ピンポン外交(読み)ピンポンガイコウ

デジタル大辞泉 「ピンポン外交」の意味・読み・例文・類語

ピンポン‐がいこう〔‐グワイカウ〕【ピンポン外交】

卓球ピンポン)の国際試合をきっかけに米国と中国が関係を改善し、国交を正常化させたこと。1971年4月、名古屋で開催された世界卓球選手権大会に、文化大革命後初めて参加した中国は、米国など5か国の選手団を北京ペキン招待。これを契機に米中間の緊張が緩和し、1972年にはニクソン米大統領訪中周恩来首相、毛沢東主席と会談し、米中平和五原則を発表して、1979年の米中国交正常化への道を開いた。
[補説]2009年1月、米中国交樹立30周年を記念し、北京で卓球の友好試合が行われた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピンポン外交」の意味・わかりやすい解説

ピンポン外交
ピンポンがいこう

1971年中国によって展開された民間外交の一つ。中華人民共和国が成立した 1949年以後,アメリカ合衆国と中国はあらゆる交流が断絶していたが,1970年代に入り,両国はひそかに交渉を重ね外交関係を修復しようとした。1971年,日本で開催された卓球の世界選手権大会中,会場に向かう中国卓球チームのバスにまちがって乗り込んできたアメリカのグレン・コーワン選手に,荘則棟選手が通訳を介して友好の意を伝えた。これをきっかけに同年 4月,毛沢東主席が世界選手権大会に参加したアメリカ卓球チームを北京に招待し,関係改善のメッセージを伝えた。その後冷え込んでいた米中関係が雪解けに向かい,1972年2月にはリチャード・ミルハウス・ニクソン大統領のアメリカ大統領として初となる中国公式訪問が実現した(→ニクソン訪中)。

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世界大百科事典(旧版)内のピンポン外交の言及

【荻村伊知朗】より

…頭脳的プレーヤーとして世界に知られ,日本卓球界の黄金時代を築き上げた。現役引退後も,71年名古屋での世界選手権の前年に訪中し,米中国交正常化につながるピンポン外交の糸口をつくりだし,91年の世界選手権ではスポーツ界で初の南北朝鮮統一チーム〈コリア〉結成に尽力するなど,スポーツを通じた国際交流に貢献した。79年から国際卓球連盟(ITTF)会長代理,87年には会長に就任し,用具のカラー化など新機軸を取り入れ卓球の発展に尽くした。…

【外交】より

…さらにいうと,二国間の関係が良好でない場合,スポーツや学術面での文化交流にはじまって,交流が経済やさらに政治の次元にまで波及していくといった場合もしばしばみられる。米中関係の正常化にさいして,1971年春の〈ピンポン外交〉が一役買ったこともよく知られている。
[外交政策の規定要因]
 外交政策は国によってさまざまであり,時代によっても様相を異にする。…

【卓球】より

…71年,名古屋で開催された第31回大会において中国がアメリカ選手団の招待を申し出,アメリカがこれを受諾して中国訪問が実現した。これは後の日中国交回復,米中国交回復への突破口を開くもので,〈ピンポン外交〉の名で知られている。その後も中国は世界の卓球界の主役を務め,81年の第36回大会で史上初の7種目全制覇の完全優勝を果たし,34年ぶりに地元(天津)で開いた95年の第43回大会でも2度目の完全制覇を達成した。…

【中華人民共和国】より

…52年に中華全国体育総会が成立したことで,新中国の体育活動の体制ができあがるわけだが,国際的に注目を集めるようになったのは,59年の第25回世界卓球選手権大会(西ドイツ)で男子シングルスに優勝(容国団)したあたりからである。以来,中国卓球は一貫して世界をリードする実力を示して西側世界への重要な窓口となり,71年には米中関係打開の道をつけるなどして,〈ピンポン外交〉なることばを生んだ。 文革期には,スポーツにおいても,勝利第1,技術第1の思想に反対してスポーツを革命化することが叫ばれたが,実際には軍事訓練との結合にとどまり,体育活動は低下した。…

※「ピンポン外交」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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