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周恩来 しゅうおんらい Zhou En-lai

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

周恩来
しゅうおんらい
Zhou En-lai

[生]光緒24(1898).江蘇,淮安
[没]1976.1.8. 北京
中国の政治家。字は少山,伍豪。天津の南開中学を経て 1917年日本に留学。帰国後,南開大学に入り,五・四運動に参加し,逮捕投獄された。出獄後,進歩的学生団体「覚悟社」の主要メンバーとなり,20年勤労学生としてフランスに渡り,李立三らとともに中国共産党パリ支部を創立し,22年入党。

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デジタル大辞泉の解説

しゅう‐おんらい〔シウ‐〕【周恩来】

[1898~1976]中国の政治家。江蘇省淮安(わいあん)の人。日本に留学後、天津で五・四運動に参加。のち、パリ留学中に中国共産党フランス支部を組織。第二次大戦中は国共合作・抗日統一戦線結成に活躍。中華人民共和国成立後は国務院総理として敏腕を振るったチョウ=エンライ。

チョウ‐エンライ【周恩来】

しゅうおんらい(周恩来)

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百科事典マイペディアの解説

周恩来【しゅうおんらい】

中華人民共和国の政治家,外交家。江蘇省の人。日本に留学。五・四運動の時は天津で活躍し投獄された。1920年欧州留学,1922年中国共産党に入り中共フランス支部結成。
→関連項目岡崎嘉平太改革・開放華国鋒蔡和森高碕達之助中華人民共和国天安門事件【とう】穎超文化大革命李鵬

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

周恩来 しゅう-おんらい

1898-1976 中国の政治家。
光緒24年2月13日生まれ。大正6年(1917)日本に留学,早大などでまなぶ。1919年天津で五・四運動に参加。1920年フランスに留学し,中国共産党に入党。帰国後,上海・南昌蜂起(ほうき)を指導。長征に参加後は毛沢東を補佐して国共合作に活躍。中華人民共和国成立後は,国務院総理兼外交部長をつとめ,日中国交正常化などにつくした。1976年1月8日死去。79歳。江蘇省出身。号は翔宇。筆名は伍豪。

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世界大百科事典 第2版の解説

しゅうおんらい【周恩来 Zhōu Ēn lái】

1898‐1976
中国共産党の指導者。中華人民共和国成立後は26年間にわたり国務院総理をつとめた。浙江省紹興の人(生地は江蘇省淮安(わいあん)),字は翔宇。伍豪,少山などの筆名がある。没落した官僚の大家族で育ち,少年期には辛酸をなめた。瀋陽で小学校を終え,1913年天津の南開中学に進み,17年日本に留学,河上肇の著作などを通じてマルクス主義に近づいた。五・四運動がおこって天津に帰り,学生運動の指導者の一人として活躍し,逮捕投獄されたりした。

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大辞林 第三版の解説

しゅうおんらい【周恩来】

1898~1976) 中国の革命家・政治家。江蘇省の人。日本留学後、五・四運動を天津で指導。長征に参加し、日中戦争では国共合作・抗日戦に活躍し、中華人民共和国成立後は行政・外交などの要職を歴任。国務院総理・党政治局常務委員。チョウ=エンライ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

周恩来
しゅうおんらい / チョウエンライ
(1898―1976)

