精選版 日本国語大辞典 「聖書」の意味・読み・例文・類語
せい‐しょ【聖書】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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キリスト教の正典。英語のバイブルBibleという語は、古代の紙の原料とされたパピルスの芯(しん)を意味するギリシア語のビブロスbiblosに由来する。このパピルスの巻物に文字を記したものをbiblionとよび、書物の意味となった。その複数形がラテン語化してbibliaとなり、とくに聖なる書物を表すようになったものである。
聖書には『旧約聖書』Old Testamentと『新約聖書』New Testamentがあるが、その「約」は、「契約」を意味する文字である。キリストの最後の晩餐(ばんさん)の場面には、十字架の血が、神と人間とのあいだの新しい契約となることが述べられている。
このキリストの新しい契約に関する書物を『新約聖書』とよび、ユダヤ教の経典であったものを救主(すくいぬし)キリストの準備の書として『旧約聖書』とし、あわせてキリスト教のカノン(正典)とした。
[赤司道雄]
「旧約」ということばはキリスト者のことばで、ユダヤ教徒は、これを内容に従って「タナッハ」Tanachとよぶ。「律法」Torah、「預言書」Nabi‘im、「諸書」Chethubimの頭文字をあわせたものである。
[赤司道雄]
『旧約聖書』各書の成立過程とその構成を知るには、歴史的背景の理解が必要である。
エジプトの奴隷であったヘブライ諸族は、紀元前13世紀、モーセに率いられてカナーンに解放の地を求め、エジプトを脱出する。この困難な事業を果たすため、モーセは、彼らの共通の祖アブラハム、イサク、ヤコブの神、ヤーウェを唯一の神として拝むこと、ヤーウェは彼らをとくに選んだ民イスラエルとして民祖への約束であるカナーンの地を与えることを説き、民族一神教と選民信仰の基礎を据えた。モーセは、ヨルダン川の対岸に南部最大のオアシスの町エリコを目前にして死ぬが、その遺志はヨシュアに受け継がれ、ヨルダン川を渡りカナーン征服に向かう。イスラエル十二支族は、それぞれの指導者である士師(しし)(裁き人)のもとに協力しながら原住民を征服し、カナーン全域を各支族に分けて定着していく。これが前12~前11世紀の士師時代である。
このころ、ペリシテが西岸から侵入し、カナーンはペリシテ人の地――パレスチナ――とよばれるようになる。これに対抗するため全支族を統率する王の出現が望まれ、十二支族の宗教連合はサウル王のもとに国家となる。
サウルは戦いに敗れ、在位11年で自決、王位はダビデに継がれる。前1000年ごろである。ダビデはペリシテ人を破り、全カナーンを征服して、ここにイスラエル統一王朝がなる。この安定したイスラエル王国を継いで内政・外交に手腕を発揮したのが、前960年ごろから40年間にわたって統治したソロモン王である。彼はエルサレムに神殿と王宮を建て、全国に堅固な要塞(ようさい)都市を建設する。
しかし、この2代のイスラエル黄金時代も、ソロモンの死後、王位継承争いにより南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂し、国力はしだいに弱まる。前721年アッシリアは北イスラエルを占領する。このアッシリアにかわって台頭したバビロニアは、前586年南ユダを滅ぼしてしまう。エルサレムは破壊され、多くのユダの民は捕らわれの身となり、バビロニアに連行される。これを「バビロン捕囚」とよび、イスラエル宗教史は大きな転換を遂げる。
前538年、バビロニアにかわって地中海世界に領土を広げたペルシアは、捕囚のユダヤ人を解放、帰国させる。前331年のペルシアの滅亡後も、ギリシア前期エジプトのプトレマイオス王朝はユダヤ教を保護する。しかし前202年以後シリアのセレウコス王朝はユダヤ教を迫害し、前160年ごろユダヤは独立戦争によりハスモン王朝を興す。しかし前63年にはローマに占領され、イエスの時代に至る。
