湾岸戦争(読み)わんがんせんそう

精選版 日本国語大辞典 「湾岸戦争」の意味・読み・例文・類語

わんがん‐せんそう ‥センサウ【湾岸戦争】

(Gulf War の訳語) 一九九〇年八月、イラククウェート侵攻を機に始まった戦争。九一年一月から二月にかけて、アメリカを中心とする多国籍軍とイラクの間で交戦。イラクは国連安保理の停戦決議を受諾。三月に停戦協定が締結され、停戦した。

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デジタル大辞泉 「湾岸戦争」の意味・読み・例文・類語

わんがん‐せんそう〔‐センサウ〕【湾岸戦争】

イラクにより侵略・占領されたクウェートの解放をめぐる戦争。イラクは1990年8月、クウェートに侵攻して占領。国際連合による撤兵決議に応じなかったため、国際連合の決議によって編制された米国を中心とする多国籍軍が、1991年1月イラクに対して攻撃を開始し、2月末までにクウェート全土を解放した。

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百科事典マイペディア 「湾岸戦争」の意味・わかりやすい解説

湾岸戦争【わんがんせんそう】

1990年8月にイラク軍がクウェートに侵攻し,これに反発した国によって米軍を主力とする多国籍軍が組織され,クウェートからのイラク軍の撤退を求めた。しかし,イラク政府が応じなかったため,国連安全保障理事会武力行使容認決議を後ろ楯に,多国籍軍は1991年1月17日にイラクへの空爆を開始し湾岸戦争が始まった。2月24日地上での戦闘が開始されたが,2月28日クウェートからイラク軍が敗走し,クウェート解放という所期の目標が達成されたため戦闘が停止された。戦後イラク領土内10km,クウェート領内5kmに暫定中立地帯が作られ,国連イラク・クウェート国境監視団が行動を展開している。1994年11月,イラクはクウェートの主権と,国連の設定した国境を認めた。なお日本は多国籍軍への国際貢献として130億ドルを支援したが自衛隊の派遣は拒否した。
→関連項目アメリカ合衆国イラクウサマ・ビン・ラディンF117Aステルス戦闘機海部俊樹内閣クウェート(国)クウェート(都市)国連軍シリアスカッドステルス中東パウエルバグダッドバスラパトリオットパレスティナ自治政府パレスティナ問題PLOファハド武器輸出フセインブッシュ陸軍戦術ミサイルシステムレーザー兵器劣化ウラン弾

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「湾岸戦争」の意味・わかりやすい解説

湾岸戦争
わんがんせんそう
Gulf War

1990年8月2日のイラクのクウェート侵攻に端を発し、翌91年1月に米欧軍を主とする多国籍軍のイラク攻撃によって起こった戦争。「クウェートは歴史的にみて自国の領土である」などといった論理に基づくイラクの侵攻による湾岸危機に対して、アメリカはただちに国連安全保障理事会の開催を求めた。安保理は、イラクの行動を非難するとともにイラクの即時無条件撤退を要求する決議を採択、さらに対イラク経済制裁決議、イラクのクウェート併合不承認決議、イラク空域封鎖決議、対イラク武力行使容認決議などを相次いで成立させた。安保理で米ソが拒否権を使わず一致してこれらの決議に賛成票を投じたのは、冷戦時代にはみられなかったことである。またアメリカ大統領G・H・W・ブッシュは、8月7日にサウジアラビア防衛支援の名目でアメリカ軍の派遣を決定、同盟国、友好国に軍事的・財政的協力を強く要請した。

 こうしてアメリカ軍50万を中核とする多国籍軍は、1991年1月17日にイラク攻撃の「砂漠の嵐」作戦を決行し、湾岸戦争の火ぶたが切られた。多国籍軍は、圧倒的な軍事力によってイラク軍をクウェートから撤収させ、続いて、イラクの軍事・産業施設を破壊した。そして2月28日、G・H・W・ブッシュ大統領の停戦命令で、危機発生から210日、戦争勃発(ぼっぱつ)から43日、地上戦突入から100時間で、湾岸戦争は事実上の終結をみた。アメリカ政府は、戦争をきっかけに新世界秩序(New World Order=NWO)構築を掲げたが、その展望は開けなかった。この戦争を要約すると、湾岸におけるイラクの大国主義覇権主義)に、世界の憲兵を自負するアメリカの大国主義(覇権主義)が過剰に対決し、これを国連の大国主義が追認する形をとったもの、といえる。戦後、フセイン政権は、国連の経済制裁(96年12月、イラクの人道的物資購入のため石油輸出は部分的に解除)で苦境に立ちながらも、アメリカなどとの対決姿勢を保ちつつ存続したが、2003年のイラク戦争で米英両軍の攻撃を受け、ついに崩壊した。

[奥野保男]

『ラムゼー・クラーク著、中平信也訳『ラムゼー・クラークの湾岸戦争』(1994・地湧社)』『F・N・シューベルト、T・L・クラウス編、滝川義人訳『湾岸戦争砂漠の嵐作戦』(1998・東洋書林)』『国正武重著『湾岸戦争という転回点』(1999・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「湾岸戦争」の意味・わかりやすい解説

