ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オデーサ」の意味・わかりやすい解説
オデーサ
Odesa
古代にはすでに集落が存在していたが,14世紀にタタール人がハジベイ Khadzhibeyと呼ばれる要塞を築いたのが近代都市としての歴史の始まりである。その後,リトアニア=ポーランド領となり,1480年にトルコの手に渡った。1789年にロシア軍の攻撃を受け,1792年にロシアに割譲された。1792~93年,新たな要塞が建設され,1794年には海軍基地と埠頭がつくられた。1795年,この地の近くにあったとされる古代ギリシアの植民市(アポイキア),オデッソス Odessosにちなんで改名された。19世紀,特に 1866年に鉄道が開通すると急速に発展し,ウクライナ産穀物の輸出港として繁栄,サンクトペテルブルグに次ぐロシア第二の港となった。1905年にはロシア革命の中心地の一つとなり,ポチョムキン号の反乱の舞台となった。なお,セルゲイ・エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』(1925)もここで制作された。第2次世界大戦中はドイツ軍およびルーマニア軍に長期間にわたって攻囲され,甚大な被害を受けた。
オデーサは現在,設備の整ったドックや船舶修理場をもつウクライナ最大の港であり,また主要な漁業基地,海軍基地でもある。1957年にはオデーサの南約 20kmのイリイチェフスク(コルノモルスク)に外港が建設された。陸上交通の要地でもあり,ウクライナ各地のほか,モルドバ,ルーマニアとも鉄道,道路で結ばれている。工業も発展し,工作機械,クレーン,耕耘機,肥料や塗料,染料などが製造されている。また,石油精製,ジュート加工,食品加工も盛んである。多くの工場は港の北方の臨海部に立地しているが,新設の工場は西の郊外にある。21世紀初頭には情報技術 IT部門で活況を呈し,地元のスタートアップ企業が海外投資家の目をひいた。また,オデーサの高学歴の労働力に技術開発を委託する欧米企業もあった。
オデーサは文化,教育の中心地であり,市内には 1865年創立のオデーサ大学をはじめ,商船大学,海軍大学などの高等教育機関がある。最も有名なのは,フィラトフ眼病・組織療法研究所である。数多くの博物館・美術館や劇場があり,1809年に建てられたオペラ・バレエ劇場一帯は 2023年,「オデーサ歴史地区」として世界遺産の文化遺産に登録された。港の南方沿岸部には保養所や行楽地がある。人口 101万5826(2021推計)。
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