コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

リャザーノフ

百科事典マイペディアの解説

リャザーノフ

ソ連の文献学者。本名ゴリデンダフGol'dendakh。筆名D.またはN.リャザーノフ。1917年《マルクス=エンゲルス全集》2巻を刊行以後,マルクス主義文献の収集・刊行に努力,1920年マルクス=エンゲルス研究所を創立。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

リャザーノフ【David Borisovich Ryazanov】

1870‐1938
ソ連邦のマルクス文献学者。本名ゴリデンダフGol’dendakh。マルクス=エンゲルス研究所の創設者で,1921‐31年その所長。1887年オデッサで革命運動に加わる。当初ナロードニキに属していたが,89年,国外滞在中マルクス主義者となる。91年逮捕され5年間投獄,その後3年間流刑。この間,政治,経済,歴史,哲学を独学した。1903年,ロシア社会民主労働党第2回大会後メンシェビキ派に属する。07年短期間の逮捕後,イギリス,ドイツ,フランス,イタリア,スイス,オーストリアで労働運動史やマルクス主義の研究と文筆活動を続ける。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

リャザーノフ
りゃざーのふ
Давид Борисович Рязанов David Borisovich Ryazanov
(1870―1938)

ロシア革命の活動家で、ソ連のマルクス主義文献学者。1870年3月10日ユダヤ人を両親にオデッサで生まれる。本名ゴルデンダフГольдендах/Gol'dendakh、リャザーノフは筆名。1887年オデッサ、ペテルブルグで革命活動に従事し、1889年海外でナロードニキからマルクス主義者となる。1891年投獄、流刑後亡命し、1903年ロシア社会民主労働党第2回大会後メンシェビキとなった。1907年短期の逮捕後ふたたび亡命し、今度は第一インターナショナルの歴史、マルクス‐エンゲルスの著作全集の研究と出版(ドイツ社会民主党の委託で1916年までに2巻を出版)を行う。1917年二月革命後帰国、トロツキー指導のメジライオンツィ(国際派革命家グループ)とともにボリシェビキに加入、その後労働組合活動を行ったがボリシェビキ多数派には従わなかった。十月革命後メンシェビキ、SR(エスエル)参加の連立政府創設に活動、1918年ブハーリン指導の左翼共産主義者に合流した。同年ブレスト・リトフスク条約締結に不同意で離党、のち復党したが、1920~1921年の労働組合論争で反党的政綱で活動したことから組合活動を排除され、影響力を妨げられた。
 1920年代の活動はマルクス主義学問に向かった。1918年には社会主義社会科学アカデミーの創設を援助し、1922年にはマルクス‐エンゲルス研究所長となり、『マルクス‐エンゲルス全集』初版27巻、『プレハーノフ全集』初版24巻、その他36のプロジェクトを推進した。また、1920年から1928年まで十月革命‐ロシア共産党研究委員会会員。彼は研究所を党の干渉から保護し、メンシェビキ、党の異端者も雇った。1929年には科学アカデミー会員となり、1930年には彼の生誕60周年の行事(記念論文集刊行、最良のマルクス主義研究に与える2年ごとのリャザーノフ賞設立、党幹部の称賛メッセージ)なども行われた。しかし、1931年マルクス‐エンゲルス研究所の研究員ルービンIsaak Illich Rubin(1886―1937)がメンシェビキとの関係を疑われた事件に連座して逮捕され、ソ連共産党を除名された。1937年にふたたび逮捕され、1938年1月21日獄死。[海道勝稔]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

リャザーノフの関連キーワードアドラツキー

今日のキーワード

分水嶺

1 分水界になっている山稜(さんりょう)。分水山脈。2 《1が、雨水が異なる水系に分かれる場所であることから》物事の方向性が決まる分かれ目のたとえ。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android