イスパニョーラ島はコロンブスが1492年の第一次航海で上陸した島で、スペイン人が最初に植民地を建設した地である。最初の港ラナビダをはじめ、島の西部(現在のハイチ)でいくつかの港の建設が試みられたがいずれも失敗し、島の東部(現在のドミニカ共和国)にサント・ドミンゴが建設されて以来、スペイン人の関心はつねに島の東部に集中した。当時の先住民はスペイン人の攻撃によって絶滅。17世紀初めに、イスパニョーラ島の北西に浮かぶ小さなトルチュ島を基地にしたフランス人とイギリス人の海賊が、「新大陸」からスペインに運ぶ財宝を狙ってスペインの交易船を襲撃し、やがて彼らはイスパニョーラ島の西部に定住するようになった。その後、フランス人はイギリス人を追い出し、入植した数少ないスペイン人と衝突した。1697年に締結された国際条約ライスワイク条約によってフランスが島の西側3分の1の領有権を獲得して、この植民地をサン・ドマングと名づけた。サン・ドマング植民地経済の中心はサトウキビの栽培と砂糖の生産であった。サトウキビのプランテーションは、北部海岸のカパイシェン(カプ・ハイティエン)からアルティボニート平野、中央平野にまで拡大してカリブ海域で最大の砂糖生産地となり、フランスが所有する植民地のなかでももっとも富を生み出す植民地となった。その労働力として、ヨーロッパ・アフリカ・カリブ海地域の三角貿易により、アフリカ人が奴隷として大量に連れてこられ、18世紀末には4万人の白人に対してアフリカ人奴隷が50万人を数えるまでに増大した。このような状況の1791年に、フランス革命の影響を受けたムラート(黒人と白人の混血)と所有者から解放された自由黒人が蜂起(ほうき)し、大反乱へと発展して独立戦争の発端となった。フランス本国は5万人の兵力を援軍として送り反乱を鎮圧しようとしたが失敗し、1804年に独立運動の指導者デサリーヌによって独立が達成された。しかしデサリーヌはナポレオンにならって皇帝として即位し、ヨーロッパ系の白人を追放してアフリカ系の黒人帝国として独立を宣言、国名をハイチとした。1806年に共和制へ移行したが、内紛によって国土を南北に二分する対立が起きた。その後、1820年大統領ボアイエJean Pierre Boyer(1776―1850)によって統一された。1822年にはイスパニョーラ島東側のドミニカ共和国(1821年独立を宣言)を占領し、1844年までイスパニョーラ島全体を支配した。