ジュネーブ(その他表記)Genève

精選版 日本国語大辞典 「ジュネーブ」の意味・読み・例文・類語

ジュネーブ

  1. ( Genève ) スイス南西端の都市。レマン湖から流れ出るローヌ川の流出口にある。国連ヨーロッパ本部(旧国際連盟事務局)、国際赤十字社本部、国際労働機関本部などがある。スイスの金融業の一中心で、商工業もさかん。

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改訂新版 世界大百科事典 「ジュネーブ」の意味・わかりやすい解説

ジュネーブ
Genève

スイス連邦を構成するカントン(州),およびその州都名。英語ではジェニーバGeneva,ドイツ語ではゲンフGenfと呼ぶ。都市域人口は48万(2004)。スイス南西部,レマン湖からローヌ川が流れ出る交通の要所にある。紀元前からすでにケルト系部族アロブロゲスがここに城塞都市を作っていたが,前120年以降ローマに服従した。ローマ帝政下でもジュネーブは都市として栄えた。ゲルマン大移動のおりには繰り返し攻撃を受け,繁栄を失っていった。その間,400年ころより司教が居住する都市となった。古ブルグント王国(443ころ-534)時代には一時首都となり,フランク王国(534-888)支配下にはカール大帝がこの地に集会を催し,ジュネーブの重要性を増した。フランク王国の分裂後,新ブルグント王国(888-1032)がこの地の支配者となったが,在地の封建貴族(特にジュネーブ伯)を押さえるためにジュネーブ司教を保護し,司教に都市支配にかかわる特権を付与した。神聖ローマ帝国の支配下に入っても,諸皇帝は司教保護政策を続けた。このため,都市支配をめぐってジュネーブ伯と司教は長期にわたって争い続けたが,1124年,ビエンヌ大司教の調停によって司教が都市領主として正式に君臨することになった。

 13世紀後半以降になるとサボイア家がジュネーブに支配の足場を築き始め,今度はサボイア家と都市君主たる司教および在地貴族の闘争が展開された。この闘争の間隙をぬって市民もしだいに自治体制を築いていった。1124年の調停協定の中でジュネーブ市民という表現が見いだされ,1206年にはジュネーブ伯の攻撃に対して市民がサボイア家に援助を求めており,外に向かっても政治的行動をするようになっていた。13世紀後半には,司教,伯,サボイア家の抗争の中で市民共同体が一定の役割を演ずるようになり,このころには政治的,軍事的性格を確保した。1387年に司教は都市に〈自由特許状〉を付与し,それまで市民が事実上獲得,行使していた権限(自治権)を承認した。他方,サボイア家は1401年ジュネーブ伯の所領を継承し,16年公国に昇格した。都市周辺がすべてサボイア家の所領となり,これ以降は都市とサボイア家が主要な対抗軸を形成した。サボイア家は自家の出身者を司教の地位に相次いで就け,都市の自治を脅かした。16世紀初頭,都市と司教・サボイア家の対立は頂点に達した。司教ピエール・ド・ラ・ボームが1533年都市支配権をサボイア家に譲り渡そうとしたとき,市民は司教を都市から追放し,事実上独立を勝ち取った。この独立闘争には,1526年以来同盟関係にあったスイス盟約者団諸都市のベルンフリブールの強力な支援があった。

 宗教改革は,司教がジュネーブを捨て,サボイア家と結託してジュネーブに対峙する政治状況の中で導入された。1534年ベルンの強力なてこ入れで宗教改革者G.ファレルが送り込まれ,次いで36年カルバンの登場とともに宗教改革は政治革命と手を携えて進展を見た。一時,カルバンは追放されたが,41年再び都市内の地位を確立し,ジュネーブをプロテスタントの本山にすることに成功した。その後,13のカントン(州)が同盟するスイス盟約者団に正式加入を希望したが,カトリック諸州の反対で実現せず,ベルンとチューリヒとの同盟(1584)を柱に自己の政治的立場を保持する道を選んだ。1602年サボイア家による奇襲攻撃(エスカラド)を切り抜け,03年サン・ジュリアンの平和協定によりサボイア家より独立を法的に承認された。17世紀以降ジュネーブは貴族寡頭政となったが,フランス革命の波をもろにかぶり1798年にはフランスに併合され,ジュネーブはレマン州の州都となった。1815年のウィーンおよびパリ会議ではピクテ・ド・ロシュモンらの活躍によって領土的に拡大されて独立を認められ,22番目のカントンとしてスイス盟約者団への加入を正式に承認された。

 19世紀後半からジュネーブは経済的,政治的,文化的に急速な発展を見る。18世紀にはすでに銀行業で名を成し,フランスと濃密な関係をもったジュネーブの銀行家は〈フランス国王の銀行家〉と称されていた。19世紀初めにかけて多数の個人銀行が開設されたが,1857年に公共の証券取引所も開設され,ヨーロッパ金融業の一大中心地となった。同時に,政治的にも国際的な檜舞台となった。その端緒は64年に結ばれた〈戦地軍隊における傷病者の状態の改善に関するジュネーブ条約〉に基づいて国際赤十字社がジュネーブに設置されたことである。第1次大戦後にはベルサイユ条約によって国際連盟の本部がパレ・デ・ナシヨンに置かれた。

