元中国共産党主席。1893年湖南省・韶山生まれ。1921年、上海で党創設に参加。国民党軍の攻撃で江西省の革命根拠地を放棄し西部に大移動した「長征」の際、貴州省遵義での会議で共産党内の主導権を掌握。49年に中華人民共和国の樹立を宣言した。58年に大増産政策「大躍進」運動を発動して数千万人が餓死。66年に発動した大規模政治運動、文化大革命では多くの国民が犠牲になった。76年に死去し、文革は終結。党は81年の中央委員会総会で毛の誤りを指摘し「功績第1、誤り第2」の評価を下した。(韶山共同)
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中国共産党の指導者。湖南省湘潭県韶山区の農家に生まれた。字は潤芝。1911年,長沙の中学に在学中,辛亥革命がおこり志願して革命軍に参加したことがある。13年,省立の師範学校に再入学し,倫理学の教師楊昌済(1871-1920)の影響下で新文化運動に接し,友人らと新民学会を結成した。18年,師範を卒業,留仏勤工倹学運動に参加して北京に行き,無政府主義,マルクス主義など新思潮に接した(勤工倹学)。五・四運動の際は長沙にあって学生運動を指導,ついで軍閥省長追放など実際の闘争を体験するなかでマルクス主義への確信を強めた。20年夏,長沙で母校の付属小学校主事(校長)となったが,新民学会会員を中核に共産主義のグループをつくり,21年7月,それを代表して中国共産党第1回大会に出席した。帰来後,中共湘区委員会書記として活動,22年11月には教職を辞して党務に専念した。その指導下に湖南は労働運動,市民運動が発展し,党勢の伸長もいちじるしかった。
23年,湖南を離れ,中共第3回大会に出席して中央委員に選ばれ,中共中央機関で活動した。24年,国民党中央委員候補を兼ね,上海で国共合作の衝に当たった。25年,病を得て帰郷中に五・三〇運動がおこり,郷里湘潭で初めて農民の組織化に取り組んだ。秋,弾圧を避けて広州に行き,26年,国民党宣伝部長代理,農民運動講習所所長などをつとめ,北伐開始後は上海に出て中共農民運動委員会主任となった。陳独秀ら中共主流の右翼的方針に反対し,革命的農民運動の拡大・徹底を主張したが容れられず,中共第5回大会では中央委員候補に選ばれるにとどまった。
27年7月,国共分裂後,緊急に漢口で開かれた中共中央の八・七会議に出席したあと,会議の決議にもとづき湖南で武装蜂起を組織する任務につき秋収蜂起を指導し,長沙攻略を目ざしたが失敗した。残軍を改編して10月,井岡山に入り,最初の農村革命根拠地を建設した。28年,朱徳の軍と合流して工農紅軍第4軍を編成,29年には井岡山を離れて江西・福建省境地域に新根拠地(のちの中央ソビエト区)を開き,理論と実践を結合するなかで独自の軍事路線,政治路線,農村から都市への戦略構想を漸次に形成していった。28年のモスクワで開かれた中共第6回大会では未参加のまま中央委員に選出されたが,教条的に都市中心路線をとる中共中央からは異端視を受けた。30年,紅軍第1方面軍総政治委員に就任,李立三の冒険主義路線に反対して損害を最小限にとどめ,中央ソビエト区を拡大・強化したため,同年末から31年9月にかけ連続3回,国民政府の包囲討伐を受けたが,巧妙な作戦と農民の支持によってことごとく撃退,11月,中華ソビエト共和国臨時政府が成立するや,その主席に選出された。だが陳紹禹(王明)らが支配する中共中央は,彼を紅軍の指導から排除し,さらに33年には右翼日和見・富農路線として批判キャンペーンを展開,紅軍創設以来築いてきた軍事路線,根拠地の政治・組織路線を変改した。
