ボヘミアの宗教改革者。農民の生まれ。プラハ大学に学び、1398年同大学教授、1402~1403年には学長を務めるとともに、1402年からプラハのベツレヘム教会の主席司祭を兼ね、チェコ語による説教で市民に大きな感銘を与えた。ボヘミアにはウィクリフの著作が紹介され、フスも1398年ごろからその著作を読んでいたが、ベツレヘム教会での説教の当初はまだその影響はあまり認められず、道徳的革新に力点が置かれていた。しかし同僚チェコ人教授の間にはウィクリフ説を支持する者が多く、彼もしだいにその説に共鳴するとともに、聖職売買や聖職者の堕落を糾弾して、宗教改革運動の先頭にたつに至った。1409年プラハ大学で国民主義的な改革が実施され、彼はふたたび学長に選ばれたが、1410年プラハ大司教はウィクリフの著作の没収と焼却を命じ、その命令を非難したフスとその一派を破門、それはいったん取り消されたが、1412年ナポリ王に対する十字軍の戦費調達のための贖宥(しょくゆう)状(免罪符)販売を激しく批判して再度破門された。彼は南ボヘミアの貴族に保護されて、『教会論』De ecclesiaなどの著作に従っていたが、1414年コンスタンツの公会議に召喚され、皇帝ジギスムントの通行安全証を与えられて同地に赴いたにもかかわらず、そこで逮捕投獄され、1415年7月6日異端の宣告を受けて焚刑(ふんけい)に処せられた。
フスの思想は、聖書に忠実であることを基本とし、教会の弊風刷新に重きを置いていて、化体説も否定せず、ウィクリフに比べて穏健であった。しかし教会論の著作ではローマ教会の優越的地位やローマ教皇の至上権は否定している。彼の教会批判はチェコ人の民族主義運動と結び付いて、広範な支持を受け、処刑後にはフス戦争が勃発(ぼっぱつ)した。
[中村賢二郎 2018年1月19日]
ボヘミアの宗教改革者。南ボヘミアのフシネツ村に貧農の子として生まれる。プラハ大学で神学を修め,1398年に同大教授に就任する。このころイギリスのウィクリフの改革思想に強く共鳴し,救霊預定説を唱え,聖職者,教会の土地所有,世俗化を厳しく非難した。1402年にはプラハのベツレヘム礼拝堂の主任司祭兼説教師に任命され,チェコ語による彼の説教は,民衆の心を巧みにつかんだ。彼は同時に聖書のチェコ語訳を行い,チェコ語の正字法も手がけるなど,チェコ人の民族教育にも力を注いだ。
チェコ人とドイツ人の間で哲学論争が続いた当時のプラハ大学で,09年チェコ人に有利に制度が改革されると,彼は総長に選ばれた。だが彼はすでにボヘミアで禁止されていたウィクリフの命題を学内で説き,免罪符の販売を攻撃したために10年にプラハ大司教より,翌年にはローマ教皇より破門された。彼は支持者の手で南ボヘミアのコジー・フラーデクKozí Hrádekの城館に逃れ,著述に没頭し,有名な《教会についてDe ecclesia》《説教書》などを著した。
14年,フスはコンスタンツ公会議に召喚されたが,神聖ローマ皇帝ジギスムントの発行した通行許可証を携行していたにもかかわらず逮捕され,法廷に立たされた。彼は自説の撤回を拒否したために異端の罪を受け,翌年7月焚刑に処せられ,その灰はライン川にまかれた。公会議の処置に激怒したフス派教徒が,やがて皇帝,教会を敵に反乱を起こす(フス派戦争)。フスはのちにチェコ人の民族的英雄,守護神的な存在になり,とくに19世紀のオーストリアに対する民族運動の時代にはチェコ人の精神的支柱となった。
執筆者:稲野 強
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1370?~1415
