パレスティナ自治政府(読み)パレスティナじちせいふ

百科事典マイペディアの解説

パレスティナ自治政府【パレスティナじちせいふ】

ヨルダン川西岸地区およびガザ地区を管理するパレスティナ人による自治機関。パレスティナを国家承認している国ではパレスティナの独立宣言に基づいてパレスティナ国と呼ぶ。日本は友好関係にあるが国家承認していないため,日本政府はパレスティナ自治政府,またはパレスティナ自治区と呼んでいる。1988年5月にパレスティナ解放機構(PLO)とイスラエルの間に歴史的な相互承認が成立した。PLO議長アラファートは同年11月,パレスティナ民族評議会でパレスティナの独立宣言を読み上げ,パレスティナ〈大統領〉の呼称を与えられた。湾岸戦争でアラブ諸国の分裂は決定的となったことを受けて,アメリカが主導する中東和平プロセスのもとで,1993年PLOとイスラエルはパレスティナ暫定自治宣言に調印,ガザ,イェリコの両地区にパレスティナ暫定自治政府が樹立された(オスロ合意)。しかし,イスラエルで2001年リクード党のシャロン政権が登場して以後,オスロ合意による和平交渉は行き詰まった。米国における9.11事件以後イスラエルは一層強硬策に転じ,2002年にはパレスティナに軍事侵攻し,これに対する自爆テロも激発した。アメリカのブッシュ政権は2003年のイラク戦争後,パレスティナ国家の独立とイスラエルとの共存をめざす〈ロードマップ〉を提示したが,まもなく暴力の連鎖が再燃し,情勢はむしろ悪化した。2004年のアラファート議長の死後,穏健派のM.アッバスが後任となり,和平交渉の気運が高まった。2005年8月,ガザ地区と西岸地区北部の一部からのイスラエル人入植者の退去が完了した。しかし2006年イスラム原理主義のハマースが総選挙で勝利し,2007年にハマースと穏健派のファタハの連立政権がいったん成立したが,内部抗争が続き,さらに内戦状態となり,連立政権は崩壊した。その後,ハマースの武力によるガザ掌握等を受け,事実上,西岸とガザが分裂状態となり,立法議会は停止状態に陥った。イスラエルと米国はハマースを交渉相手と認めず,2008年12月イスラエルはガザ地区のハマースを空爆,さらに2009年1月には地上侵攻した。2009年2月のイスラエル総選挙で,対パレスティナ強硬派のネタニヤフ率いるリクードが第一党は逃したものの躍進し,労働党などとの右派連立を実現,ネタニヤフが10年ぶりに首相に返り咲いた。イスラエルは,入植事業の継続政策を加速,入植凍結を和平交渉再開の条件とするパレスティナ政府との溝はさらに拡がった。パレスティナは2011年9月,はじめて国連に加盟申請を行い,2012年11月,国連総会は,パレスティナ自治政府の参加資格を,オブザーバー組織からオブザーバー国家に格上げする決議案を賛成多数で承認した。日本は賛成票を投じている。パレスティナを国家として承認する国も増えている。2013年6月,アッバス大統領はハムダッラー首相内閣を発足させ,2014年4月には,ファタハとハマースが国民融和内閣組閣等で合意した。同年5月,アッバス大統領はハムダッラー首相に新内閣組閣を指示。翌6月にハムダッラー首相を首班とし,テクノクラートからなるとみられる国民合意内閣が発足した。今後,大統領選挙,立法議会選挙等の実施に向けた動きが注目される。→パレスティナ問題

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