しかし,第5次反包囲討伐戦に失敗,紅軍が長征をよぎなくされると,彼の軍事指導への復帰が要求された。35年1月,遵義会議で中共政治局常務委員に補選され,その後,周恩来,王稼祥と三人軍事指揮小組を構成,事実上,紅軍と中共の指導的地位に就いた。8月,四川・チベット辺境で張国燾の陰謀を果断な行動で乗りきり,10月,陝北根拠地に到達したあと,正式に中共軍事委員会主席に就任,以後その没年までその地位にあった。中共の課題はコミンテルン盲従の教条主義を克服し,中国の現実に合致した戦略・戦術を策定することにあったが,彼は種々の制約のなかで粘り強くこれに取り組んだ。
37年,ソ連から王明(陳紹禹)が帰り,コミンテルンの権威を背景に,抗日民族統一戦線の政策,抗日戦争における中共の軍事指導など,あらゆる面で毛沢東と対立した。だが,抗日戦争の現実の推移が毛沢東の正しさを実証し,38年,中共中央委員会総会は,その政治・軍事路線を全面的に承認した。さらに教条主義の思想的根源を一掃し,中共の力量を強化するために,42年,延安を中心に全党的な整風運動を展開した。43年,中共中央委員会主席・同政治局主席に選ばれ,彼の卓越した業績と威信を背景に,45年,中共第7回大会は毛沢東思想を指導思想とすることを決定,中共の要職を一身に兼ねることになった。
日本降伏後はみずから重慶交渉におもむくなど,政治指導の先頭に立ち,46年,国共内戦開始後は陝北を転戦しつつ全局の指導にあたり,彼が構築した人民戦争理論の真価を発揮した。49年10月,中華人民共和国の成立とともに政府主席(1954年,国家主席)に就任,直後,ソ連を訪問して,50年2月,中ソ友好同盟条約に調印したが,中ソ両党の関係は最初から必ずしも円滑ではなかった。ソ連式の社会主義建設に批判を強めた彼は,56年前後から独自の路線を打ち出し,58年,人民公社化,大躍進の政策を推進したが重大な蹉跌をきたし,59年には国家主席を辞任,党務に専念することになった。中国におけるプロレタリア独裁の形骸化,中共の官僚主義化を憂えた彼は社会主義下での継続革命の必要性を強調し,晩年の全精力を傾けて66年,プロレタリア文化大革命を発動した。それ自体は真のプロレタリア独裁を実現するという彼の期待に反し,権力闘争のなかで収拾がつかず,彼の死をもって終止符をうち,彼の妻江青はこの間の〈罪行〉の故をもって逮捕・投獄されるにいたった。しかし,71年,それまでの外交政策を大転換し,米中の国交正常化へのすじ道をつけ,中国が世界での孤立から脱しえたのは,彼の決断によるものであったとされる。
81年6月,中共中央委員会総会は〈建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議〉を採択,文化大革命が完全な誤りであったことを確認するとともに,毛沢東の中国革命に果たした役割は功績が第一義であり,偉大なマルクス主義者・プロレタリア革命家・戦略家・理論家だったことを確認した。彼の理論的寄与は《矛盾論》《実践論》などの哲学著作,《持久戦論》などの軍事論文,《新民主主義論》などの戦略論等多面にわたり,《毛沢東選集》に収められている。また詩人としても傑出し,数十篇のすぐれた詩・詞を残して伝統的な文人政治家の一面を示した。革命闘争のなかで彼の弟2人,毛沢民(1896-1943)と毛沢潭(1905-35)を失い,最初の妻楊開慧(1901-30。楊昌済の娘)は国民党に処刑され,楊開慧とのあいだに生まれた長男毛岸英も朝鮮戦争で戦死するなど,肉親から多くの犠牲をささげたことも,彼の声望を高めたゆえんであった。
執筆者:小野 信爾
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中国共産党の最高指導者として、中国革命を最後的勝利に導き、中華人民共和国の建国、さらには文化大革命を発動した中国の革命家。