チェコの宗教改革者。ボヘミア生まれ。1398年にプラハ大学教授,のちに総長に就任。ウィクリフの影響を受けて,救霊予定説を説き,カトリック教会の改革を唱えた。さらに大学の制度改革を行い,ドイツ人を追放し,また教会の贖宥状(しょくゆうじょう)の発行を攻撃。1411年に教皇から破門された。15年コンスタンツ教会会議に召喚されたが,異端の罪で,焚刑(ふんけい)に処せられた。彼の主張にある反ドイツ的性格は,19世紀のチェコ人の民族運動に強い影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…またワルド派は,リヨンの富裕な商人だったワルドーが1176年の飢饉にさいして財産を貧者に与えて無一物となり,使徒的生活を人々に説いて回ったことから生まれたもので,多くの類似の運動を合わせ,時にはカタリ派をも引き込んで,ドイツ,イタリア,ハンガリーに進出した。この派は多くの説教師をかかえて長い間教会と対立しつづけ,15世紀にはフス派に合流したが消滅せず,じつにこんにちまで残っている。アッシジのフランチェスコは1207年に祭壇の十字架からの声にうながされて清貧と説教の生活に入り,教会と対立こそしなかったが,その修道会はドミニコ会と争いあい,のちにヨアキム・デ・フローリスの〈永遠の福音〉をうけつぐ聖霊派を生むことになった。…
… 教会改革についても幾つかの決議が採択されたが,重要だったのはボヘミア宗教紛争の解決であった。その中心人物フスは,皇帝の通行安全保証を得て,約30人の信者とともに14年11月公会議開催直前にコンスタンツに到着した。当初はなんの拘束も受けなかったが,反フス派聖職者の暗躍があり,彼はすでに破門され聖務停止下にあるにもかかわらず枢機卿に討論を要求したという口実で,皇帝が到着する前に逮捕され修道院に監禁された。…
…しかもこの体制改革運動の背後には,俗権と教権の分離を唱える神学者オッカムらの新しい教会統治理念が働いていたが,カトリシズムの中心的な教義内容に対する批判にまで進むことはなかった。 第2は,〈宗教改革の先駆者〉と呼びならわされるウィクリフやフスの改革運動である。彼らは,教権と俗権の分離や教会統治体制の変革にとどまらず,神の掟としての聖書を中心に据え,それに根拠をもたない教会の慣行・教義を批判したため,異端の烙印を押された。…
…
【自然】
国土はポーランド,ドイツ,オーストリア,スロバキアと国境を接する。ボヘミアは北西部のエルツ山脈(クルシュネー・ホリKrušnéhory),北東部のズデーテン山地(クルコノシェKrkonošeとオルリツケー・ホリOrlické horyからなる),西・南西部のボヘミアの森Böhmer Wald(チェスキー・レスČeský les,シュマバŠumavaからなる),南東部のモラビア高地(チェスコモラフスカー・ブルホビナČeskomoravská vrchovina)といった山地によって囲まれた盆地で,盆地内は全体に南から北へ高度を下げていく準平原と台地から成っている。ボヘミアの中央を南から北へブルタバ(モルダウ)川が流れ,北部でラベ(エルベ)川に注ぐ。…
…ローマ字にない音にはč,š,žなどのように補助記号を用い,二つの文字を組み合わせて一つの音を示すことは(ch[x]を除いて)していない。この原則はチェコ中世の学者・宗教改革家J.フスの改革によっている。 チェコ語はa,e,i,o,uの五つの母音をもち,これには対応の五つの長母音がある。…
…1918年から92年まで続いた中欧の共和国。国名通称はチェコ語,スロバキア語ともČeskoslovensko。1920‐38年,1945‐60年の正式国名は〈チェコスロバキア共和国Českoslovká republika〉。1948年以後は社会主義体制をとり,60年からの正式国名は〈チェコスロバキア社会主義共和国Československá Socialistická republika〉。1969年よりチェコ社会主義共和国とスロバキア社会主義共和国の連邦制に移行したが,89年の〈東欧革命〉の進行過程で両共和国で連邦制の見直しが図られ,正式国名を〈チェコおよびスロバキア連邦共和国Česká a Slovenská Federativní Republika〉に変更した。…
… 15世紀と17世紀のヨーロッパ史上重要な宗教紛争はいずれもプラハを軸に展開した。すなわち,15世紀のフスの宗教改革運動の発端はプラハで,彼は旧市街のベツレヘム礼拝堂で,教会を非難し,聖書による福音を民衆に説いた。ドイツ人の支配していたカレル大学はチェコ人の握るところとなった。…
※「フス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加