し,さらにアメリカとの奴隷貿易によって盛んになったという見方があったが,現在では自生の奴隷制の存在が確実視されている。もっともこうした純然たるクーリー(苦力)奴隷のほか,飢饉時に保護を求めて主人に奉仕することになった奴隷の例も多い。この場合,家族労働力の一部として奴隷の地位は安定することもあり,事実タレンシ族のもとでは息子のいない男がこうした奴隷を家族に組み込むといわれている。奴隷制の起源が労働力の補充という目的をもった養取(養子取り)にあるという議論との関連で興味ある事例である。最後に,いわゆる〈未開〉社会における奴隷の存在については,これを単純に生産様式の問題としてとらえることはできない。アフリカでもアジアでも,奴隷はしばしば儀礼的供犠の対象とされ,そこでは宗教的な意味をもつ消費の対象としての奴隷が問題となってくる。
→奴隷廃止運動 →奴隷貿易
執筆者:内堀 基光
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他者によって人格ごと所有,支配される人間で,法律のうえでは動産の一種とみなされた。ギリシア,ローマ社会に典型的な形で登場し,戦争捕虜や略奪,誘拐の犠牲者となった周辺部の外国人が奴隷とされた。古代文化は奴隷労働のうえに栄えたが,市民の間に労働蔑視の気風を生み,ローマのスパルタクスの反乱にみられるように,大規模な奴隷反乱を勃発させた。ローマ帝政末期には奴隷制に代わって小作制が普及するようになる。15世紀にポルトガルは本国および東大西洋の島嶼植民地にアフリカ人奴隷を輸入し始め,大西洋奴隷貿易の端緒を開いた。16世紀半ばにはリスボンの人口の10%は奴隷だったという。16世紀以降西ヨーロッパ諸国が西半球に植民地を建設し,それら植民地は特に17~18世紀には多くのアフリカ人奴隷を輸入したので,ポルトガル,イギリス,フランス,オランダなどの商人たちが19世紀初めまで盛んに大西洋奴隷貿易に従事した。カリブ海地域は最も多くの奴隷を輸入(約550万人,西半球の奴隷輸入の約半数に相当)したが,死亡率が高く,19世紀半ばにはアフリカ人人口は210万人にすぎなかった。他方,北アメリカのイギリス領植民地および独立後のアメリカ合衆国への奴隷輸入は40万人程度であったが,奴隷人口の増加がめだち,南北戦争直前の1860年には,約500万人の奴隷が南部諸州で主として農業労働に従事していた。奴隷は白人文化の影響を受ける一方で,アフリカ伝来の諸部族の文化を融合させて,新しいアフリカ系アメリカ人文化を創造した。一方,イスラーム社会では,戦争捕虜以外に,トルコ人,スラヴ人,ギリシア人,アルメニア人,チェルケス(サーカシア)人,ヌビア人,黒人などが奴隷として購入された。男奴隷は,家内奴隷(多くは宦官(かんがん))として用いられるほか,軍事奴隷(マムルーク)としても重要な役割を演じたが,農業奴隷が大規模に用いられることは稀であった。女奴隷は,ハレムへ入る者以外に,歌姫,料理女,子守として広く用いられた。これらの奴隷は家族として認められ,また教育のある奴隷が主人の子弟の養育係をつとめることもしばしばであった。中国では奴隷は史料では「奴婢(ぬひ)」と称せられた。その存在はすでに殷(いん)代に認められ,20世紀初めまで一貫して続いた。犯罪と捕虜のほか,借金のために妻子を売る債務によるものも少なくなかった。秦漢以降では良民とは区別された。他の奴隷と同様売買の対象となったが,官の所有が多かったこと,財産権や婚姻が認められていたこと,奴隷主家内の雑用が主たる仕事で社会全体の主要な生産の担い手になりきらなかったことなどが特徴としてあげられる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…主として農耕・牧畜に従事する独立自営の農民について用いられた。前4世紀アテナイの著述家クセノフォンは,《家政論》のなかで,農業に従事する人々をアウトゥールゴイと〈監督によって農業を行う者〉に分類しているが,前者が家族および少数の奴隷とともに自ら労働したのに対して,後者は自ら働くことなく多数の奴隷を使役して農業を行わせた。前7世紀初頭にまとめられた叙事詩人ヘシオドスの《農と暦(仕事と日々)》のなかには,アウトゥールゴイの姿がすでに明確に描き出されている。…