湾岸戦争
わんがんせんそう
Gulf War

1990年8月2日,イラクによるクウェート侵攻をきっかけとした国際紛争。イラクの指導者,サダム・フセインはクウェートへの侵攻と占領を命じた。明らかに同国の大規模な埋蔵石油資源を獲得することが目的であった。8月3日,国連安全保障理事会はイラクにクウェートからの撤退を要求し,さらに6日,イラクに対する世界規模の貿易禁輸措置を課した。アメリカと西ヨーロッパの北大西洋条約機構 NATO同盟国は予想される攻撃を阻止するため,ただちに部隊をサウジアラビアに派遣した。エジプトなどいくつかのアラブ諸国も反イラク連合に加わり,「砂漠の盾作戦」として知られる軍備増強に貢献した。 11月 29日,安保理はイラクが 91年1月 15日までにクウェートから撤退しない場合,イラクに対する武力行使を認めた。多国籍軍の兵員は 91年1月までに,70万人にまで増強された。このうちアメリカ軍将兵が 54万人を占め,イギリス,フランス,エジプト,サウジアラビア,シリア,その他数ヵ国の分遣隊が加わった。しかし,フセインはクウェートからの撤兵をかたくなに拒否し,クウェートは今後もイラクの一州にとどまるであろうと主張した。
戦闘は 91年1月 16~17日の夜,アメリカ軍の率いる対イラク大規模航空作戦によって幕を開け,空爆は戦争の全期間を通じて継続された。以後数週間続くこの空爆は「砂漠の嵐作戦」と命名され,まずイラクの防空施設,次いで通信網や政府建物,兵器工場,石油精製所,橋や道路が破壊された。2月なかばまでに,多国籍軍は空爆の目標をクウェートやイラク南部に展開するイラク前衛の地上軍部隊へと転換し,イラク軍の防御用構築物や戦車を破壊した。多国籍軍による大規模地上攻勢「砂漠の剣作戦」は2月 24日,サウジアラビア東北部からクウェート,イラク南部へと北上する形で発動され,散発的なイラク側の抵抗にあいながらも,アラブとアメリカの部隊は3日間で首都クウェート市を奪還した。一方,アメリカ機甲部隊主力はクウェートの西方およそ 200kmの地点からイラク領内に侵入し,イラク機甲軍の予備兵力に後方から襲いかかった。これらの部隊はイラクの精鋭,共和国防衛隊がイラク南東部のバスラ南方に拠点を構えようとしたのを受け,2月 27日までにその大部分を破壊した。 G.ブッシュ米大統領が2月 28日に停戦を宣言する頃には,イラクの抵抗は完全にしずまっていた。
敗戦の直後,イラクではフセインに反対する人民蜂起が各地で発生したが,フセインはなんとか制圧に成功した。クウェートの独立は回復されたが,国連が制裁として打出した対イラク貿易禁輸措置は戦争終結後も続けられ,国連特別委員会はこの間,イラクの中距離ミサイルや化学 (核) 兵器研究施設の破壊を監視した。イラクの軍事作戦に関する公式の数字は一切発表されていない。クウェート戦域に展開していたイラク軍部隊の兵員数を推計すると,18万人から 63万人と幅があり,イラク軍の戦死者数は 8000人から 10万人の間とみられる。これとは対照的に,多国籍軍で戦闘中に死亡したのはおよそ 300人である。

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改訂新版 世界大百科事典 「湾岸戦争」の意味・わかりやすい解説

湾岸戦争 (わんがんせんそう)
Gulf War

1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻,これを併合したことに始まる戦争。91年1月のアメリカを中心とする多国籍軍の対イラク開戦に至るまでの期間を湾岸危機Gulf Crisisと称する。国連安全保障理事会はイラクの撤退を要求し,90年11月には91年1月15日までに撤退しない場合は加盟国に武力行使を認める決議を成立させた。91年1月17日に多国籍軍はイラクへの空爆を開始,2月24日にはクウェートでの地上戦に突入,2月27日アメリカのブッシュ大統領が勝利を宣言して終結した。アメリカの圧倒的な軍事力によるハイテク戦争であり,財政的には日本,ドイツ,サウジアラビアなどの戦費負担によって支えられた。

 日本は国際貢献として130億ドルの資金を拠出したが,自衛隊の派遣はせず,戦後ペルシア湾での機雷除去のため掃海艇を派遣するにとどまった。これを機に,国連主導の紛争解決,平和維持活動に日本がどのようにかかわっていくか,特に自衛隊の海外派遣について,〈国際貢献〉のあり方が国内で活発に議論された。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「湾岸戦争」の解説