1893年12月に湖南省湘潭(しょうたん)県韶山冲(しょうざんちゅう)の農村に生まれ、長沙(ちょうさ)の師範学校を卒業した。青年時代に政治団体「新民学会」を組織し、五・四運動のなかでマルクス・レーニン主義に開眼、1921年の中国共産党創立大会に参加した。五・三〇事件(1925)後、農民運動に専念し、土地革命の必要を説いたが、党主流にいれられず、1927年の湖南秋収暴動ののち、井岡山(せいこうざん)を革命根拠地に労農紅軍を組織してソビエト政権を樹立、1931年には瑞金(ずいきん)の中華ソビエト臨時政府主席となった。「大長征」の途上、1935年中国共産党遵義(じゅんぎ)会議で党内指導権を確立、同年八・一宣言を行い、長征後は延安を抗日根拠地にして抗日戦争を勝利させた。この間、『実践論』『矛盾論』(ともに1937)の哲学的著作、『中国革命戦争の戦略問題』(1936)、『持久戦論』(1937)などの戦術論、『新民主主義論』(1940)、『連合政府論』(1945)などの新民主主義革命論を発表して中国革命に理論的基礎を与えた。第二次世界大戦後、1949年10月に中華人民共和国を建国、政府主席となった。以後、社会主義改造を指導し、『人民内部の矛盾を正しく処理する問題』(1957)にみられる独自の方法で国内建設を進め、1958年には、全中国農民の人民公社化と「大躍進」政策を断行したが挫折(ざせつ)し、1959年に国家主席の地位を劉少奇(りゅうしょうき)に譲った。1956年以来の中ソ対立では国際共産主義運動の一方の指導者となった。
このころから、国内では「毛沢東思想」の賞揚と毛沢東神格化が進められ、1965年秋からは文化大革命を発動、毛主席をたたえる紅衛兵の出現などもあって世界を驚かせ、全中国を怒濤(どとう)のなかに導いた。この間、毛沢東の後継者に任命された林彪(りんぴょう)党副主席が人民解放軍をバックに毛沢東を支えたが、その林彪も1971年の林彪事件で失墜し、やがて脱文革の潮流が大きくなっていった。死の直前の1976年4月に毛沢東政治への大衆反乱ともいえる天安門事件(第一次)が起こり、偉大な英雄、そして家父長的な独裁者であった毛沢東も晩年はまったくの孤立無援のなかで1976年9月9日に死去した。その直後には、いわゆる四人組事件が起こって、江青(こうせい)夫人ら側近が逮捕され、毛沢東政治に大きな転換が生じた。毛沢東亡きあと毛沢東思想を護持した華国鋒(かこくほう)主席も、政治の表舞台から追放され、こうして毛沢東時代は完全に終焉(しゅうえん)したのである。
今日の中国では、非毛沢東化が進められ、「毛沢東思想」は完全に過去のものとなっている。
なお、最初の妻・楊開慧(1901―1930)は国民党に処刑され、彼女との間に生まれた息子、毛岸英(1922―1950)は朝鮮戦争で戦死した。楊の死後、毛沢東は賀子貞と結婚、のち離婚して、1939年延安で女優の藍蘋(らんぴん)こと江青と結婚した。
[中嶋嶺雄 2016年3月18日]
『『毛沢東選集』全9巻(1971・三一書房)』▽『『毛沢東語録』(1995・平凡社ライブラリー)』▽『松村一人・竹内実訳『実践論・矛盾論』(岩波文庫)』▽『中嶋嶺雄編著『中国現代史〔新版〕』(1996・有斐閣)』▽『ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳『マオ 誰も知らなかった毛沢東』上下(2005・講談社)』▽『中嶋嶺雄著『中国 歴史・社会・国際関係』(中公新書)』▽『中嶋嶺雄著『北京烈烈――文化大革命とは何であったか』(講談社学術文庫)』▽『G・パローツィ・ホルヴァート著、中嶋嶺雄訳『毛沢東伝』上下(講談社文庫)』
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1893~1976