[赤司道雄]
『旧約聖書』は律法、預言書、諸書よりなる。律法とは、『旧約聖書』の最初の五書「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数(みんすう)記」「申命(しんめい)記」のことである。「創世記」は、天地創造譚(たん)、アダムとイブ、カインとアベル、ノア、バベルの塔の伝説が記され、イスラエル民祖、12族長の物語などで構成されている。第二の「出エジプト記」から第五の「申命記」までは、モーセの出生から死までの間に、シナイ山その他で神からモーセを通じて与えられた律法が編纂(へんさん)されている。したがってこの五書は「モーセ五書」または「モーセの律法」といわれ、前400年ごろユダヤ教最初の経典(カノン)となった。
「創世記」「出エジプト記」の伝承は、おもに神名を、「ヤーウェ」とよぶ「ヤーウィスト」Jahwist(略号J)、「エロヒム」とよぶ「エロヒスト」Elohist(略号E)と名づけられる資料からなり、前者は前10世紀なかば、後者は前8世紀なかばに成立した。Jは民族信仰に貫かれ、Eはこれに倫理的宗教観が加味されている。「出エジプト記」20~23章にある「モーセの十戒」「契約の書」はEの作者の手になる。前621年ヨシア王により「申命記(申(かさ)ねての命令)法」Deuteronomium(D)が定められ、「申命記」5~25章、28章に置かれた。「レビ記」「民数記」は、前500年ごろ祭司によりまとめられた「祭司法典」Priester Kodex(P)で、この作者が律法全体の編纂者であり、五書各所に筆を施している。このように「律法」は、J、E、D、Pの四資料より構成されている。
預言書は前300年ごろまでに編集され、ユダヤ教第二の経典となった。「イザヤ」「エレミヤ」「エゼキエル」の三大預言書、「ホセア」以下12の小預言書と、この編集のときその前に置かれた「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」上下、「列王紀」上下の四書を前預言書とし、あわせて預言者の名で聖典とした。
預言者とは、イスラエルでは、神のことばを預(あず)かって民に伝える指導者で、モーセもサムエルもこうよばれた。この15の預言者は、そのことばが記録され聖書に収録されたもので、「記述的預言者」Canonical Prophetsとよばれる。アモスの出現は前760年ごろで、イスラエル、ユダの社会の乱れを鋭く批判し、神の懲罰を説いた。民族信仰が単純にヤーウェは民イスラエルを助けるとしたのに対し、神は義の神であるからその民も義の民でなければならないとし、神を拝する道は儀礼ではなく公正を世に行うことであると説いた。このように宗教に明確な倫理的性格を与えたのが、アモスに始まるホセア、ミカ、イザヤ、ゼパニヤ、エレミヤらの捕囚以前の預言者で、ユダヤ教の第二の特色となる。ナホム、ハバククの2人だけは民族信仰を鼓吹し、国際的危機にヤーウェの助けを預言した。
エゼキエルは捕囚前から捕囚にかけて預言し、アモスの系列にたちながらも、捕囚中はユダヤの民を励ました。捕囚は民族信仰を動揺させ、多くのユダヤ人はヤーウェの信仰を離れた。「イザヤ書」40~55章に収められた第二イザヤの預言は、慰めと励ましの預言であり、義の生活を保つことによってヤーウェの救いが約束されると説いた。そのなかに「苦難の僕(しもべ)の歌」といわれるものがあるが、民の苦難は贖罪(しょくざい)の苦悩であるとする思想によって、キリスト教では、キリストの預言とみられている。捕囚後の預言者ハガイ、ゼカリヤ、マラキは、捕囚後の新生ユダヤのなかにある社会悪を批判しながらも、エルサレムの復興を激励している。
