日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルーテル派教会」の意味・わかりやすい解説
ルーテル派教会
るーてるはきょうかい
16世紀ドイツのルター(ルーテル)の宗教改革によって成立したキリスト教の一教派。プロテスタント教会の主流をなす。ドイツ、北欧から北アメリカ、さらにアジア、アフリカの各地に広がり、信徒総数約7000万で、キリスト教教派としては、ローマ・カトリック、ギリシア正教に次ぐ教派である。
[徳善義和]
発端
カトリック教会に対する改革の動きとしては、イギリスのウィクリフ、ボヘミアのフスなどのそれがあったが、宗教改革はルターの聖書との取り組みと、それによる神の恵みの再発見に始まり、1517年10月31日、ルターがカトリック教会の免償(いわゆる免罪符)に反対する九十五か条の論題を公にしたことにより歴史的事件となった。ルターの改革は本来、教会慣習に対する批判や改革であるよりも、むしろ聖書の理解における革新であって、これをカトリック教会にとどまって行おうと意図したが、当時の教会の状況や体制も、国際的・国内的政治状況もこれを許さず、ローマ教皇庁より破門され、同調者たちとともに自分たちの教会を形成しなければならなかった。
[徳善義和]
推移
ルター自身は「ルーテル派」教会とする意図をまったくもたず、教会は「キリストの教会」であるべきだと説いたが、論敵たちの側からの「ルーテル的教会」という呼び方が一般に定着して、広くルターの宗教改革に連なる各地の教会がこうよばれるようになった。まず、ルターが大学神学教授であったウィッテンベルクとその周辺、ザクセン選帝侯領から中部、北部ドイツ、さらに北欧諸国へと広まり、当時それぞれの地域で、国教会もしくはこれに準じる形をとった。1555年のアウクスブルクの和議によって、ようやく帝国法の面でも存在を公認され、以後、西欧キリスト教の大きな一翼となった。教理中心の正統主義の時代、また敬虔(けいけん)主義から近代へと歩みを進めているが、その間、アメリカにも、ヨーロッパからの移民を中心にルーテル派教会が成立し、これらから18世紀以降アジア、アフリカ、南アメリカの各地への伝道によって、ほぼ世界中に広まった。日本には1892年(明治25)北アメリカからルーテル派の宣教師が来日、そのあと来日したフィンランドからの宣教師の働きも加わって、日本福音(ふくいん)ルーテル教会となった。1950年代には、それまで中国大陸で活動していた北欧や北アメリカのルーテル派諸派の宣教団体が日本で伝道を始めて、ほかのいくつかのルーテル派教会の成立をみた。
[徳善義和]
世界連盟
世界各地のルーテル派教会の75%は、いくつかの前身の活動を経て、1947年に「ルーテル世界連盟」を結成している。これはジュネーブに本部を置き、伝道、教会間協力、教育、研究、奉仕などの各分野で世界的に協力、相互援助、人的交流を図っている。さらに、ルーテル派教会はこの組織を通して、また同じくジュネーブに隣接して本部をもつ「世界教会協議会」の働きへの参加を通して、教会一致運動にも積極的に貢献し、最近は400年余の対立を超えて、ローマ・カトリック教会との対話と協力にも画期的な展開をみせている。
[徳善義和]
教義
信仰と教理と信仰生活の源として「聖書のみ」を主張し、そこからそれぞれの状況のなかで生み出された信仰告白(信条)を重視する。聖書の中心は、イエス・キリストによってなされた、罪人の赦(ゆる)しと救いという神の恵みと、それを信頼をもって受け取る信仰とにあるとし、この信仰において信徒ひとりひとりが教会のためにも、社会のためにも責任ある生き方をすることを強調している。ルターのこの「職業召命(しようめい)観」が近代に与えた影響は大きい。また作曲家バッハや画家デューラーの作品にみられるように、芸術、文化への貢献や影響も大きい。その教義は、『一致信条書』(1982・聖文舎)、とくにそこに収められた「小教理問答」「アウクスブルク信仰告白」に明らかである。
[徳善義和]