中国革命と中華人民共和国の最高指導者。湖南省湘譚(しょうたん)県の人。1921年の中国共産党創立大会に出席。農民運動に従事するなかで,中国革命の実現には中国的特色を重視する必要があることを認識し,圧倒的多数の農民が居住する「農村によって都市を包囲する」,いわゆる「農村工作重点主義」の革命戦略を推進した。一時は失脚したが,34年に国民党の包囲作戦から脱出する長征の途上で党の実権を掌握した。党主席として権力を握るとともに,「毛沢東思想」を党規約に明記することによって権威も確立した。49年の建国後は党だけでなく,国家主席も兼任し,国家の最高指導者であり続けた。しかし「大躍進」など性急な革命の失敗により,59年に国家主席を辞任した。ところが,66年には権力奪還をめざして文化大革命を発動した。その結果,「造反有理」のスローガンを掲げて党組織自体を機能不全に陥れ,多くの国民を10年間にわたる「悲惨な内乱」に巻き込んでしまった。
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1893.12.26~1976.9.9
中国共産党指導者。湖南省湘潭県の中農の家に生まれる。省立第一中学をへて1918年同第一師範学校卒。21年中国共産党創立に参加し,湖南の共産党の中心的な存在となる。31年瑞金の中華ソビエト共和国臨時政府主席となり,35年長征途上で抗日民族統一戦線論を軸に共産党の実権を掌握。農民運動と教育に独自の理念をもっていた。45年から76年まで一貫して中国共産党中央委員会主席。49年10月中華人民共和国国家主席に就任し,59年まで在任した。66~69年,プロレタリア文化大革命を強行し国内の社会全般にわたって多大な影響を与えた。
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…1957年後半から大躍進期にかけて中国の各級学校で展開された社会主義教育運動の一形態。知識青年を〈社会主義的自覚をもつ,教養をそなえた勤労者に育てあげる〉という毛沢東の指示(《人民内部の矛盾を正しく処理する問題について》1957年2月)が発端となった。その源は,第1次世界大戦期の1915年6月にフランスの参戦華工(参戦国の労働力欠乏を補うために送りこまれた中国人労働者)の間で,無政府主義者で有名な李石曾(名は煜瀛(いくえい))が〈工作に勤め,倹にして以て求学する〉ことを趣旨に組織した〈勤工倹学会〉にある。…
…こうした経験をへて,第2次大戦においては抗独レジスタンス運動(フランスにおけるマキなど),抗日戦争などでゲリラ戦が広範に展開された。抗日戦で農民ゲリラを組織し遊撃戦の戦法を駆使した毛沢東は,《持久戦論》(1938)などでこれを体系化し,ゲリラは民衆と〈水と魚〉の関係を保ち,しだいに敵を弱め,味方を強大にしていく持久戦であり,政治戦であるとしている。抗日戦から中国革命へと勝利を導いた毛沢東理論は,第2次大戦後,アルジェリア戦争,ベトナム戦争,キューバ革命などに大きな影響を与え,以後の第三世界における解放運動に継承されて,農村から都市を包囲し,ゲリラを正規軍に発展させる戦略・戦術が定着してきている。…
…中国工農紅軍(中国労農赤軍)の通称。1927年蔣介石,汪兆銘の国民政府と決裂した中国共産党は8月1日の南昌蜂起(周恩来,朱徳,賀竜,葉挺らが指導),9月の湖南,湖北の秋収蜂起(毛沢東らが指導)など各地で暴動を起こし,中国工農紅軍をつくった。湖南秋収蜂起に失敗した毛沢東は湖南・江西省境の井岡山を根拠に,28年5月には朱徳がひきいる南昌蜂起の残兵が合流して紅第四軍(司令朱徳,政治委員毛沢東)を結成,紅軍の主力となった。…
…したがって国民政府の正規軍が抗日の主力であり,中共の軍隊は蔣介石の統一指揮に服すべきだとして独自の遊撃戦略に反対した。毛沢東らは抗日を反帝反封建の民族革命の一環に位置づけ,国民政府の反動的本質からして抗日の真の主力は人民を動員し,組織し,武装させて戦う八路軍・新四軍と中共の指導する遊撃戦争であると主張し,彼我の力関係から長期かつ困難な戦争になると見通した(持久戦論)。38年10月,日本軍は武漢,広州を占領,戦線は膠着状態となった。…