前預言書のうち「ヨシュア記」は、モーセの後継者ヨシュアに古代の英雄物語をあわせたもので、この士師時代の歴史は、各支族の士師を中心とした記録を編集した「士師記」によるほうが確かである。「士師記」5章の「デボラの歌」は前1150年ごろの実際の戦闘の目撃者のつくった歌で、旧約最古の資料の一つである。「サムエル記」は、12支族の精神的指導者サムエルに油注がれて王となったサウルとダビデの物語、「列王紀」はソロモン以後の列王の記録である。ソロモン時代以後は王朝に書記局が設けられ、ダビデの言い伝えとともに歴史的信憑(しんぴょう)度は高い。この四つの歴史書は、「申命記法」をつくった学派の中の歴史家、「申命記」的歴史家Deuteronomistとよばれ、預言者の倫理性を受けた歴史観にたつ。
「諸書」とよばれる残りの書は、捕囚以後に成立したもので、神殿、会堂などで用いられてはいたが、ユダヤ教の正典とされるようになったのは紀元後のことである。日本語聖書の配列はユダヤ教の「律法」「預言書」「諸書」の順序とは異なる。これは、前3世紀のヘレニズム世界で、ヘブライ語聖書がギリシア語に翻訳されたときの順序に由来する。この訳は72人の学者によって行われたと伝えられ、『セプトゥアギンタ』Septuaginta(『七十人訳聖書』)とよばれた。これには、のちに正典から外された「旧約外典」「偽典」も含まれている。キリスト教会ではこの『セプトゥアギンタ』をもとにラテン訳『ブルガータ訳聖書』をつくり、それがキリスト教会の『旧約聖書』の配列を決定したのである。
捕囚以後のユダヤは、ペルシア、ギリシア初期のユダヤ教保護の政策のもとに宗教国家となり、祭司長を首長としながら発展した。先の「律法」「預言書」の編纂による正典の決定、多種にわたる宗教文書の成立にこれをみることができる。預言書といわれるもののなかにも「ヨエル書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ゼカリヤ書」などは文学的性格が強い。「ルツ記」は文学的な物語である。
「歴代誌」上下、「エズラ記」、「ネヘミヤ記」は、歴代誌記者Chroniclerとよばれる前4世紀の歴史家の一連の編著である。「歴代誌」は、捕囚前の歴史を改めて新しい歴史観で編集し直し、捕囚の終わりまでをつづる。歴代の王の事績は、神に忠実であったか、これに背(そむ)いたかという観点から懺悔(ざんげ)史的に回顧、反省されている。また、捕囚以後の平和主義、反戦主義的な立場は、ダビデの取り扱いによく表れている。このイスラエルの最大の王が神殿を建てなかったのは、多くの血を流したためであり、神殿は「平安と静穏」の時代の王ソロモンによって成る、とされている(上22章6~10)。エズラ、ネヘミヤは、前5世紀なかばにペルシアから帰国した文(ふみ)の学者と総督であり、この2人の手で組織教団としてのユダヤ教が成立する(前444)。2人のそれぞれの手記が「エズラ記」「ネヘミヤ記」に資料として用いられている。「ヨブ記」「箴言(しんげん)」「伝道の書」は「知恵文学」といわれる。捕囚以後のユダヤ教の中心は祭司であった。しかし彼らは貴族階級となり、民衆から離れていった。このときに一般信徒の知識階級から「知恵の教師」とよばれる人々が出て、神殿とは別に会堂を全国に建て、ユダヤ教一般民衆の指導者となった。ユダヤ教は一面では占領者の保護政策のもとに成熟期を迎えていた。しかしこの政策は、地中海世界のつねに動揺する国際状勢のもとで、ユダヤに平穏を保たせるためのものであった。異国の占領下、しかもユダヤを挟むペルシア、エジプト、ギリシアの対立下の軍隊の往来などで民衆の生活は圧迫され、信仰を離れ世俗化した人々が栄える反面、敬虔(けいけん)なユダヤ教徒は不遇に苦しんでいた。義(ただ)しい信仰者をなぜ神は苦しめるのか、こうした疑念がユダヤ教徒の心を覆っていた。「ヨブ記」は、「完(まった)く正しい」ヨブが受ける苦悩をテーマとする対話詩劇である。このスケプティシズム(懐疑主義)は、「空(くう)の空、空の空、いっさいは空である」ということばに始まる「伝道の書」で極端に達する。ユダヤ教、キリスト教の聖書には異質とも思えるペシミズム、ニヒリズムが、民衆の心をくもうとした1人の「知恵の教師」の手でこの文書をものしたのである。
