イギリス宗教改革の先駆者。オックスフォード大学に学び、同校で哲学、神学を講じた。反教皇政策をとる国王やジョン・オブ・ゴーントは、王権の優位を認めるウィクリフの利用価値を認めて保護し、1374年ブリュージュへ国王使節として教皇側との交渉に派遣。帰国後、ロンドンを中心に使徒的清貧を説き、民衆説教者としても名声を博した。教会の財産保有など現教会体制への批判を強めたため、1377年その言動がとがめられ、教皇グレゴリウス11世Gregorius Ⅺ(在位1370~1378)より、19か条に及ぶ「誤謬(ごびゅう)」の指弾を受けた。1378年教会分裂を機に教皇をアンチ・クリストと断定するまでに至る。弟子を「貧しき司祭」と称して各地に送り、民衆に福音(ふくいん)を伝え、聖書の英訳も手がけ、『教会論』De ecclesia(1379)、彼の学説の総決算『トリアログス』Trialogus(1383)を含む膨大な著作をまとめた。『聖餐(せいさん)論』De eucharistia(1381)で化体説を批判するに及び、異端的性格を明確にした。1382年、ブラックフライヤーズ教会会議Synod of Blackfriarsで、彼の主張の10か条が異端と断定される一方、前年の農民一揆(いっき)の理論的指導者ジョン・ボールとの関係が疑われ、政府高官からの保護も失い、同年ラタワースに隠棲(いんせい)。2年後の12月31日同所で死去。1415年コンスタンツ公会議での決定に基づき、1428年春彼の遺骸(いがい)は、焼かれるべく、墓より取り出され、その灰は近くのスウィフト川にまかれた。彼の教説は、イギリスではロラーズに受け継がれ、大陸ではプラハ大学のヨハン・フスの宗教思想の根幹に取り入れられるなど、それぞれの宗教改革の源流ともなっている。ウィクリフの写本が東欧で多数みいだせるのもそのためである。
[鈴木利章 2018年1月19日]
イギリスの神学者,宗教改革の先駆者。オックスフォード大学の神学者であったが,1374年エドワード3世のローマ教皇との外交交渉で次席代表を務め,初めて政界に出る。これに先立ち《命題集》(1373)を著し,教皇庁と教会に対するイングランド王権の財政上の自主権,教会に対する世俗権力の監督権を強調した。76年権力者の意をうけ,ロンドン市内で反政府的高位聖職者を俗事に汲々たる者として批判し,教会当局の忌諱にふれる。このころ主著《俗権論》(1376)を著し,神の恩寵のうちにない者にはいかなる権威も権力もないとし,さらに教会の首長たるローマ教皇の権威と権力を一般的に否定。教会財産の国庫への没収を教会純化の手段として是認した。翌年教皇庁はこの著書中の18の論点を誤謬として非難する。翌78年国家権力による教会の聖域侵犯事件に関し,議会で国家を擁護するため政府に起用される。以後ランカスター公の保護下に著作に専念し異端説を完成した。その核心は,聖体の秘跡についてのローマ教会の正統教義たる化体説を否定し(聖体論争),聖別されたパンとブドウ酒の性質はそれをうける者の信仰の状態によってきまると説く点にある。これは後のルターの立場に近い。また,聖書を唯一の権威として重要視し,聖書の英訳を提唱した。この聖書主義そして預定説も16世紀の新教主義の教義と共通しているが,ルター主義の特徴である信仰による義認の考え方は彼には欠けていた。81年ころ大学を去る。翌年イングランド教会は彼の教説24命題中10命題は異端,他は誤謬と判定する。平穏裏に生涯を終えたが,1414年コンスタンツ公会議は公式に彼を異端と宣告し,28年彼の墓は暴かれ,遺骸は焼きすてられた。ウィクリフは有能な論争家として,教会に対する世俗国家の優位を理論づけるために権力者に起用され,後に政治を離れてなお余勢を駆って独り教権との論争を続け,カトリック信仰の根幹を揺るがす理論を編み出した。彼の理論はロラード派の追随者を生み,ボヘミアのフスにも影響を与えた。
執筆者:城戸 毅
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1330頃~84
