トーキー映画(読み)トーキーえいが(その他表記)talkie
talking picture

改訂新版 世界大百科事典 「トーキー映画」の意味・わかりやすい解説

トーキー映画 (トーキーえいが)
talkie
talking picture

音や声の出る〈発声映画〉の試みは,〈カラー映画〉と同じように映画の初期からなされていた。もっとも原始的なシステムは,劇場のスクリーン背後俳優や音響係りを配置して,せりふや音をスクリーンにシンクロナイズ(同調)させるもので,1895年に行われたリュミエールの映画会にも,D.W.グリフィス監督の《国民の創生》(1915)の特別公開にもこのシステムが使われたことがあるという。その後,エジソンの〈キネトフォン〉,あるいは〈キネトフォノグラフ〉をはじめ,いろいろなシステムが発明,改良されて,音響と音楽だけのサウンド版《ドン・フアン》(1926),歌唱場面だけを同時録音した〈パート(部分)トーキー〉の《ジャズ・シンガー》(1927)がつくられ,次いで全編に音声が伴う《紐育の灯》(1928)が最初の〈100%オール・トーキー〉として登場する。

 ハリウッドの映画会社ワーナー・ブラザースがいちはやくトーキーの製作を始めたが,それはかならずしもそのころになってやっとトーキーの技術的基礎ができたからではなかった。音波を光学的にフィルムに記録,再生して,それを増幅するというトーキーのための技術的前提は,すでに1920年ころには整っていた。アメリカ映画は,第1次世界大戦に乗じて興隆し,世界市場を制覇したが,そのために利用したスター・システムと大作主義によって製作費が膨張し,20年代末にはアメリカ第3位の重要産業としての発展は限界に達していた。そのうえ,29年に現実となった金融恐慌に象徴されるように,危機をはらんだアメリカ経済の内部矛盾のため大衆の購買力がいちじるしく低下し,アメリカ映画の収支悪化ヨーロッパから俳優や監督を〈輸入〉するといった消極的な対策では問題が解決できなくなっていた。こうして破産に追い込まれかけ,苦境にあったワーナー・ブラザースは,大衆を映画館へ引き寄せる苦肉の策としてトーキーにかけたのであった。この〈絶望的な冒険〉は,危機打開の対策として大成功し,はからずもトーキーは全世界に広まることとなったのである。

 映画のトーキー化は,根本的な技術革新であったから,発声技術のパテント使用料,機械設備など莫大な投資が必要であり,そのため金融資本との結びつきによる映画資本の高度化を急激に促進し,映画の産業的構造を一変して,ウォール街が直接ハリウッドを支配することになった(なお,ドイツでも,映画に着目したルール地方の重工業資本がフーゲンベルク財団を通じてウーファ社を支配するという現象が起こっている)。

 新しい〈音声の世界〉に適合できないスター(たとえば容姿端麗でも声の悪いスター)や監督たちは凋落の運命をたどり,またサイレント映画の体系を根本から書き改めなければならない一大革命であったため,演劇界から新しい人材が導入される半面,映画の初期に見られた〈舞台劇の缶詰化〉となることが危惧され,チャップリンやルネ・クレールのように,30年間にわたって開拓されてきたサイレント映画ならではの視覚芸術が破壊されることに反対する声も強かった。

 トーキーの理論的基礎は,まだトーキーを製作してもいなかったソビエトで築かれた。28年,エイゼンシテイン,プドフキン,グリゴリー・アレクサンドロフ(1903-83)の3人の連名で,〈トーキーのモンタージュ論〉ともいうべき〈トーキーに関する宣言〉が発表された。そして,それを具体化したソビエト最初の長編トーキーであるニコライ・エック(1902-59)監督の《人生案内》(1931)がつくられ,フランスではルネ・クレールが《巴里の屋根の下》(1931)で新しいトーキー表現を開拓し,アメリカではルーベン・マムーリアンが《市街》(1931)で音を映画的に処理し,ドイツではG.W.パプストが《三文オペラ》(1931)で新しい音楽映画の道を開いた。

 その後,トーキーの技術的進歩・改善がつづき,第2次大戦後の磁気録音テープ,ワイド・スクリーンの副産物としての立体音響の登場など,トーキー映画は数々の発明とともに問題を生んで,映画史を築いていくことになる。
サイレント映画
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のトーキー映画の言及

【チャップリン】より

…19年にメリー・ピックフォード,ダグラス・フェアバンクス,D.W.グリフィスと共同で設立したユナイテッド・アーチスツ社でつくった《巴里の女性》(1923),《黄金狂時代》(1925),《サーカス》(1928)をへて,《街の灯》(1931)に至って,冒頭に〈コメディ・ロマンス・イン・パントマイム〉というタイトルがかかげられ,ユーモアとペーソス,笑いと涙のチャップリン映画が完成する。 すでにそのころアメリカではトーキー映画時代を迎えていたが,チャップリンは最後までトーキーに反対し,映画は〈純粋に視覚的な新しい芸術形式〉であると信じ,〈映画は沈黙の芸術である〉,トーキーは〈世界最古の芸術であるパントマイムを亡ぼそうとしている〉とも語っている。 チャップリンの喜劇は,感傷的な人道主義にとどまっているとはいえ,資本主義に対する小市民の反抗の表現であるという評価もあるように,《街の灯》から5年後,自分で作曲した音楽を入れたサウンド版の《モダン・タイムス》(1936)では,〈現代資本主義と近代的テクノロジーのもとでの人間疎外〉を告発し,のちに〈赤〉の嫌疑でアメリカから実質的に追放される最初のきっかけとなった。…

【日本映画】より


[東宝の設立とトーキーの歩み]
 1930年代には,やがて日活,松竹と並ぶ大会社になる東宝が生まれた。東宝成立は日本のトーキー映画の歩みとともにある。31年,東京砧(きぬた)に設立された写真化学研究所Photo Chemical Laboratory(略称PCL)は,国産トーキー社という別会社をつくってトーキー・スタジオを建設,32年,株式会社となって,同じ砧に新スタジオを建て,トーキー施設提供を始め,33年には別会社のPCL映画製作所で映画製作にもとりかかった。…

【俳優】より

…いわゆるスター・システムの盛況である(詳しくは〈スター〉の項を参照)。そしてこの映画俳優のありようは1930年前後に,サイレント映画がトーキー映画に変わるにつれて,そこに要求される資質は内容を変え,たとえば従来の容姿端麗なスターでも声の悪いスターは退陣を余儀なくされた。こうした形勢の変化は,第2次大戦後のモノクロからカラーへの変化,またテレビの進出などによっても起こっている。…

※「トーキー映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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