1990年8月2日にクウェートへ侵攻したイラクに対し、米軍主体の多国籍軍が91年1月17日に空爆して始まった戦争。2月24日に地上戦に突入、26日にクウェートは解放され、4月11日に停戦が正式に成立した。日本は多国籍軍などに総額130億ドルの財政支援を実施したが、人的貢献がなかったとして米議会などから「小切手外交」と批判された。日本は停戦後、機雷除去のため海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣。自衛隊の海外派遣への転換点となった。
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1990年8月2日のイラクのクウェート侵攻に端を発し、翌91年1月に米欧軍を主とする多国籍軍のイラク攻撃によって起こった戦争。「クウェートは歴史的にみて自国の領土である」などといった論理に基づくイラクの侵攻による湾岸危機に対して、アメリカはただちに国連安全保障理事会の開催を求めた。安保理は、イラクの行動を非難するとともにイラクの即時無条件撤退を要求する決議を採択、さらに対イラク経済制裁決議、イラクのクウェート併合不承認決議、イラク空域封鎖決議、対イラク武力行使容認決議などを相次いで成立させた。安保理で米ソが拒否権を使わず一致してこれらの決議に賛成票を投じたのは、冷戦時代にはみられなかったことである。またアメリカ大統領G・H・W・ブッシュは、8月7日にサウジアラビア防衛支援の名目でアメリカ軍の派遣を決定、同盟国、友好国に軍事的・財政的協力を強く要請した。
こうしてアメリカ軍50万を中核とする多国籍軍は、1991年1月17日にイラク攻撃の「砂漠の嵐」作戦を決行し、湾岸戦争の火ぶたが切られた。多国籍軍は、圧倒的な軍事力によってイラク軍をクウェートから撤収させ、続いて、イラクの軍事・産業施設を破壊した。そして2月28日、G・H・W・ブッシュ大統領の停戦命令で、危機発生から210日、戦争勃発(ぼっぱつ)から43日、地上戦突入から100時間で、湾岸戦争は事実上の終結をみた。アメリカ政府は、戦争をきっかけに新世界秩序(New World Order=NWO)構築を掲げたが、その展望は開けなかった。この戦争を要約すると、湾岸におけるイラクの大国主義(覇権主義)に、世界の憲兵を自負するアメリカの大国主義(覇権主義)が過剰に対決し、これを国連の大国主義が追認する形をとったもの、といえる。戦後、フセイン政権は、国連の経済制裁(96年12月、イラクの人道的物資購入のため石油輸出は部分的に解除)で苦境に立ちながらも、アメリカなどとの対決姿勢を保ちつつ存続したが、2003年のイラク戦争で米英両軍の攻撃を受け、ついに崩壊した。
[奥野保男]
『ラムゼー・クラーク著、中平信也訳『ラムゼー・クラークの湾岸戦争』(1994・地湧社)』▽『F・N・シューベルト、T・L・クラウス編、滝川義人訳『湾岸戦争砂漠の嵐作戦』(1998・東洋書林)』▽『国正武重著『湾岸戦争という転回点』(1999・岩波書店)』
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1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻,これを併合したことに始まる戦争。91年1月のアメリカを中心とする多国籍軍の対イラク開戦に至るまでの期間を湾岸危機Gulf Crisisと称する。国連安全保障理事会はイラクの撤退を要求し,90年11月には91年1月15日までに撤退しない場合は加盟国に武力行使を認める決議を成立させた。91年1月17日に多国籍軍はイラクへの空爆を開始,2月24日にはクウェートでの地上戦に突入,2月27日アメリカのブッシュ大統領が勝利を宣言して終結した。アメリカの圧倒的な軍事力によるハイテク戦争であり,財政的には日本,ドイツ,サウジアラビアなどの戦費負担によって支えられた。
日本は国際貢献として130億ドルの資金を拠出したが,自衛隊の派遣はせず,戦後ペルシア湾での機雷除去のため掃海艇を派遣するにとどまった。これを機に,国連主導の紛争解決,平和維持活動に日本がどのようにかかわっていくか,特に自衛隊の海外派遣について,〈国際貢献〉のあり方が国内で活発に議論された。
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イラクのクウェート侵攻に反対するアメリカなどが,多国籍軍を結成して軍事攻撃を行い,イラクを破り,クウェートを解放した戦争。1990年8月,イラクは突如,隣国クウェートに侵攻,併合を宣言した(湾岸危機)。国連安全保障理事会はイラクを非難し,11月に武力行使容認決議を行った。これを根拠に,アメリカを中心とし,イギリス,フランス,アラブ諸国を含む多国籍軍は,91年1月にイラク攻撃を開始した。多国籍軍のミサイル,航空機による攻撃でイラク軍は大打撃を受け,多数の死傷者を出した。2月の地上戦開始後まもなく,クウェートは解放され,停戦となった。冷戦の終結以降,最初の大規模な戦争で,アメリカ中心の国際秩序を印象づけたが,戦後もイラクのサッダーム・フセイン政権は2003年のイラク戦争で倒れるまで存続した。
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(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)
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1990年8月2日イラクのクウェート侵攻を契機として開始された戦争。サダム・フセイン大統領は,イスラエルのアラブ占領地からの撤退をクウェートからのイラク軍撤収の交換条件としたが,アメリカは拒否。翌年1月17日,アメリカを主体とする国連多国籍軍がイラクを攻撃し,イラクの降伏で2月28日戦争は終結した。日本は総額130億ドルの支援を行ったが列国の評価は低く,これを契機として真の国際貢献とはなにかという議論がおきた。
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…ペルシア湾岸の他のアラブ諸国とともに,域内安全保障を目ざす湾岸協力会議(GCC)を構成するが,オマーンの親米政策は,超大国の保護や陸上基地の排除を主張する他の構成国の立場と一致しなかった。小国オマーンが独自の政策をとれたのは,歴史的・地理的にアラブ世界の主潮流の外に位置していたためであるが,91年の湾岸戦争後のアメリカ軍の湾岸プレゼンス拡大に,先導的役割を果たしたといえる。 国民の8割は零細な農・漁業に従事する。…
…短いが激烈な競争の末,83年ターナーはこの会社を買収,最終的に潰してしまう。また,マス・メディアを意識して行われた湾岸戦争(1991)で,イラク政府が唯一バグダードに在留,報道の許可を与えたアメリカの媒体はCNNだった。そのことについては,何らかの裏取引の可能性を議会で追求されるなどしたが,CNNの国際的影響力の強さをイラクが認知したことは明らかである。…
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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