中国の政治家、革命家。中華人民共和国成立後は国務院総理(首相)を務めた。
 江蘇(こうそ)省淮安(わいあん)の名門の家に生まれ、叔父の養子となる。天津(てんしん)の南開中学に学んだ。アメリカ留学のための清華学校の受験に失敗し、1917年(大正6)から2年近く、来日して東京・神田の高等予備学校などの聴講生となったが、1919年には帰国して南開大学の学生となり、五・四運動に参加して投獄された。翌1920年、当時流行の勤工倹学運動でフランスへ留学、蔡和森(さいわしん)、朱徳(しゅとく)、李立三(りりっさん)、李富春(りふしゅん)小平(とうしょうへい)ら留学生の間で政治的頭角を現し、1921年中国共産主義青年団の創立に加わり、翌1922年中国共産党に入党した。パリからロンドン、ベルリン、モスクワ経由で1924年に帰国。黄埔(こうほ)軍官学校(校長・蒋介石(しょうかいせき))の政治部主任代理(のち主任)となり、徐向前(じょこうぜん)、林彪(りんぴょう)らを指導した。1925年、理想的な夫婦像として語られる穎超(とうえいちょう)夫人と結婚。1926年の北伐(ほくばつ)開始とともに上海(シャンハイ)に潜入して労働者の蜂起(ほうき)を指導したが、翌1927年4月の上海クーデターの結果、武漢に逃れ、同年の中国共産党五全大会では政治局委員に選出された。この年(1927)8月、朱徳らと南昌(なんしょう)蜂起、12月の広東(カントン)蜂起を指導して失敗、一時香港(ホンコン)に脱出後、1931年江西ソビエト区に入り党中央軍事部長、第一方面軍政治委員の要職についた。1934年からの紅軍の大長征には軍事面での最高指導者であったが、1935年1月の遵義(じゅんぎ)会議で毛沢東(もうたくとう)に軍の指導権を譲った。1936年の西安(せいあん)事件に際しては、蒋介石を捕らえた張学良(ちょうがくりょう)らを説得して釈放させ、抗日民族統一戦線の結成に努めた。こうして第二次国共合作が成ったが、抗日戦争中は延安(えんあん)から重慶(じゅうけい)に移って国共両党の調整にあたり、第二次世界大戦後はマーシャル・アメリカ特使の国共調停工作にも応じた。
 1949年の新中国成立後は、国務院(政務院)総理兼外交部長(1958年まで)として、1954年のインドシナ休戦のためのジュネーブ会議、同年のネルー・インド首相との間の平和五原則、1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)などを通じ、アジア・アフリカ新興諸国のエースとして「周恩来平和外交」を世界に印象づけた。1956年の東欧事件では社会主義諸国間の調停にもあたっている。1966年からの文化大革命では毛沢東を支持したが、やがて1971年の林彪異変以降、脱文革化、つまり毛沢東体制下の非毛沢東化を推進した。対外的には、1969年にコスイギン・ソ連首相と急遽(きゅうきょ)会談して中ソ戦争の危機を凍結する一方、1971年の米中接近、国連加盟、1972年の日中国交正常化に尽力した。こうした周恩来主導の内政と外交は、江青(こうせい)ら毛沢東側近との対立を深め、1976年1月8日に癌(がん)で死去するまでの最晩年は厳しい状況に追いやられていた。同年4月4日の亡き周恩来をたたえる中国民衆の街頭行動は、翌5日、これを鎮圧しようとした当局への大衆反乱となって天安門事件(第一次)をもたらし、毛沢東政治からの転換を促したのである。[中嶋嶺雄]
『許芥いく著、高山林太郎訳『周恩来――中国の蔭の傑物』(1971・刀江書院) ▽李天民著、桑原寿二訳『周恩来』(1971・時事通信社) ▽司馬長風著、竹内実訳『周恩来評伝』(1975・太平出版社) ▽松野谷夫著『遙かなる周恩来』(1981・朝日新聞社) ▽ディック・ウィルソン著、田中恭子・立花丈平訳『周恩来――不倒翁波瀾の生涯』(1987・時事通信社) ▽小倉和夫著『パリの周恩来――中国革命家の西欧体験』(1992・中央公論社)』

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世界大百科事典内の周恩来の言及

【簡体字】より

…その将来についてなんらかの展望をもつことを目的として,ここではその〈固有名〉としての簡体字についてそれが置かれている環境を紹介する。 周恩来の1958年1月,政治協商会議全国委員会が開催した報告会での報告〈当前文字改革的任務(当面の文字改革の任務)〉によると,当面の文字改革の仕事は3項に分けられる。〈簡化漢字(漢字を簡単にする)〉,〈推広普通話(共通語を普及する)〉,そうして〈制定和推行漢語音方案(中国語のつづり字化案を制定し,施行する)〉の3項がそれである。…

【西安事件】より

…蔣介石の生死をめぐって世界の耳目は西安に注がれた。このとき周恩来は共産党を代表して西安に急行し,挙国抗日へ政策転換を行うという了解のもとに,蔣介石を釈放するよう調停した。この結果,翌37年7月,蘆溝橋事件によって日本と中国の戦争が拡大すると国民党は内戦を停止し,抗日民族統一戦線(第2次国共合作)が成立する。…

【中華人民共和国】より

…文革派の中では,毛沢東暗殺のクーデタに失敗してジェット機でソ連への逃亡をはかり,モンゴルで墜死したとされる林彪の失脚(1971年9月13日)以後は,江青,張春橋,姚文元(ようぶんげん),王洪文の上海グループ(のちのいわゆる〈四人組〉)が党中央政治局に根を張った。実務派官僚の代表は一貫して周恩来であった。文革中における周恩来の立場は微妙なものであった。…

【中華民国】より

…雑誌《新青年》の同人,陳独秀や李大釗(りたいしよう),新文学を主導した魯迅や郭沫若(かくまつじやく)など,日本留学帰国者の多くが抗日ナショナリズムの思想的指導者となった。周恩来のように,在日中に河上肇などの著作・講義を通じてマルクス主義に触れた者も多い。 この間に中国人の留学先の中心は日本からアメリカへ移った。…

【文字改革】より

… 1940年,毛沢東は〈文字は一定条件のもとで改革しなければならない〉とのべ,51年には〈世界の文字と共通の表音化の方向にむかわねばならない〉とのべて,中国における文字改革の方針を明らかにした。その具体的な作業については,周恩来が58年〈当面の文字改革の任務〉の中で,(1)漢字の簡化,(2)普通話の普及,(3)漢語音(ピンイン)方案の制定の三つをあげ,その理由を要領よくまとめている。そこで漢字をしばらく現状のまま用いるということになると,字数を減らすことと,画数を減らす必要がある。…

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