「箴言」は、正しい敬虔な者が幸せを得るには、世の知恵、処世の道を知らなければならないとして、古今東西の格言を集め、「知恵」、慎み、たしなみを教えようとしたものである。「箴言」と「伝道の書」がソロモンの名を冠するのは、ソロモンが知恵の王とされ、人の知恵は神がソロモンを通じて与えたものという信仰による。
「詩篇(しへん)」は、「雅歌(がか)」「哀歌」とともに詩文学に数えられる、捕囚以後の多様な文学形式の一つである。詩150篇は、ペルシア時代からギリシア時代にわたり、捕囚以前から伝わる詩と新作の歌とをあわせて、3次にわたり編集され、ギリシア時代後期にモーセ五書に倣って五部にまとめられた。このなかにはダビデに帰せられるものが多いが、これはダビデが歌と音楽の王とされているからである。「詩篇」は神殿で聖歌隊によって歌われる賛歌であるが、ことに初期のものは、会堂内で歌われたものが神殿礼拝用に取り入れられたものが多い。第一次編集(3~41篇)には「嘆きの歌」といわれるものが多いが、これは「ヨブ記」に集約される義しく敬虔なユダヤ教庶民の苦しみを神に訴えるものである。第二次(42~89篇)、第三次(90~150篇)と編集が加えられるにしたがって、信頼・感謝の歌、預言者的・知恵文学的な歌の数が増える。これは、信徒の信仰の動揺を教え諭(さと)し、神への信頼を固めようとするユダヤ教の精神史の流れと一致する。「知恵の教師」は律法学者のグループを生み、彼らによって律法をたたえる律法主義的な歌がつくられるようになる。最終の編纂者は冒頭に律法主義の歌を置き、最終五篇をハレルヤ(ヤーウェをほめたたえよ)の詩で結んでいる。
「ダニエル書」は典型的な黙示文学である。旧約の預言者には終末における神の審判を説く傾向はあったが、それは来世観とは結び付かない。イスラエル思想は本来的に宗教史には珍しい現世主義である。しかし、ギリシア時代後期のセレウコス王朝によるユダヤ教の迫害は、教徒に平和主義を捨てさせると同時に、宗教思想のうえでも、ペルシア的な終末観の形成を助けた。すなわち、この世を悪の支配とみて、これが終わって新しい神の支配がくるという思想である。「ダニエル書」は『旧約聖書』の最後の書物で、前165年ごろセレウコス王朝の圧迫下にユダヤの救いを、終末観にたち、黙示文学の形で著したものである。黙示とは、神のひそかな啓示の意味で、時代をバビロニアおよびペルシアの時代にとり、義人にして賢者ダニエルへの黙示のなかに、夢の解明というような形で支配者の目を逃れながら、ユダヤ教徒の期待を表現しようとしたものであり、「ダニエル書」に初めて、きたるべき国の王メシアの姿が描かれている。黙示文学的表現は、『旧約聖書』のなかでは、ほかに「ゼカリヤ書」の後半加筆の部分、「ヨエル書」の加筆部分にみられる。旧約以後新約に至るまでの「旧約外典」「偽典」には多くの黙示文学がある。
[赤司道雄]
先に述べたように「新約」とは、イエス・キリストを通じての新しい契約である。この意味で『新約聖書』とは、キリスト(救主(すくいぬし))による人間の救済に関する書物である。だからここには、歴史上の人物であるイエスのことばや行いばかりでなく、それ以上に、救主(キリスト)あるいは救いということに関する信仰上の教えが記されているのである。
[赤司道雄]
イエスの言行を伝える書物は、『新約聖書』のなかでは、初めの四つの書物だけであるといえる。それは、救主であるイエスが人々にもたらした神の国の幸福の音信(いんしん)について記したということから「福音(ふくいん)書」とよばれる。このうち「マタイ伝福音書」「マルコ伝福音書」「ルカ伝福音書」は、「共観福音書」Synoptic Gospelsとよばれる。それは、共通の資料を用いて、ガリラヤを中心とする伝道からエルサレムでの死というイエスの生涯の流れを共通の視点から述べているからである。ただ福音書は伝記ではなく、イエスの言行をもとに、イエスがキリストであることを宣教する目的で著されたもので、それぞれ異なった立場で資料を取り扱っている。共観福音書は資料「原マルコ」Urmarkusが最古の「マルコ伝福音書」のもととなり、これがマタイにもルカにも取り入れられている。またマタイ、ルカには共通の原資料Quelle(福音書学では略称Q)と名づけられるイエスの語録があり、このほかマタイ、ルカにはそれぞれ特有のM、Lと名づけられた資料があり、4資料説といわれる。これらの資料が、マタイではユダヤ的立場から、ルカではヘレニズム的解釈によって編纂(へんさん)されている。さらに前出の四資料のもとには、イエスの直弟子から伝わった口伝資料が推定される。これをそれぞれの「生活の座」Sitz im Lebenに基づく説話の様式から史的に分析する様式史的研究Formgeschichteが、20世紀に福音書研究を一歩前進させた。
