改訂新版 世界大百科事典 「奴隷廃止運動」の意味・わかりやすい解説
奴隷廃止運動 (どれいはいしうんどう)
自由主義思想の高まるなかで,主として19世紀前半,イギリス,フランスなどの西ヨーロッパ主要国やアメリカ合衆国で,奴隷貿易および奴隷制の廃止をめざした運動。廃止運動を推進した要因は宗教的・人道主義的なものにとどまらず,経済的・政治的要因が複雑にからみあっていた。さらに,西インド諸島などの海外植民地に奴隷制を敷いていたイギリスやフランスなどと,国内にそれが存在したアメリカの場合とでは,事情がかなり異なっていた。
イギリスでは自由主義的な傾向が強くなった産業革命期には,奴隷貿易に対する批判が高まり,1772年には本国に足を踏み入れた奴隷は解放される旨の判決が出され,76年には最初の奴隷貿易廃止法案が上程された。にもかかわらず,西インド諸島の砂糖プランターや商人の反対にあって,その後も繰り返して提案された同趣旨の法案はいずれも否決された。しかし,労働者の朝食にも紅茶が定着しはじめて砂糖の消費が増加すると,賃金の切下げを望む産業資本家層は,国際的にみて高価なイギリス領西インド諸島産砂糖による市場の独占を打破すべく,奴隷貿易の廃止を訴えはじめる。また,クエーカー教徒などによる宗教的理由による反対論も強まる。結局,T.クラークソンとW.ウィルバーフォースの活動が実って奴隷貿易が廃止されたのは,1807年のことであった。さらに,奴隷制に関しては,第1次選挙法改正の翌年,つまり33年に,議会は奴隷所有者に対して有償で,34年8月1日にイギリス領内の全奴隷を解放することを決定した。
もっとも,全ヨーロッパ的にみると,すでに1792年にはデンマーク王が10年後の奴隷貿易廃止を命じていた先例がある。またフランスでは,1685年に〈黒人法典〉が出されて,一般に奴隷の扱いが穏やかだったといわれるが,1788年にはパリで〈黒人の友協会Société des Amis des Noirs〉が設立され,奴隷貿易や奴隷制への批判を強めていた。フランス革命ではそれらの廃止は実現しなかったが,西インド諸島のフランス植民地の中心サン・ドマングでは,F.D.トゥサン・ルベルチュールとその後継者J.J.デサランの活躍によって,1804年,奴隷と混血者(ムラート)による反乱が最終的に成功してハイチ共和国の独立が宣言され,事実上奴隷貿易の意味はなくなり,14年に結ばれたイギリスとの協定に19年以降の奴隷貿易廃止が明文化された。その後七月王政時代の36年,本国に足を踏み入れた奴隷の解放が実現し,最終的に全フランス領の奴隷制廃止がイギリスと同様に有償で決定したのは48年二月革命のときで,これは奴隷制廃止が全共和派の目標の一つとなったからである。
このようなイギリス,フランスにおける奴隷貿易および奴隷制の廃止にいたる過程では,経済的要因が大きく作用している。19世紀前半の西インド諸島のプランテーションでは,生産が停滞・減少の傾向にあり,奴隷制の経済上の有効性が問われていた。また,かつて奴隷貿易で莫大な利益をあげていたリバプールなどの貿易商にとっても,いまや貿易業の中心はアメリカからの綿花の輸入と工場製綿織物の輸出であった。さらに,すでにふれたように,西インド諸島産の砂糖が市場を独占していることに対する産業資本家層の不満があった。産業革命を背景として産業資本家層は地主階級に対して政治的に優位に立ちつつあり,それはフランス革命,イギリスの選挙法改正,穀物法廃止などの一連の動きにも反映している。また,民主政治をめざす産業プロレタリアートも奴隷廃止運動を支えた。