湾岸戦争(わんがんせんそう)
Gulf War

イラクのクウェート侵攻に反対するアメリカなどが,多国籍軍を結成して軍事攻撃を行い,イラクを破り,クウェートを解放した戦争。1990年8月,イラクは突如,隣国クウェートに侵攻,併合を宣言した(湾岸危機)。国連安全保障理事会はイラクを非難し,11月に武力行使容認決議を行った。これを根拠に,アメリカを中心とし,イギリス,フランス,アラブ諸国を含む多国籍軍は,91年1月にイラク攻撃を開始した。多国籍軍のミサイル,航空機による攻撃でイラク軍は大打撃を受け,多数の死傷者を出した。2月の地上戦開始後まもなく,クウェートは解放され,停戦となった。冷戦の終結以降,最初の大規模な戦争で,アメリカ中心の国際秩序を印象づけたが,戦後もイラクのサッダーム・フセイン政権は2003年のイラク戦争で倒れるまで存続した。

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知恵蔵 「湾岸戦争」の解説

湾岸戦争

1990年8月のイラクのクウェート侵攻以降、国連安保理は再三にわたって撤退を要求、同年11月、翌91年1月15日までに撤退しない場合は武力行使を加盟国に認める決議を成立させた。期限切れ直後、米軍を主力とする多国籍軍のイラク空爆で戦争が開始された。戦局は多国籍軍の圧倒的優位のうちに推移、同年2月末にはクウェートからイラク軍が一掃されて停戦が成立した。だが、敗北にもかかわらずフセイン体制は存続。フセイン体制をいかにすべきかという問題が残った。湾岸戦争は問題の解決ではなく、イラク戦争への通過点であった。この戦争が示したのは米軍の圧倒的な強さであった。日本、ドイツ、アラブ産油諸国による戦費の負担も特記されるべきである。米国のたどり着いた軍事力の高みと、当時の経済力の凋落(ちょうらく)を示した戦争でもあった。

(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)

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旺文社日本史事典 三訂版 「湾岸戦争」の解説

湾岸戦争
わんがんせんそう

1990年8月にイラクがクウェートに侵攻して始まり,'91年米軍を主力とする多国籍軍のイラク攻撃によって本格化した戦争
1990年8月のイラクのクウェート侵攻に対して,米軍を主力とする多国籍軍が組織されクウェートからのイラク軍の撤退を求めた。しかし,イラク政府が応じなかったため,国連安全保障理事会はイラクの行動を非難するとともに,多国籍軍は'91年1月にイラクへの爆撃を開始し,湾岸戦争が本格的に始まった。多国籍軍は圧倒的な軍事力によってイラク軍をクウェートから撤収させ,さらにイラクの軍事・産業施設を破壊した。2月28日,戦闘が停止された。日本は多国籍軍への国際貢献として130億ドルを支援したが,自衛隊は派遣しなかった。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「湾岸戦争」の解説

湾岸戦争
わんがんせんそう
Gulf War

1991年にアメリカを中心とする多国籍軍がイラクと交戦した戦争
1990年8月にイラクがクウェートに侵攻したことに起因する。国連安全保障理事会はイラクに撤兵を要求し,期限付きで,応じない場合には加盟国に武力行使を認める決議を成立させた。期限切れ直後の1991年1月に多国籍軍が空爆に踏み切った。イラクのサダム=フセイン大統領の作戦は,イスラエルを参戦させ,アラブ−イスラエル戦争を起こそうとしたものだったが失敗し,多国籍軍のハイテク兵器の前にイラクは総崩れとなり,2月末の地上戦でクウェートを解放して終わった。戦争では原油流出や油田炎上などの環境汚染も深刻になった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「湾岸戦争」の解説

湾岸戦争
わんがんせんそう

1990年8月2日イラクのクウェート侵攻を契機として開始された戦争。サダム・フセイン大統領は,イスラエルのアラブ占領地からの撤退をクウェートからのイラク軍撤収の交換条件としたが,アメリカは拒否。翌年1月17日,アメリカを主体とする国連多国籍軍がイラクを攻撃し,イラクの降伏で2月28日戦争は終結した。日本は総額130億ドルの支援を行ったが列国の評価は低く,これを契機として真の国際貢献とはなにかという議論がおきた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の湾岸戦争の言及

【オマーン】より

…ペルシア湾岸の他のアラブ諸国とともに,域内安全保障を目ざす湾岸協力会議(GCC)を構成するが,オマーンの親米政策は,超大国の保護や陸上基地の排除を主張する他の構成国の立場と一致しなかった。小国オマーンが独自の政策をとれたのは,歴史的・地理的にアラブ世界の主潮流の外に位置していたためであるが,91年の湾岸戦争後のアメリカ軍の湾岸プレゼンス拡大に,先導的役割を果たしたといえる。 国民の8割は零細な農・漁業に従事する。…

【CNN】より

…短いが激烈な競争の末,83年ターナーはこの会社を買収,最終的に潰してしまう。また,マス・メディアを意識して行われた湾岸戦争(1991)で,イラク政府が唯一バグダードに在留,報道の許可を与えたアメリカの媒体はCNNだった。そのことについては,何らかの裏取引の可能性を議会で追求されるなどしたが,CNNの国際的影響力の強さをイラクが認知したことは明らかである。…

※「湾岸戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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