「ヨハネ伝福音書」は、共観福音書が紀元60~70年に著されたのに対して、キリスト教がヨーロッパにも根を下ろし、教会制度が整備され始めた2世紀の初めに著されたものである。初代教会の指導者長老のヨハネは、共観福音書と、師のイエスの直弟子ヨハネのことばをもとに、イエスの活動を編んだが、その基礎には神の化肉としての神の子キリストによる永遠の生命の信仰がある。いわば初代教会の神学を説いたものともいえる。
「使徒行伝」は、「ルカ伝福音書」の著者によって、イエスの使徒の伝道が記録されたものである。ルカはパウロと伝道旅行をともにした人で、この書の後半は、彼が目撃し、あるいは本人から直接に聞いたパウロの事績が生々しい筆で報告されている。前半は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを中心に初代パレスチナ教団の伝道が語られているが、間接の伝聞によるこの部分には、「霊の感化」というような信仰的色彩が強い。
[赤司道雄]
パウロは小アジアのタルソの生まれで、ローマの市民権をもち、ヘレニズム的教養を身につけていた。しかし彼はユダヤ教徒としてパリサイ派に属し、律法を冒涜(ぼうとく)すると考えられていたキリスト教徒迫害の先鋒(せんぽう)でもあった。彼はイエスの幻に触れて回心し、その後は小アジアからヨーロッパにかけての異邦人伝道に身を捧(ささ)げ、3次にわたる迫害下の伝道によりキリスト教を地中海世界の世界宗教に発展させた。彼が伝道先のキリスト者にあてた手紙として、13の書簡が彼の名のもとに『新約聖書』に収められている。このうち、四大書簡とよばれる「ロマ書」「コリント書(第一・第二の手紙)」「ガラテヤ書」のほか「テサロニケ書(第一の手紙)」「ピリピ書」「コロサイ書」「ピレモン書」が明らかに真正のパウロの作とされている。「エペソ書」と「テサロニケ書(第二の手紙)」には疑いの余地があり、「ヘブル書」は明らかにパウロとは思想を著しく異にする人物の手になる。これらのうち、「エペソ書」「ピリピ書」「コロサイ書」「ピレモン書」は「獄中書簡」とよばれる。パウロの手紙のうち最古のものは「テサロニケ人への第一の手紙」で、福音書より古く、パウロ伝道の初期、紀元50年ごろのものである。
[赤司道雄]
「テモテへの第一・第二の手紙」「テトスへの手紙」の三つは、18世紀以来「牧会書簡」Pastoral Epistlesとよばれるようになった。集会の秩序に関する訓戒を主題にしているからである。これらはテモテ、テトスというパウロと伝道をともにした個人あてになっている。これらがパウロの真正の手紙かどうかは多くの疑点が残る。しかしいずれにもせよ、ほかのパウロの書簡より後の作であることは確かである。
[赤司道雄]
「公同書簡」Catholic Epistlesと4世紀ごろからよばれ、個々の教会あてでなく、多くの教会あてになっているのは、「ヤコブの手紙」「ペテロの第一・第二の手紙」「ヨハネの第一・第二・第三の手紙」「ユダの手紙」の七つの書簡である。これらはイエスの直弟子とヤコブの兄弟ユダの名を冠しているが、その信憑(しんぴょう)性は疑わしい。しかし、これらによって、1世紀末から2世紀にかけての初代キリスト教団の展開、初期キリスト教の思想的発展が知られるため貴重な資料である。