…このなかで中共党内には蔣介石集団の抗日の積極性を高く評価し,中共指導下の軍隊も国民党の統一指導にゆだねるべきだとする陳紹禹(王明)ら――その背景にはコミンテルンがあった――の有力な主張があった。これに対し毛沢東らは,蔣介石ら英米派の大地主・大ブルジョア集団は抗日陣営のなかの右翼頑迷派であり,抗日の主力とはなりえない,抗日は中国の民族革命=反帝反封建革命の一環であり,労働者,農民に依拠し,民族ブルジョアなど中間階級をまきこみ,大衆的な武装抵抗の運動となってはじめて勝利できる,統一戦線の拡大強化のためには〈独立自主〉の原則をつらぬき,軍と抗日根拠地に対する中共の指導権を断固として保持すべきである,国民党に対しては〈連合〉して抗日戦争を進めるとともに,人民大衆の動員をはばむ反人民的側面とは〈闘争〉せねばならず,またそうしてこそ統一=合作は守りうる,との立場をとった。実践の結果と戦局の展開が後者の正しさを証明するなかで,38年10月,中共中央委総会は毛沢東路線を確認し,統一戦線の指導は統一された。…
…中国,解放後の知識人の意識変革をめざす大運動の一つ。唯物論思想を,古典《紅楼夢》研究にどう具体的に適用するか,学術権威を無名の青年が批判し,それを毛沢東が1954年10月16日手紙を書いて支持する形で繰り広げた運動。批判論文を採用するかどうかの手続問題から,馮雪峰(ふうせつぽう)らの《文芸報》編集部自己批判をも引きおこした。…
…24年1月,広州における国民党第1期全国代表大会では,連ソ・容共・労農援助の三大政策をともなう新三民主義の旗印のもと,国共合作の方針に見合う改組が断行され,反帝国主義・反軍閥の革命綱領が確定された。中央執行委員には李大釗(りたいしよう)ら,同候補には毛沢東ら共産党員も入り,ボロジンが最高顧問となった。五・四運動と十月革命の影響で民衆の力量に注目するにいたった孫文にすれば,中国共産党の活動力を取り込み,中国を平等に遇するソ連と提携して革命をすすめようとしたのである。…
…レーニン,スターリンは,農村を機械化し,農民を労働者に変えれば,大都市集中を放置しておいても,この対立は解消に向かうと考えた。しかし,毛沢東は大都市集中を排除しないかぎり,対立は激化すると考えた。1960年代後半の文化大革命期に,約3000万人の都市青少年を農村に送ったのはこの考えからである。…
…この運動の背景には,社会主義の行方をめぐる激しい路線対立があった。すなわち,社会主義社会にあっては階級闘争は消滅した,重要なのは生産の組織化だ,とする劉少奇らに対して,それと対立する立場をとる毛沢東の対立である。毛沢東は,62年の中共8期10中全会で,社会主義社会を貫いて階級闘争が存在するという過渡期階級闘争理論を打ちだし,それをふまえて社会主義教育運動を発動した。…
…マルクス主義によれば人間の意識・活動は物質的条件と客観法則に規定されるが,それらへの正確な認識(実践と認識の統一)を通じて,許容される限度のなかで主観的努力すなわち能動性を十分に発揮し,客観世界の改造を促すことができる。この作用の重要性をとくに強調したのは毛沢東で,1938年の論文〈論持久戦〉(当時は〈自覚的能動性〉と呼んだ)以来,彼の思想,哲学の一つの特徴をなし,〈人の要素〉を第一とする革命指導を基礎づけた。58年,大躍進運動が起こると主観能動性の発揮があらためて強調され,中国哲学界でも活発な討論がおこなわれた。…
…中国革命および中国社会の歴史的段階を規定する概念。毛沢東により提唱され,革命理論と民族統一戦線政策の形成に重要な役割を果たした。毛沢東は1939年の論文《中国革命と中国共産党》のなかではじめて〈新民主主義革命〉の概念を提起し,40年の《新民主主義論》で〈新民主主義〉についての理論を体系的に展開した。…
…中国で,毛沢東が提起した革命政治理論。中国の国旗,五星紅旗は一つの大星と四つの小星をもつ。…
