ソ連の映画監督、俳優、理論家。2月6日ボルガ地方のペンザに生まれる。モスクワ大学理学部に学び、第一次世界大戦に従軍、1920年第一国立映画学校に入り、俳優、脚本家、助監督、美術係などを経験する。1922年クレショフ工房に参加、俳優として協力する一方、クレショフのモンタージュ実験に大きな影響を受ける。監督としては短編喜劇『チェス狂』(1925、共同監督)、パブロフ学説の映画化『頭脳のはたらき』(1926)を経て、ゴーリキー原作による長編劇映画『母』(1926)で一躍名声を得る。『母』は、俳優の優れた演技、細かい画面構成と編集、力強い群集シーン、暗示的モンタージュなどによって、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925)と並ぶサイレント映画期の古典となった。以後、『聖ペテルブルグの最後』(1927)、『アジアの嵐(あらし)』(1928)と力作を発表、エイゼンシュテインのよきライバルとなって理論的著作でも国際的に知られるようになった。トーキー第一作は『脱走者』(1933)だが、1930年代後半からは社会主義リアリズム路線のため実験色を薄め、『スウォーロフ』(1941)、『ナヒモフ提督』(1946)ほか、もっぱら伝記映画の領域へ移ってしまった。著作の『映画監督と映画の材料』『映画脚本論』(ともに1926)、『映画俳優論』(1934)は各国語に翻訳され親しまれた。6月30日リガに没。
[岩本憲児]
チェス狂[ニコライ・シピコフスキーとの共同監督] Shakhmatnaya goryachka(1925)
頭脳のはたらき Mekhanika golovnogo mozga(1926)
母 Mat(1926)
聖ペテルブルクの最後 Konets Sankt-Peterburga(1927)
アジアの嵐 Potomok Chingis-Khana(1928)
脱走者 Dezertir(1933)
スウォーロフ Suvorov(1941)
祖国の名において Vo imya rodiny(1943)
ナヒモフ提督 Admiral Nakhimov(1946)
三つの邂逅(かいこう) Tri vstrechi(1949)
ワシーリー・ボルトニコフの帰還 Vozvrashcheniye Vasiliya Bortnikova(1952)
『馬上義太郎訳『映画俳優論』(1952・未来社)』
ソビエトの映画監督,理論家。セルゲイ・エイゼンシテイン,アレクサンドル・ドフジェンコ(1894-1956),ジガ・ベルトフ(1896-1954)と並んでソビエトのサイレント映画の4大監督の1人に数えられ,モンタージュ理論の確立に寄与した映画理論家として知られる。
革命直後のモスクワでD.W.グリフィス監督の《イントレランス》(1916)を見て映画作家を志し,モスクワの国立映画学校(1919年に開校)に入る。俳優,脚本家,助監督の実技を学び,22年,レフ・クレショフ(1899-1970)の映画実験工房のメンバーとなり,〈モンタージュ〉〈編集〉の技術を習得する。25年,最初の監督作品としてパブロフの条件反射学説の科学ドキュメンタリー《頭脳の機能的構造》をつくる。つづいてゴーリキーの小説をもとに,ダイナミックなモンタージュで知られる《母》(1926),エイゼンシテインの《十月》と並ぶ革命10周年記念映画《聖ペテルブルグの最後》(1927),モンゴル民族の解放闘争を描いた《アジアの嵐》(1928)によってソビエトのみならず世界映画の先頭に立つ。《母》の製作中に〈モンタージュ〉の理論的体系化に着手し(のち1928年にこれを改訂したものが《映画監督と脚本論》としてベルリンで出版された),28年,まだトーキーを製作していなかったソビエトでエイゼンシテイン,アレクサンドロフと連名の〈トーキーに関する宣言〉を発表して,新しい映画形式の進むべき道は映像と音の対位法的処理にあることを示した。その後,ハンブルクの造船労働者の闘争を描いた初のトーキー《脱落者》(1933)などをつくるが,政府の芸術政策の路線転換に伴って〈形式主義〉と批判され,〈芸術と政治〉の問題を提起。41年に《スウォーロフ》で,47年に《ナヒーモフ提督》でスターリン賞を受賞,53年にはレーニン勲章を授けられる。モンタージュ理論のほかにも《映画俳優論》(1934)など多くの著作があり,ソビエトで〈選集〉が刊行された。
執筆者:柏倉 昌美
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…エイゼンシテインと並ぶソ連の映画監督・映画理論家V.プドフキンの名作。1928年製作。…
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[社会主義芸術としての映画]
その後ソビエト映画は,社会主義的建設と同じように平たんではない道をたどったが,1921年から24年にかけての〈ネップ(新経済政策)〉の期間中に経済的な基礎を築き,外国映画の輸入も盛んになり,とくにドイツやアメリカの作品から技術的な刺激を受けた。そして,プドフキンとエイゼンシテインによって〈社会主義芸術としての映画〉が創造され,育成される。監督であり映画理論家でもあるクレショフL.V.Kuleshov(1899‐1970)とともにプドフキンとエイゼンシテインは,D.W.グリフィスやチャップリンをはじめ,アメリカ映画の技術や手法を分析した結果を〈唯物弁証法〉的に理論化してモンタージュ理論を提唱した。…
… トーキーの理論的基礎は,まだトーキーを製作してもいなかったソビエトで築かれた。28年,エイゼンシテイン,プドフキン,グリゴリー・アレクサンドロフ(1903‐83)の3人の連名で,〈トーキーのモンタージュ論〉ともいうべき〈トーキーに関する宣言〉が発表された。そして,それを具体化したソビエト最初の長編トーキーであるニコライ・エック(1902‐59)監督の《人生案内》(1931)がつくられ,フランスではルネ・クレールが《巴里の屋根の下》(1931)で新しいトーキー表現を開拓し,アメリカではルーベン・マムーリアンが《市街》(1931)で音を映画的に処理し,ドイツではG.W.パプストが《三文オペラ》(1931)で新しい音楽映画の道を開いた。…
… イギリスでは,情報省の支配下で,ハリー・ワットの《今夜の目標》(1941),ロイ・ボールティングの《砂漠の勝利》(1943),キャロル・リードとガースン・ケニン編集による英米合作の《真の栄光》(1945)などがつくられた。 ソビエトでは,プドフキン,アレクサンドル・ドブジェンコ(1894‐1956)をはじめ一流監督が戦時ドキュメンタリー製作のために動員され,ナチの侵入後まもなく多くのエピソードからなる《戦闘映画選集》が始まり,セルゲイ・ゲラーシモフ(1906‐72),グリゴリー・コージンツェフ(1905‐73),セルゲイ・ユトケビチ(1904‐85)などの〈戦線映画特集〉が41年11月から42年の終わりまで公開された。また,ロマン・カルメーンの《戦うレニングラード》(1942),レオニード・ワルラーモフの《スターリングラード》(1943)というニュース映画を編集したもの2本と,ドブジェンコの《ウクライナの勝利》(1943‐45)のような長編ドキュメンタリーもつくられた。…
※「プドフキン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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