「ヨハネの第一・第二・第三の手紙」は、「ヨハネによる福音書」の記者、長老のヨハネか、あるいは彼とともに使徒ヨハネの兄弟弟子であった者の手になるものと考えられる。ここには、キリストの贖罪(しょくざい)と、神の子キリストに表された父なる神の愛とが結び付けられ、以後のキリスト教の中心思想が、すでにこの時代にその萌芽(ほうが)を表していることをうかがわせる。
[赤司道雄]
黙示文学は、『旧約聖書』の「ダニエル書」以後、「旧約外典」「偽典」に多くみられる。異邦の圧迫下に、比喩(ひゆ)的、幻想的な表現で、ユダヤ教徒の救済の願いを込めて著されたものである。キリスト教が1世紀末からローマの迫害にあったとき、この形式を取り入れ、神よりの謎(なぞ)の啓示の形で「ヨハネ黙示録」が著された。終末の日のキリスト再臨のさまを描いたものである。後のキリスト教の再臨信仰の根拠となった。
[赤司道雄]
現在の形の『新約聖書』が正典として成立したのは、4世紀のアタナシウス(296ころ―373)によってである。しかし、すでに2世紀の終わりには、四つの福音書の権威が確立していたことが教父たちの著作で明らかである。また『ムラトリ断片』Muratorian Canonには、200年ごろローマ教会で用いられた聖書のリストがある。このなかには四福音書、「使徒行伝」「13のパウロの書簡」「ユダの手紙」「ヨハネの第一・第二の手紙」「ヨハネ黙示録」が収められている。
[赤司道雄]
『旧約聖書』は、一部アラム語の部分を除いてヘブライ語が原文である。原文は子音だけで書かれていたが、ヘブライ語が死語となったのちは、その本文を伝承により正確に伝えようとするマソラ(伝承の意)学者によって母音記号がつけられた。現存のマソラ写本の最古のものは紀元9世紀のものであるが、1947年から数次にわたり死海の西海岸で発見された「死海文書」には紀元前3世紀なかばから紀元1世紀のものが含まれる。
『旧約聖書』は、ローマ教会でギリシア語訳『セプトゥアギンタ』をもとにしてラテン訳されたが、紀元405年ヘブライ語写本に基づく改訂訳が完成した。
『新約聖書』各書の原文はギリシア語であるが、原本は残っていない。伝えられた多くの写本をもとに、古代訳、教父の引用などを参照しながら、原本の復原作業が長い教会の歴史のなかで続けられ、今日に至る。現在一般に普及しているのは、ネストレ‐アーラント版(25版・1963)、タスカー版(1964)などである。
ギリシア語写本は断片を含め5000以上あるが、パピルス写本、大文字写本、小文字写本に分けられる。パピルス写本の最古のものは紀元125年の「ライランズ・パピルス457」である。パピルス写本の多くは断片であるが、「チェスター・ビーティ・パピリ」「ボードマ・パピリ」など長文のものもある。大文字写本は4世紀から10世紀にわたり、このなかに主要な「シナイ写本」「バチカン写本」「エフライム写本」「ベザ写本」などがある。
『新約聖書』は4世紀末にギリシア語写本からラテン訳され、旧約とあわせ「ブルガータ」(ラテン語ウルグスは「日常の」の意)とよばれた。中世のカトリック教会は各国語訳を許さなかったが、ルターによる旧約・新約の原語からのドイツ語訳以来、プロテスタント各国では自国語訳で信徒は直接聖書を読むことができるようになった。
最初の日本語訳聖書は、キリシタン禁制時代のギュツラフによる『約翰福音(ヨハネふくいん)之伝』である。当時彼はマカオにいたが、漂流の3人の日本人の助けで聖書を和訳し、1837年シンガポールで出版した。その後も宣教師たちによる部分訳が続いたが、1872年(明治5)各派合同の宣教師会議で『新約聖書』共同訳を決議し、75年から分冊出版を行い、79年全冊が完成した。『旧約聖書』も82年から分冊出版が始まり、88年に完成した。和訳は、すでに中国で出版されていた漢訳を参照したため漢語的表現が多く、今日の口語訳にもなお「申命(しんめい)記」「燔祭(はんさい)」など多くの漢語が残っている。
1906年(明治39)に福音同盟会は改訳を決議し、改訳委員会の手で17年(大正6)、いわゆる「大正訳文語聖書」が完成出版された。これはのちに口語訳ができるまで諸教会、一般人に広く読まれ、口語訳出版後もその名文を好む人は後を断たず、今日も日本聖書協会で出版を続けている。