…周囲の平原部との高度差が約500mで,黄洋界など天然の隘路があり,山中には茨坪(しへい)や大井,小井などの山間盆地が発達する。この地形を利用し,1927年毛沢東は最初の農村革命根拠地を築いた。【駒井 正一】。…
…中国語の〈走資本主義道路的当権派(資本主義の道を歩む実権派)〉の略語。1965年,毛沢東が〈農村社会主義運動で当面提起されているいくつかの問題について〉と題する中共中央政治局の文献で初めてこのことばを用いた。当時の中共は,このような走資派=修正主義特権官僚によって修正主義に変色させられる一歩手前にある,というのが毛沢東の認識であった。…
…このような全体系を広義に宗法ともいうのである。 孫文が《三民主義》(1924)の中で,中国が世界に侮られるのは宗族主義が強すぎて国族主義がなく,ために外国人は中国人を一握りのばらばらの砂だという,といったのはこの広い意味の宗法体制であり,毛沢東が《湖南農民運動考察報告》(1927)の中で,農村にみられる政権,族権,神権,夫権の四つの権力の系統的支配は〈封建宗法の思想と制度のすべてを代表している〉といったのもまた広い意味の宗法である。この孫文や毛沢東の発言からしても,宗法の生みだした深刻な影響を知るべきである。…
…正式名称=中華人民共和国People’s Republic of China面積=960万km2人口(1996)=12億2390万人(台湾・香港・澳門を除く)首都=北京Beijing(日本との時差=-1時間)主要言語=中国語(漢語)通貨=元Yuan
【概況】
[建国]
1949年10月1日,北京(当時は北平と呼ばれた)の天安門楼上で,中国共産党主席毛沢東は,中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。これによって,台湾および金門,馬祖など若干の島嶼(とうしよ)をのぞき,中国大陸に真の統一国家が実現し,この日はこれ以後,建国記念日,すなわち国慶節として国家の記念日に指定された。…
…しかし広州コミューンなど大都市占拠を目的とした諸蜂起は,極左盲動主義の誤りを犯し,すべて敗北に終わった(第1次極左路線)。ただ,湖南での秋収暴動に失敗した毛沢東は,残軍を再編して井岡山区に入り,独自に土地革命と農村革命根拠地建設の闘争を開始した。 28年6月,中共は第6回全国大会をモスクワで開き,革命の性格が反帝国主義・反封建主義の民主主義革命であることを再確認するとともに,農村革命根拠地(ソビエト区)闘争の推進をふくめて,革命の退潮期における諸任務を策定した。…
…10月,中央紅軍(第1方面軍)は中央根拠地を出発,第2方面軍との合流をめざし,数重の封鎖線を突破して,11月,湖南南部に達したが,硬直した作戦指導のもとで甚大な損害をこうむった。この事態に毛沢東の主張で第1方面軍は進路を変えて貴州に入り,35年1月,遵義(じゆんぎ)会議において毛沢東が軍事指導の中枢をにぎることになった。 運動戦に転じた第1方面軍は貴州,雲南を縦横に転戦し,国民政府軍の追尾を振りきったあと,この地方に根拠地を建設する方針を変更して,5月,四川に入り,6月中旬,川陝根拠地を放棄して西進してきた紅軍第4方面軍と四川西部の懋功(ぼうこう)で合流した。…
… 土地革命はコミンテルンと党中央の指導で行われたが,いかに農村の階級を区分し,どのように土地を没収して農民に分配するかはきわめて複雑な問題であり,試行錯誤を経て中国農村の現実に即した路線と方法を確立していった。根拠地で実践中の毛沢東が最も早く制定した〈井岡山土地法〉(1928年12月)には,地主所有地だけでなく〈すべての土地を没収する〉とあり,土地はソビエト政府の所有に帰し,農民は使用権を持つのみで売買は禁止された。土地の分配も,人口に応じ〈郷〉を地域単位とするほか,労働力に応じ〈区〉を単位とすることも認めている。…