アメリカにおいては,産業構造上大量の奴隷労働を必要としなかった北部諸州は18世紀末から19世紀初めにかけて州ごとに奴隷制を廃止していった。しかし,南部諸州ではタバコ,綿花,米などの栽培に奴隷労働を使い,ことに綿花は綿繰器の発明(1793)以来アメリカ輸出産業の中心となり,南部は〈綿花王国Cotton Kingdom〉と呼ばれるほどになったので,奴隷の必要性は高まるばかりであった。奴隷制の存否は各州の権限にゆだねられていたので,同じ国のなかでこのような差が生じることになった。イギリス,フランス両国と比べて最も大きな相違はこの点であり,奴隷制廃止はアメリカの場合いっそう困難な状況にあったといえる。
植民地時代からクエーカー教徒をはじめ宗教的な立場から奴隷制に反対する気運はあったが,すべて個人的運動にとどまり,本格的な組織ができたのは1775年で,B.フランクリン指導のもとでフィラデルフィアに結成された奴隷制反対協会が初めである。それから18世紀末までの間に,南部の一部をも含む8州に奴隷制反対協会がつくられ,94年には各代表がフィラデルフィアに集まって会議を行った。このような風潮のなかで1787年に制定された北西部条令では,将来オハイオ川以北につくられる州で奴隷制を禁止した。さらに国際的な世論の影響もあって1808年には奴隷貿易が禁止されたが,密貿易は絶えず,南部諸州の奴隷制は拡大の一途をたどり,1820年にはミズーリの州昇格をめぐって奴隷制の問題(ミズーリ協定)が注目を集めた。
しかし奴隷制の賛否について論争がしだいに高まるのは1830年前後からで,そのころは新しく台頭した西部をも加え,三つのセクションの対立が目だつようになった。当時,北部で活発な奴隷制廃止運動を展開した人々のなかには自由な身分の黒人が多く,彼らは初めての黒人新聞《フリーダムズ・ジャーナル》を1827年に創刊した。また29年には黒人の指導者ウォーカーDavid Walker(1785-1830)が《ウォーカーズ・アピール》を発行して世論の喚起につとめた。この年隣国のメキシコでは奴隷制廃止を決めている。30年には自由黒人だけが集まって全国自由黒人協会を結成,奴隷制廃止に向かって前進することを誓い合った。31年バージニア州に起こったナット・ターナーの大規模な奴隷暴動は南部のプランターたちを震え上がらせ,奴隷取締りはいっそう厳重になった。一方,同年には白人の解放論者W.L.ギャリソンが奴隷解放をめざす週刊紙《解放者》を創刊,さらに33年にはアメリカ奴隷制反対協会を設立して全米の結集をはかった。彼は他の解放論者と違って女性の権利拡張にも賛意を示したので,多くの女性指導者たちも彼の運動に参加した。
解放論者たちのなかには,無償即時解放を叫ぶギャリソンを過激と考える者も多かったが,逃亡奴隷を助ける地下鉄組織underground railroadには多くの人々が積極的に参加したし,黒人のなかにもF.ダグラスやタブマンHarriet Tubman(1820-1913)のような指導者が現れた。50年代に入ると,西部に拡大された新たな領土に奴隷制を認めるべきかどうかが政治上の主要問題となり,52年にストー夫人の小説《アンクル・トムの小屋》が注目を浴びたのち,54年に南部プランター勢力に対抗して奴隷制不拡大を目標とする共和党が誕生した。59年には急進的な解放論者J.ブラウンの武力蜂起があったが成功せず,60年には共和党のリンカンが奴隷制不拡大をスローガンに当選した。61年4月に南北戦争が始まったが,リンカンが奴隷解放予備宣言を行ったのは62年9月で,63年1月に正式の解放宣言が公布された。しかし実質的にすべての奴隷が解放され,廃止運動の目的が達成されたのは,65年南部が敗れて戦争が終わった後の憲法第13修正によってである。
→奴隷 →奴隷貿易
執筆者:猿谷 要
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