フス(読み)ふす(英語表記)Jan Hus

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フス」の意味・わかりやすい解説

フス
ふす
Jan Hus
(1369ころ―1415)

ボヘミアの宗教改革者。農民の生まれ。プラハ大学に学び、1398年同大学教授、1402~1403年には学長を務めるとともに、1402年からプラハのベツレヘム教会の主席司祭を兼ね、チェコ語による説教で市民に大きな感銘を与えた。ボヘミアにはウィクリフの著作が紹介され、フスも1398年ごろからその著作を読んでいたが、ベツレヘム教会での説教の当初はまだその影響はあまり認められず、道徳的革新に力点が置かれていた。しかし同僚チェコ人教授の間にはウィクリフ説を支持する者が多く、彼もしだいにその説に共鳴するとともに、聖職売買や聖職者の堕落を糾弾して、宗教改革運動の先頭にたつに至った。1409年プラハ大学で国民主義的な改革が実施され、彼はふたたび学長に選ばれたが、1410年プラハ大司教はウィクリフの著作の没収焼却を命じ、その命令を非難したフスとその一派破門、それはいったん取り消されたが、1412年ナポリ王に対する十字軍の戦費調達のための贖宥(しょくゆう)状(免罪符)販売を激しく批判して再度破門された。彼は南ボヘミアの貴族に保護されて、『教会論』De ecclesiaなどの著作に従っていたが、1414年コンスタンツの公会議に召喚され、皇帝ジギスムントの通行安全証を与えられて同地に赴いたにもかかわらず、そこで逮捕投獄され、1415年7月6日異端の宣告を受けて焚刑(ふんけい)に処せられた。

 フスの思想は、聖書に忠実であることを基本とし、教会の弊風刷新に重きを置いていて、化体説も否定せず、ウィクリフに比べて穏健であった。しかし教会論の著作ではローマ教会の優越的地位ローマ教皇の至上権は否定している。彼の教会批判はチェコ人の民族主義運動と結び付いて、広範な支持を受け、処刑後にはフス戦争勃発(ぼっぱつ)した。

[中村賢二郎 2018年1月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フス」の意味・わかりやすい解説

フス
Hus, Jan

[生]1370頃.ボヘミア,フシネツ
[没]1415.7.6. コンスタンツ
ボヘミアの神学者,宗教改革家。貧農の出で,1390年頃プラハ大学に入り,98年同大学教授,1401年同大学の哲学部長となり,同大学のチェコ化に尽力し,09年同大学総長となった。その間 02年に J.ミリチュの弟子たちが創立したプラハのベツレヘム礼拝堂の説教師となり,宗教改革,民族主義運動の指導的立場に立った。このため 10年破門され,ウィクリフの救霊予定説と民族自決の原理の放棄をコンスタンツの宗教会議で迫られたが拒否し,焚刑に処せられた。これがのちのフス戦争 (1419~36) の原因となった。フスには多数の宗教関係の著書があるが,チェコ語の正字法の改革,聖書のチェコ語訳の準備にも功績があり,民衆的な基盤に立つ宗教歌の導入にも功績があった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報