… 古代ギリシアにおける貴族支配は,しかしながら貴族と平民との身分差が小さいところに特色がある。この事実を示すのがボイオティア生れの詩人ヘシオドスの作品《労働と暦日(農と暦)》(前700ころ)であって,それによれば農民たちは貴族の政治的支配に服しながらも,社会的には土地および奴隷の所有者として,ほぼ対等の立場にあった。ヘシオドス自身が示すような平民による仮借ない貴族批判も,このような社会的状況のたまものであり,またそこにこそポリス民主政成立の歴史的前提があった。…
…またフンデルトシャフトの規模は,のちに密集村落となる数個または十数個の部落から成り立っているのが一般であった。 古ゲルマン時代の身分関係は,貴族をふくむ広義の自由民,解放奴隷,奴隷に分かれ,貴族と一般自由民の成年男子によって前述の民会が構成され,そこで王(レクスrex)または複数の首長が選出され,国家の大事が議せられた。したがって法理的にその統治権,軍司令権,財政制度などをみれば,王制のキウィタスと首長制のキウィタスの2種があったといえるが,当時の民衆の国家観に即していうならば,この両者の差はさほど根本的なものではなかった。…
… 17世紀後半以後は,ジャマイカにも生産がひろがり,18世紀にはこの島とフランス領のマルティニク,グアドループ両島が生産の中心となる。以上のどの植民地でも,サトウキビは黒人奴隷を労働力として栽培されたうえ,モノカルチャー化が進行したので,社会そのものが,少数の白人プランターと大量の黒人奴隷によって構成されるようになる。ふつうこのような変化を,〈砂糖革命Sugar Revolution〉とよんでいる。…
…この点は後述する。
【歴史】
[ジャズの母体]
ジャズを生んだアメリカの黒人が,西アフリカから強制輸送された奴隷を先祖とすることはよく知られている。奴隷輸送は16世紀初め,労働力を必要としていたハイチ(当時はサント・ドミンゴ),キューバなどのカリブ海諸島や南米ブラジルへ向け開始された。…
…これに対し,賤民は不自由民で,私的・公的な権利や利益の享有に制限が加えられていた。〈賤民〉という用語についてはいくつかの理解がありうるが,以下においては,奴婢(ぬひ)や奴隷を含めて,最も広義に解釈することにしたい。 中国における奴婢(奴隷と同義)の起源ははなはだ古く,甲骨文にもみえているが,その発生の状況を明らかにすることはできない。…
…奴隷を対象とする貿易は,奴隷制度の存在するところでは,つねになんらかの意味で存在したということができる。したがって,かつてのイスラム圏や奴隷制をおもな生産形態とした古代社会では,ほとんどのところでそれが見られた。…
…この人身の質入れ証文は,人身売買が盛んであった東国・九州地方などにとくに多く残っており,この人質は,この地方の戦国大名の徳政令の対象にもなっている。質入れの対象としては,債務者の子女または奴婢が多く,質の種類としては,占有質である入質(いれじち)と抵当である見質(みじち)があったが,いずれも質流れとなると人質は,債務奴隷として債権者の下人となった。また,地頭など在地領主が年貢などの課役を滞納した百姓から牛馬資財とならんでその妻子所従を人質としてとること,逃亡百姓の身代りとしてその妻子を人質として差し押さえることなども,通例として認められていた。…
…黒人奴隷兵(アブド)に対して,トルコ人,チェルケス人,モンゴル人,スラブ人,ギリシア人,クルドなどのいわゆる〈白人〉奴隷兵を指す。グラームghulāmともいう。…
※「奴隷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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