…1921年9月浙江省蕭山県にできた衙前農民協会が最初とされるが,広範に発展するのは広東省海豊・陸豊地方で,優れた農民運動指導者の彭湃により22年9月労山農会が組織され,翌年1月には海豊県総農会が成立,会員は県人口の4分の1を占める10万に達した。湖南省衡陽県の岳北・白果一帯でも23年初頭に毛沢東の指導で農民運動が起こり,同年9月岳北農工会ができている。その後国共合作下の国民党中央農民部は24年6月〈農民協会章程(規約)〉を公布,農民運動講習所を広州ついで武漢に開設,彭湃,毛沢東らの指導で農村幹部を養成し,各地に農民協会と農民自衛軍を組織した。…
…四股がそれぞれ二比に分かれているので八股というようになった。現代では毛沢東の〈党八股に反対せよ〉(1942年)の提唱以来,八股の語は,形式主義的な文風に対する整風運動として否定的に用いられている。毛沢東は主観主義とセクト主義が党八股をその宣伝の道具,または表現形態としていると断定した。…
…苦労を重ねて学校を建て,民衆教育に貢献した〈教育界の義人〉として民国時代にたたえられ,映画もそれを肯定的に描いていたといわれる。しかし武訓の行為に対する疑問が51年3月ごろから次々に提起され,同年5月20日付《人民日報》は,〈映画《武訓伝》の討論は重視すべきである〉という社説(1967年に執筆者は毛沢東と公表)を発表,政府文化部と合同で〈武訓歴史調査団〉を山東へ派遣した。その結果,武訓が農民を搾取した高利貸で,〈義学〉の学生にも貧農はいなかったという調査報告が51年7月の《人民日報》に掲載され,人々の武訓に対する虚像を打破した。…
…1966年から76年にかけて,全中国をまきこんで展開された権力闘争。この背景には,毛沢東の過渡期階級闘争理論があった。新中国成立後,毛沢東は,みずからの指導する社会主義社会を,階級闘争の終始存在する過渡期社会ととらえる理論に傾斜していったが,60年代中期にいたって,党は〈資本主義の道を歩む実権派〉によって修正主義に変質させられる前夜にあるとの認識に達し,これら〈走資派〉を一掃し,修正主義化を防止する目的をもって,プロレタリア文化大革命(文革)を発動した。…
…1942年,毛沢東が延安の文芸座談会で行った講演。文化的に不毛に近い農村を根拠地として戦っていた当時の条件下で,毛沢東は,都会からやってきた芸術家に向かって,足下の農民に眼を向け(=文芸の階級性),労農兵に奉仕せよ,と説いた。…
…この結果これらの5原則は,〈現在の世界にみられる緊張した情勢を緩和し,平和の空気をつくりあげるための原則〉として,周=ネルー共同声明のなかにもうたわれ,全世界に向かって〈平和の5原則〉として打ち出された。なおこの平和の5原則は中国の毛沢東主席によって,国際連合の基本精神として1944年に構想されたもの,といわれるが,55年インドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議は,この原則をふまえ,さらに発展させて〈平和十原則〉を打ち出した。【蠟山 芳郎】。…
…湖南軍官学校卒。国民革命軍に入り連隊長となったが,1928年6月湖南省平江で起義し,同年12月井岡山で朱徳,毛沢東と合流。29年第5軍長となり,湖南・江西省境で活動,30年7月には湖南省都長沙を占領した。…
…毛沢東の文章のさわり集。もと中国人民解放軍兵士の毛沢東思想学習テキストとして編まれたもので,未公開であった。…
…地域内の気象や地形の熟知と住民の支援の獲得はさらに効果的な遂行を可能にする。【茅原 郁生】
[中国]
遊撃戦は,中国の人民革命戦争の歴史においてきわめて重要な位置を占めた作戦方法であり,毛沢東の人民戦争理論・軍事路線の核をなすものである。中国では〈遊撃戦〉はそのような歴史的内容をもつものとして理解されている。…
※「毛沢東」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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