翻訳|pheromone
動物界には,行動や発育を制御する化学物質が数多く存在している。その中でもっともよく知られているのがホルモンで,これは動物体内で生産,分泌され,さまざまな機構を介してその個体の正常な発育を調節するものである。それに対し,フェロモンは,同じように動物体内で生産されるが〈体外へ分泌された後に,同種の他の個体によって受けとられ,受けとった個体(受容者)に一定の行動や発育過程の変化といった特異な反応をひき起こす物質〉である。この定義はカールソンP.KarlsonとリューシャーM.Lüscher(1959)によるもので,現在では広く承認されている。フェロモンはギリシア語のpherein(運ぶ)とhormaō(刺激する)を組み合わせてつくられた言葉で〈体外へ運ばれて刺激する物質〉を意味している。したがって,フェロモンは同種の個体間に交わされている〈化学的な言葉〉とみなすことができる。
哺乳類を含めた多くの高等動物にフェロモンの存在が知られているが,フェロモンの研究はカイコの性フェロモンで始まり昆虫について最も多く研究されている。先の定義にあるように,フェロモンの機能は受けとった個体にある一定の行動を起こさせる場合と,発育過程に変化をもたらす場合の二つにわけられる。
受容者に起こる行動によってさらに次のように分類されている。(1)雌あるいは雄が交尾の前に異性を呼びよせるために分泌,放出するフェロモン(性フェロモン)。(2)ある個体が危険に遭遇した時に,放出して同種の仲間に知らせるフェロモン(警報フェロモン)。(3)同種の他個体が分泌した物質によって,集合し集団をつくって生活するためのフェロモン(集合フェロモン)。(4)ある個体が餌をみつけて巣へ運び帰る時に,道に残した分泌物をたよって他の個体が餌を集め巣へ帰れるようにするフェロモン(道しるべフェロモン)。
フェロモンを受けとった側に発育上の変化があるのは,社会性昆虫と呼ばれるアリ,ハチ,シロアリにみられる。(1)社会性昆虫の代表で,最も発達した社会を構成しているミツバチは,1匹の女王バチと数万匹以上の働きバチで一つの巣をつくっている。女王バチは毎日1000個以上の卵を産むが,ここからは普通働きバチだけが生まれる。働きバチはみな雌で,巣の中に1匹の女王バチがいる限り,卵巣の発育が抑えられたままで,産卵することはない。女王バチから分泌される女王物質queen substanceを働きバチがなめたり,においとして受容することで卵巣の発育がおさえられ,餌集め,女王の世話という働きバチの行動を起こさせている。女王物質はミツバチの社会階級を決めるフェロモンである(階級分化フェロモン)。このようなフェロモンはアリ,シロアリの社会にもあり,王,女王,兵アリ,働きアリなどの階級をつくっている。(2)同一集団(コロニー)の仲間であることを認知させるフェロモンがある。兵アリは自身の属するコロニーの働きアリには攻撃しないが,他種昆虫には攻撃を加える。そこには同一コロニーの構成員であることを認知させるフェロモンが存在しているからである。例えば,初夏に巣分れして新しい巣をつくる女王に,多数の働きバチがついていくのは女王の発するにおいを認知するからである。このにおいは腹部末端にあるコシェブニコフ腺Koshevnikov's glandの分泌物である(認知フェロモン)。
フェロモンの中で最もよく研究されているのは,昆虫の配偶行動において,一方の性が放出して他方の性を刺激し,交尾行動を行わせる性フェロモンである。カイコガを例にとると,羽化後雌は腹部末端から分泌腺を突出させて性フェロモン(ボンビコール)を放出し始める。これをコーリングcallingという。コーリングを始めると,近くの雄はアンテナをたててフェロモンを感知し,翅をばたつかせながら渦巻き状に歩いて雌ガに近づく。そのあと視覚,触覚によって雌ガを認知して交尾を行う。雄ガはフェロモンをアンテナの嗅感覚でとらえ,その刺激が脳へ伝達され,脳からの刺激が脚,翅を動かして特異な行動となって表れる。鱗翅(りんし)目農業害虫の性フェロモンの研究も多く,野外での発生調査や大量誘殺法などに利用されている。
フェロモンはにおい刺激として受容されるばかりでなく,分泌されたフェロモンをアンテナで接触して認知する接触化学刺激物質(例,ゴキブリ,カ,ハエ,コオロギ)も認知に働くことが知られている。また女王物質の場合には,経口的に働きバチに受容され,代謝過程にとりこまれて作用するのである。
執筆者:高橋 正三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
動物の個体が体外に放出し、同種の他個体の行動や発育、分化そのほかの生理的状態に変化をおこす効果をもつ物質の総称で、典型的な誘引物質の一つ。体内で分泌され同じ体内で作用するホルモンと異なり、個体間での情報伝達に働く点にフェロモンの特徴がある。ガの雄が遠くから雌にひかれて集まる現象は19世紀に書かれたファーブルの『昆虫記』にもすでに記載されているが、それが雌の分泌する信号物質によるということが、ブーテナントによってカイコガで実証されたのは1959年である。同年、カールソンP. KarlsonとリューシャーM. Lüscherによって、このような個体間信号物質にフェロモン(刺激を運ぶものという意味の造語)という一般名を与えることが提唱された。フェロモンは通常、適度の揮発性をもち、空気中に拡散して他個体の嗅覚(きゅうかく)器に受容され、きわめて微量で効果を及ぼす。たとえば、カイコガの雌の腹部分泌腺(せん)から分泌されて雄を誘引するフェロモン(ボンビコール)は、空気1ミリリットル当りわずか200分子の濃度で雄の顕著な接近行動を引き起こすことが確かめられている。
