ロシアのマルクス主義理論家、ロシア社会民主労働党創立者の一人。タムボフ県の小地主の家に生まれる。1875年19歳で革命運動に参加、農民蜂起(ほうき)を通じて専制政治の打倒を目ざした秘密組織「土地と自由」の指導者の一人となった。1880年に亡命、フランスとドイツの労働運動を知り、ナロードニキの立場を捨て、1882年『共産党宣言』をロシア語に翻訳出版。1883年秋スイスでロシア最初のマルクス主義組織「労働解放団」を創設、マルクス主義の普及活動を組織した。マルクス‐エンゲルスの著作の翻訳も行い、自らも「社会主義と政治闘争」(1883)など多くの論文を執筆。1900~1903年、「経済主義者」に反対しレーニンとともに新聞『イスクラ』と雑誌『ザリャー』を編集、ロシア社会民主労働党第2回大会の準備、開催に努力した。党大会ではレーニンの側にたったが、大会後メンシェビキ指導者の一人となった。1905年の革命に際しては自由主義者との同盟を要求し、12月の武装蜂起を非難した。しかし続く反動期にはボリシェビキとともにメンシェビキ多数派に反対したが、第一次世界大戦に際しては祖国防衛、戦争協力の立場をとった。1917年の二月革命時に帰国、十月革命に反対したが、反ソ的立場はとらなかった。1918年5月、フィンランドのピトケヤルブイのサナトリウムで、結核のため死去した。著書に『史的一元論』(1895年に別のタイトルで発表)などがある。
[木村英亮 2015年10月20日]
『内村有三訳『社会主義と政治闘争』(大月書店・国民文庫)』▽『木原正雄訳『歴史における個人の役割』(岩波文庫)』▽『川内唯彦訳『史的一元論』全2冊(岩波文庫)』▽『蔵原惟人・江川卓訳『芸術と社会生活 他1篇』(岩波文庫)』▽『S・バロン著、白石治朗他訳『プレハーノフ』(1978・恒文社)』
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ロシアの革命家,思想家。ロシア・マルクス主義の父と称される。小地主の家に生まれ,鉱業専門学校在学中にナロードニキ革命思想に接して運動に入る。結社〈土地と自由〉の理論的指導者となり,結社の分裂(1879)にさいして〈土地総割替〉派に属する。亡命してマルクス主義に転じ,1883年ジュネーブに労働解放団を同志とともに創設,《社会主義と政治闘争》(1883)によって,ロシア・マルクス主義の理論を確立,《われわれの意見の相違》(1885)において,ロシア資本主義化論の先駆的分析をおこなった。それは,ナロードニキのロシア資本主義没落論を理論的・実証的に批判して,ロシアの現在と未来が資本主義のものであることを述べ,ロシアの革命運動はプロレタリアートが主体であること,ただし,専制主義の支配する現在の当面の課題はブルジョア革命であり,プロレタリア革命はその先であることを説くものであった。彼はこのような非連続的二段階革命論を終生保持し,時期尚早のプロレタリア革命は東洋的専制主義への逆転をうむと考えた。《イスクラ》刊行を通じてロシア社会民主労働党の再建にレーニンらと協力,1903年の第2回大会でレーニンとマルトフらが対立すると,やがてメンシェビキの側に加わった。05-06年の第1次革命において革命戦略,農業綱領をめぐってレーニンと対立したが,反動期には解党派と闘った。第1次世界大戦においては祖国防衛派に属し,17年3月帰国,孤立のうちにフィンランドの病院で死去。豊かな学殖で知られ,哲学,思想史のほか,文学・芸術論など多くの著書を残した。主著に《史的一元論》(1895),《マルクス主義の根本問題》(1908),《芸術と社会生活》(1912)などがある。《ロシア社会思想史》(1914-)は未完に終わったが,ヨーロッパとアジアとの間としてのロシアという注目すべき方法論を基礎にして,ヨーロッパ思想のロシアにおける意味変化,その現実的意義を追求している。
執筆者:田中 真晴
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1856~1918
ロシア・マルクス主義の父。1870年代にナロードニキとして運動を始めたが,亡命後マルクス主義に転向,83年労働解放団を組織した。レーニンとともに『イスクラ』の刊行,第2回ロシア社会民主労働党大会の準備に努力した。第2回大会後,マルトフの側に立ち,メンシェヴィキに属した。1905年革命後解党派に反対し,レーニンと接近したが,第一次世界大戦中は熱烈に戦争を支持し,十月革命を拒否した。
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…1901年日本最初の社会主義政党,社会民主党を結成するが即日禁止となる。04年第二インターナショナル(アムステルダム大会)に日本代表として出席し,交戦国代表ロシアのプレハーノフとともに反戦アピールを世界に向けて行う。06年日本社会党に参加,幸徳秋水ら直接行動派と対立している議会政策派を支持する。…
…しかしながら,一歩たちいって内容を規定する段になると,論者に応じてかなりの差異がある。例えば,ロシア・マルクス主義の父と呼ばれるプレハーノフは,史的唯物論は〈学として現れうべき将来のあらゆる社会学に対するプロレゴーメナ〉であると規定し,社会哲学,ないし,社会諸科学・歴史諸科学に対する認識論的基礎部門として性格づける。これに対して,ボリシェビキきっての〈史的唯物論通〉と呼ばれたブハーリンは,〈史的唯物論はプロレタリア的社会学〉そのものであると規定し,哲学というよりもむしろ社会科学の次元に属するものと主張する。…
…ソ連邦の全15共和国中,ロシア,グルジア,アルメニアの各共和国では党員の住民に占める比率が高かった。
【歴史】
[ボリシェビキの成立]
ロシアにおける反体制運動のなかで,マルクス主義的潮流の歴史は1883年,プレハーノフによってスイスで組織された労働解放団にさかのぼることができる。このころからロシア国内でも労働運動が台頭し,19世紀末には各種のサークル,団体が形成され,P.B.ストルーベやレーニンらが中心となり,マルクス主義的サークルが国内でも誕生した。…
… マルクス=エンゲルスは,唯物論とはいっても,古代ギリシアの物活論的唯物論,啓蒙期フランスの機械論的唯物論,それにまた,L.A.フォイエルバハの唯物論や生理学主義的な俗流唯物論,これら先行的・同時代的なもろもろの唯物論を批判し,弁証法的な唯物論の立場を標榜した。ただし,〈弁証法的唯物論〉という成句的表現は,マルクス=エンゲルスの自称ではなく,ロシア・マルクス主義の父と呼ばれるG.V.プレハーノフが用いはじめたものと言われる。このさい,〈弁証法的〉というのは,ヘーゲル哲学において結実した弁証法の合理的核心を批判的に継承しているからである。…
…ロシアのマルクス主義政党。マルクス主義が社会民主主義としてロシア人に初めて受容されるのは,亡命中のプレハーノフらが1883年ジュネーブで創立した〈労働解放団〉による。プレハーノフは後進国ロシアの当面する革命は専制打倒のブルジョア革命だとし,二段階革命を主張した。…
※「プレハーノフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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