イングランドの初期宗教改革者。オクスフォード大学神学教授。カトリック教会を批判し,聖書主義を説き,化体説を否認,教会からのイングランドの政治・宗教的独立を主張,聖書の英訳を企て,宗教改革の先駆者となった。彼の説を奉ずる人びとがロラーズ運動を起こし,ボヘミアのフスに影響を与えた。彼の説は死後コンスタンツ教会会議で異端とされ,遺体は掘り出されて著書とともに焼かれた。
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…戦争は15世紀半ばまで断続的に継続する。この間イングランドでは14世紀半ば黒死病が流行して,全人口の約1/3ないし1/4の人命を奪い,さらに同世紀後半にはウィクリフの教会改革運動に起因する動揺やワット・タイラーの大農民一揆などがおこって,社会不安がいっそう増大した。1399年貴族間の争いの結果王位はランカスター家に移り,15世紀前半にはそのヘンリー5世がフランス王を称するなど,対フランス戦争は一時有利に展開したが,結局1453年カレーのみを残して大陸の領土のすべてを失うことによって百年戦争は終結した。…
…中世末期には世俗的権力としての皇帝や国王の力が増大し,地方領主の教会統治権が強化され,それが教皇権の集中に対抗して地方主義,国民主義を形成し,また宗教の内面化運動を起こしてきた。英国国教会のローマからの独立をはかったウィクリフの運動は,やがてボヘミアに移って大衆演説家フスを生み,彼が火刑に処せられたあとにチェコ兄弟団が結成されて,修道院と異なる新しい生活形態が始められた。兄弟団は各地にひろまり,少年期のルターを育てたのはマクデブルクの兄弟団であった。…
…当初はなんの拘束も受けなかったが,反フス派聖職者の暗躍があり,彼はすでに破門され聖務停止下にあるにもかかわらず枢機卿に討論を要求したという口実で,皇帝が到着する前に逮捕され修道院に監禁された。公会議は15年5月4日フスの私淑するウィクリフの著書,45命題およびすでにオックスフォード大学で有罪とされた267命題を改めて排斥したうえで,6月5日フスを公開裁判にかけ,彼の反化体説的聖餐論,ウィクリフ信奉,高位聖職者批判を撤回するよう要求し,彼が拒否するや異端として断罪した。皇帝ジギスムントはこの裁判に臨席して弁護の発言をしながら,その効果なくフスは7月6日火刑に処された。…
…しかもこの体制改革運動の背後には,俗権と教権の分離を唱える神学者オッカムらの新しい教会統治理念が働いていたが,カトリシズムの中心的な教義内容に対する批判にまで進むことはなかった。 第2は,〈宗教改革の先駆者〉と呼びならわされるウィクリフやフスの改革運動である。彼らは,教権と俗権の分離や教会統治体制の変革にとどまらず,神の掟としての聖書を中心に据え,それに根拠をもたない教会の慣行・教義を批判したため,異端の烙印を押された。…
…マナー制度はすでに解体に向かっていたが,おりしも1381年人頭税徴収を機にワット・タイラーの率いる大規模な農民一揆が発生し,彼らは多数の手工業者をも集めて労働者規制法に反対し農奴制廃止,取引の自由を主張して,領主館を襲撃し,マナーの記録集を焼却した。このころオックスフォード大学のウィクリフが教会の土地財産の蓄積を批判し,制度化されたローマ教会の改革を唱えて多くの共鳴者を得た。この運動を政治的に支援したのはエドワード3世の第4子ジョン・オブ・ゴーントであったが,彼の兄エドワード黒太子の子リチャード2世(在位1377‐99)の治世に至って専制政治に傾いたため,ジョンの子ヘンリーが反対して彼を廃位し,ここにプランタジネット朝は終幕,ランカスター朝が始まった。…
…イギリスの神学者で宗教改革の先駆者J.ウィクリフの追随者たち。原義は〈小声でつぶやく人々〉。…
※「ウィクリフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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