口語訳は第二次世界大戦後に、新仮名づかい、当用漢字中心による現代語聖書の要請により、1951年(昭和26)から日本聖書協会によって着手された。また戦時中に文語旧約聖書改訂の試みがなされていたが、これを口語訳に切り替え、新約とともに口語訳委員会の手で進められ、54年に新約が、翌55年に旧約が完成した。これらのプロテスタント・聖公会共同の口語訳とは別に、福音派による『改訂訳聖書』が70年に出版された。
カトリック教会では、1910年ラゲE. Raguetの手で新約の口語訳が、また戦後バルバロF. Barbaroによって1964年新約・旧約の口語訳が完成、出版されている。
この間、多くの聖書学者による個人訳が出版されている。キリスト教会のエキュメニズムの風潮は、カトリック、プロテスタントの共同訳聖書の事業を促し、1979年には『新約聖書』共同訳が完成、出版された。現在『旧約聖書』の共同訳も進められている。
[赤司道雄]
『斎藤勇著『文学としての聖書』(1944・研究社)』▽『関根正雄著『旧約聖書』(1949・東京創元新社)』▽『前田護郎著『新約聖書概説』(1956・岩波書店)』▽『馬場嘉市編『新聖書大辞典』改訂版(1979・キリスト新聞社)』▽『浜島敏著『聖書翻訳の歴史 英訳聖書を中心に』(2003・創言社)』▽『富岡幸一郎著『聖書をひらく』(2004・編書房)』▽『クリストフ・レヴィン著、山我哲雄訳『旧約聖書――歴史・文学・宗教』(2004・教文館)』▽『原口尚彰著『新約聖書概説』(2004・教文館)』▽『クリストファー・ド・ハメル著、朝倉文市監訳、川野美也子・馬場幸栄・横山竹巳訳『聖書の歴史図鑑 書物としての聖書の歴史』(2004・東洋書林)』▽『『聖書』『新約聖書 共同訳』(日本聖書協会)』▽『小塩力著『聖書入門』(岩波新書)』▽『赤司道雄著『聖書』(中公新書)』▽『山我哲雄著『聖書時代史――旧約篇』(岩波現代文庫)』▽『R. PfeifferIntroduction to the Old Testament, 2nd ed.(1948, New York)』▽『A. H. McNeileAn Introduction to the Study of the New Testament, 2nd ed.(1953, Oxford University Press)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ローマ・カトリック教会の標準ラテン語訳聖書。vulgataとはeditio vulgata(共通訳)の略。…
…旧約聖書という名称は,ユダヤ教の正典を自己の正典の一部としたキリスト教における名称である。キリスト教会は,福音書や使徒の書簡などを,キリストによる新しい救いの契約の書,すなわち新約聖書としてまとめるようになると,2世紀末ころからユダヤ教の聖書を,イエス・キリストを預言した古い契約の書,すなわち旧約聖書と名づけて,両者の区別をはかった。…
…しかし,われわれが現在何の抵抗も感じないで使っている言葉のなかには〈世俗化〉されたキリスト教の用語が多くふくまれている。代表的なものとして〈十字架〉〈復活〉〈福音〉〈バイブル(聖書)〉〈三位一体〉〈洗礼〉〈終末〉〈天国〉などを挙げることができよう。これらの言葉がしばしばキリスト教的起源をはっきり意識しないで用いられている事実(たとえば苦痛や犠牲を〈十字架〉,必読書を〈バイブル〉などと比喩的に呼ぶ場合)は,ある意味でキリスト教の土着化のしるしとみなされよう。…
※「聖書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
[1864~1915]ドイツの精神医学者。クレペリンのもとで研究に従事。1906年、記憶障害に始まって認知機能が急速に低下し、発症から約10年で死亡に至った50代女性患者の症例を報告。クレペリンによっ...
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