精選版 日本国語大辞典 「ニクソン」の意味・読み・例文・類語
ニクソン
- ( Richard Milhous Nixon リチャード=ミルハウス━ ) 米国の第三七代大統領(在任一九六九‐七四)。共和党選出。米中接近やベトナム戦争の休戦を実現させた。一九七四年、ウォーターゲート事件により辞任。(一九一三‐九四)
アメリカ合衆国第37代大統領。カリフォルニア州ヨルバリンダに貧しい雑貨商の次男として生まれる。苦学して地元のホイッティア大学を卒業後、デューク大学で法律を学んだが、東部で就職できず帰郷して弁護士を開業。第二次世界大戦では海軍に志願、補給部隊の少佐で除隊した。1946年カリフォルニア州共和党から合衆国下院議員に当選。2期の任期の間、非米活動委員会でアルジャー・ヒス(国連創立総会事務総長)をソ連のスパイとして摘発、偽証罪で失脚させ一躍有名となり、1950年には上院議員に当選。1953年1月、40歳の若さでアイゼンハワー政権の副大統領に就任し、1956年にも再選された。1960年の大統領選に共和党候補となったが、民主党のジョン・F・ケネディに僅差(きんさ)で敗れ、1962年にはカリフォルニア州知事選に出馬して敗北し政界引退を表明、ニューヨークで弁護士となった。しかし1968年の選挙でふたたび大統領候補となり、ベトナム戦争の泥沼化によるアメリカ社会の大混乱のなかで「法と秩序」をモットーに、中産階級と南部保守勢力の支持を固めて当選、奇跡のカムバックを果たした。
しかし三大公約であるベトナム戦争の早期解決、経済の回復、国内統一はいずれも実現せず、1970年にはラオスの秘密爆撃、カンボジア出兵により反戦運動が高まり、また人種政策の後退、福祉政策の弱体化、言論抑圧の強化により、国内対立は深まった。経済面では1971年8月、ドルの金兌換(だかん)停止を発表。こうした経済政策の大転換は、事実上の変動相場制への移行、ドル切下げ、円切上げなど日本をはじめ世界経済に大きな影響をもたらした。これは後に「ニクソン・ショック」といわれるようになった。国内的にも「ニクソノミックス」の失敗で失業とインフレが悪化し、ドルはさらなる切下げに追い込まれていった。だが外交面では、米軍撤退と現地軍による地上戦の肩代りによる「ベトナム化」を打ち出しつつ、北爆の強化、機雷封鎖などの強硬手段で北ベトナムと交渉を進め、1973年1月パリ和平協定をかちとった。またキッシンジャー特別補佐官の秘密派遣と自らの訪中により中国との実質的国交回復を行い、ソ連とのデタント(緊張緩和)も推し進めた。
1972年には民主党のジョージ・マクガバン候補を大差で破り大統領に再選されたが、生来の猜疑(さいぎ)心から権力保持に執心、その意を受けて側近が引き起こした「ウォーターゲート事件」を、CIAとFBIを使ってもみ消しを図り、ホワイトハウス盗聴記録テープの提出を拒否し続けたが、最高裁の提出命令で万策尽きて、1974年8月辞任、アメリカ史上初めて辞任した大統領となった。後任として副大統領から昇格したジェラルド・フォードにより恩赦を受け、訴追を免れたが、大統領職への国民の深い不信を招いた罪は大きい。
[袖井林二郎]
『松尾文夫・斉田一路訳『ニクソン回顧録』全3巻(1978~79・小学館)』▽『B・ウッドワード、C・バーンスタイン著、常盤新平訳『大統領の陰謀』(文春文庫)』▽『B・ウッドワード、C・バーンスタイン著、常盤新平訳『最後の日々』上下(文春文庫)』
アメリカの写真家。デトロイト生まれ。ミシガン大学でアメリカ文学を専攻し1969年に卒業。大学在学中に写真撮影を始め、69~71年デトロイトで建築写真家として働き、71~73年ミネアポリスの高校で写真を教える。74年ニュー・メキシコ大学より美術修士号を得る。同年よりマサチューセッツ州ケンブリッジに移り、マサチューセッツ芸術大学で教鞭をとりながら写真家として活動。
早くからフィルムサイズ8×10インチの大型ビューカメラを使用、主に都市風景と取り組む。ボストンの街並を高い視点から見晴らした初期作品が、1975年にジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館(ニューヨーク州ロチェスター)で開催された「ニュー・トポグラフィックス」展にとりあげられ、新しい風景表現を試みる新進の写真家として評価を得る。引き続き都市風景に大型カメラで取り組むうちに、しだいに風景の中に人間の姿を捉えるようになり、主題を風景から人間へと移していく。70年代末から80年代初めにかけて、三脚に据えた大型のカメラという条件を感じさせない、被写体との距離の近い、空間の中に複数の人物を流動的に捉えるスタイルを確立。50年代から60年代にかけて小型カメラを用いた写真家たちが切り拓いてきたスナップショットの視覚と、大型カメラによる精緻な描写力を融合させた独自の方法論が注目を集めた。
1975年に妻とその3人の姉妹を被写体とする「ブラウン・シスターズ」のシリーズに着手。一列に同じ順で立ち、レンズを見つめる4人の姉妹を正面から撮影するというルールで毎年1カットずつ追加されていくこのシリーズは、ありふれた家族写真の形式を借りながら、姉妹それぞれの視線や表情による心理劇でもあった。そこに時間軸が導入されることで、家族をめぐる歴史や記憶を喚起し、また加齢による肉体の変化も浮かび上がらせ、大型カメラによる人物写真という彼の方法論を深化させるものとなった。
1980年代には、養護施設に暮らす老人たちのポートレートや、自らの2人の幼い子供と妻を被写体としたヌードの母子像連作など、より被写体に接近し、肉体そのものをクローズ・アップする作品に取り組んだ。時間の中で有限のものとして生きる人間存在を、肉体の精緻な描写から浮かび上がらせる作品と評価されている。また87年にはエイズ感染者を被写体とするシリーズに着手、80年代後半にアメリカ社会を揺るがせた主題への真摯な取り組みとして話題を呼んだ。
1988年、MoMA(ニューヨーク近代美術館)で「ピクチャーズ・オブ・ピープル」と題する個展が開催され、アメリカ各地を巡回。90年代以降も大型カメラによる人間像を追求している。
[増田 玲]
『People with AIDS (1991, David R. Godine, Boston)』▽『The Brown Sisters (1999, The Museum of Modern Art, New York)』▽『Nicholas Nixon et al.Nicholas Nixon; Pictures of People (1988, The Museum of Modern Art, New York)』
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1913~94
アメリカ第37代大統領(在任1969~74)。共和党員。下院・上院議員,副大統領時代は反共の闘士として知られた。大統領としては,ベトナム戦争政策挫折の後を受けて対共産圏外交を活性化することでアメリカの対外政策を再構築しようとした。彼はキッシンジャー国家安全保障担当補佐官の協力を得て,外交に手腕を発揮し,対ソ・デタント,対中和解のかたわら,ベトナム和平協定を結んだ。内政では1971年8月に賃金・物価の凍結,ドルと金の兌換(だかん)の停止などの新経済政策を発表。ウォーターゲート事件の隠蔽にかかわり,下院の弾劾決議必至のなか辞任し,任期半ばで辞めた初の大統領となった。しばらくの逼塞(ひっそく)生活ののち,講演者,著述家として復活し,国際問題についての見識を評価された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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