例外的には接触化学感覚(味覚など)を介して働くものもある。昆虫で多くの例が知られているが、ほかの動物にも広く存在し、物質の化学構造や作用も多岐にわたっている。相手に受容されるとただちに行動に影響をもたらすリリーサー効果と、生理的変化をおこすプライマー効果とに分けることができるが、同じフェロモンが両方の効果を示す場合もある。ここではおもに誘引性のフェロモンについて述べる。
リリーサー効果をもつフェロモンとしては、異性の認知および性行動を支配する性フェロモン(昆虫、哺乳(ほにゅう)類など)、仲間に危険を知らせる警報フェロモン(アリ、ハチなど)、食物や巣の場所を知らせる道しるべフェロモン(アリ、ハチ)などがある。
[木村武二]
性誘引物質ともいい、個体から放出された物質が同種の異性個体を誘引する。雄が放出して雌を誘引する物質(ジャノメチョウなどで研究されている)もあるが、雌が放出して雄を誘引する例のほうが多い。多くの昆虫で有効物質の単離・同定がなされているほか、魚類、両生類、爬虫(はちゅう)類、哺乳類でも性フェロモンの存在がさまざまな種で証明されている。物質の化学構造は種によって異なっていて、通常は同種の個体間でのみ信号として働く。このことを応用して、特定の昆虫(農業害虫や森林害虫)のフェロモン物質を用いて誘引・捕殺する誘引剤として利用したり、発生状況の検査に役だてている例もある。天然の性フェロモンのほかに、類縁化合物や植物成分のなかにも性誘引効果をもつ物質が知られていて、これらも性誘引物質とよばれている。
[木村武二]
同種の個体を性に関係なく誘引して集団を形成する働きのある物質をいう。キクイムシ、ダニ、ゴキブリなどで研究されている。
[木村武二]
アリやハチでは危険を感じた個体が放出して仲間を招集する。これは一種の誘引物質といえよう。これに対して魚類の警報フェロモンのようにそれを感じた仲間が逃げ散るような場合は誘引とは逆の効果となる。
[木村武二]
ミツバチが巣の場所を仲間に教えたり、アリが餌場(えさば)への道筋を教えるフェロモンも一種の誘引物質である。
[木村武二]
プライマー効果をもつフェロモンには、ミツバチの女王物質のようにほかの個体の生殖能力を抑える階級分化フェロモンや、ハツカネズミの雄が分泌して雌の性成熟や発情を促す物質が含まれる。プライマー効果はこれらの生理的変化を通じ行動にも影響を及ぼす。
[木村武二]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
動物の体内で生産され,体外に排出されて同種ときには異種に対して,微量できわめて強い特異な生理行動や生理的変化を引き起こす物質の総称.最初にフェロモンを単離したのはA.F. Butenandt(ブテナント)で,カイコBombyx moriの未交尾雌より抽出し,ボンビコールを結晶状に取り出した.鱗翅(りんし)目昆虫のフェロモンは,ほとんどが炭素数12~16の直鎖アルコールかその酢酸エステルで,分子内に不飽和結合が1~2個含まれている.現在,約20種のフェロモンが単離されている.フェロモンは種特異的とされていたが,異種より同一の物質が単離されている.ハマキガの一種Argyrotaenia velutinanaのフェロモンは,cis-11-テトラデセニルアセタートであるが,ハマキガの一種Choristoneura rosaceana,およびアワノメイガOstrinia nubilalisからも同一物質が得られている.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(垂水雄二 科学ジャーナリスト / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…ミツバチについていえば,最高の空間利用をしめす六角形の巣室,餌のある方角と距離を仲間に伝える収穫ダンス,貯蔵食餌(蜜と花粉)の防腐防菌処理,完璧な温度調節能(巣の中心温度は外気より10℃以上も高く,かつ1~2℃しか変化しない),外敵を刺して死ぬことで防御力を高める特攻隊機構(刺してちぎれた針から揮発する酢酸イソアミルで仲間が刺激され,刺す行動を倍加させる)など,ワーカーの示す能力は動物にみられる行動の中でひときわ目だった完成度に達している。一方女王も産卵のほかに極微量で有効なフェロモンを分泌し,雌であるワーカーたちの卵巣発達をおさえ,また時期はずれに次代女王室をつくる行動を抑制している。このような事実が知られる以前から,人間はハチやアリのコロニーにおける一見みごとな統合ぶりに注目し,あるいは絶対君主制に,または完全な共産制になぞらえたりした。…
…哺乳類ではサインとしてのにおいは,臭腺,肛門腺,あしゆびの汗腺などでつくられて分泌される。近年ではこのように動物の体内でつくられ,分泌されたときに他個体に特異的な反応をひき起こす化学物質をフェロモンと呼ぶようになった。フェロモンは昆虫でよく研究されており,単にサインとしてだけでなく,他個体の成長を支配するようなフェロモンの存在がシロアリやハチなどで知られている。…
※「フェロモン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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