 現在,スイスは国際連合に加盟していないが,国連のヨーロッパ本部は国際連盟本部跡に置かれている。その他,ILO(国際労働機関)本部を初め国連の専門機関や国際機関が多数ジュネーブには設置されている。ジュネーブ大学は,1559年カルバンが創設したアカデミーを母体とし,1872年医学部の創設とともに大学になり,文化的中心となっている。この大学は1981年現在約1万の学生数を抱えているが,その35%は外国人である。教授陣も35%以上が外国人で,大学も国際都市にふさわしく,国際化している。また,ジュネーブは観光都市としても国際的に一級で,モン・ブラン山やジュラ山脈一帯への観光拠点となっている。産業では,とくに精密機械・時計製造は古い歴史をもち,現在でも主要な位置をしめている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジュネーブ」の意味・わかりやすい解説

ジュネーブ
じゅねーぶ
Genève

スイス南西部の都市。チューリヒに次ぐ同国第二の大都市で、同名の小州ジュネーブ州の州都。英語名ジェニーバGeneva、ドイツ語名ゲンフGenf。人口17万5998(2001)。スイス南西端のレマン湖(ジュネーブ湖)からローヌ川が流出する地点の両岸に位置する。北西にはジュラ山脈、南東にはアルプスの山地を望む谷間にあり、フランスとの国境に近い。そのため、フランス風の思考・生活様式の影響を受け、「スイスのパリ」ともよばれる。住民の7割はフランス語を話し、プロテスタントとカトリック教徒の数は相なかばする。湖岸集落の起源は旧石器時代にさかのぼるが、都市としての発展は16世紀の宗教改革者J・カルバンに負うところが大で、ヨーロッパの宗教改革の中心地、さらにはプロテスタンティズムの世界的な中心都市となった。18世紀のルソーによる哲学・教育学、H・B・ド・ソシュールなどによる自然科学研究の活況が、現在のこの都市の学術・文化の基礎となった。この町出身のデュナンが創設した赤十字の国際委員会の所在地であり、第一次世界大戦後に国際連盟が置かれたパレ・デ・ナシオンは、現在国連ヨーロッパ本部となっている。そのほか、国際労働機関、世界保健機関、世界気象機関をはじめ多くの国際的な機関がある国際都市で、国際会議が頻繁に開催され、市内に住む外国人の数は人口の37.6%を占める。

 16~17世紀にフランスからの宗教難民が入り込み、彼らがもつ時計製造の技術がここに時計工業をおこし、スイスの代表的な工業とした。19世紀末まで盛んであった繊維工業にかわって、現在は機械工業(タービン、機関車、ミシンなど)、精密機器製造業、化学工業などが盛んである。伝統的な装身具製造もいまに残っている。また、スイス南西の玄関として、商業・貿易の中心としての機能も備えている。各種見本市が開かれるが、なかでも毎年の自動車見本市は有名である。スイスのフランス語圏最古のジュネーブ大学(1559年アカデミーとして創設、1873年大学となる)には、国内のドイツ語圏からも在学する学生が多い。ヨーロッパ共同原子核研究所(CERN)には、世界中から研究者が集まる。市街はローヌ川により二分され、左岸の丘陵部に旧市街がある。その象徴はサン・ピエール大聖堂で、ほかに宗教改革記念碑、大学、美術歴史博物館、市庁舎などがあり、これらを含む旧市街には古い趣(おもむき)のある建物が並ぶ。右岸は新市街で、駅や郵便局があり、住宅地がここから広がっている。湖岸や市中に美しい庭園があり、アルプスの名山モンブランを遠望できるこの町は、スイスでもっとも美しい都市といわれる。

 ジュネーブ州は1815年に連邦に最後に加盟した州で、面積282平方キロメートル、人口41万4300(2001)。ジュネーブ市域を中心に、フランスへの穀物、野菜、果物などを供給する農業地域がその周辺を取り巻く。

[前島郁雄]

歴史

ローヌ川、レマン湖を利用した水上交易、および陸上交通の拠点として、ローマ帝政時代より栄えた。400年ごろより司教所在地となる。カロリング帝国の崩壊後、ブルグント王国、ついで1032年以降神聖ローマ帝国に属したが、都市支配権をめぐって在地の領主ジュネーブ伯と司教は長期間争った。1124年の協定により、初めて司教が都市領主として正式に君臨することになった。13世紀後半以降になるとサボイア家がジュネーブに支配の足場を築き始め、今度はサボイア家と都市君主たる司教の闘争が展開された。この間、司教は1387年に「自由特許状」をジュネーブに与えている。15世紀初頭には、市参事会の存在も確認される。一方、サボイア家は都市周辺の土地を支配下に収め、司教の地位にも同家の出身者を多数つけるようになり、都市の自治を脅かした。1533年司教は都市ジュネーブの支配権をサボイア家に譲り渡そうとしたので、市民は司教を都市から追放した。この独立闘争には、1526年以来同盟関係にあったベルンとフリブールの後押しがあった。1536年以降のファレルとカルバンによる宗教改革の導入は、司教からの政治的、教会的自立を完成させる役割も負うことになった。しかし、新教派都市となったジュネーブは、スイスのカトリック諸州の強い反対でスイス連邦に加入することはできなかった。17世紀初頭サボイア家は巻き返しの奇襲に失敗して、正式に都市共和国ジュネーブの独立を認めた。ジュネーブがスイス連邦に加入したのはナポレオン体制崩壊後の1815年である。

[森田安一]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジュネーブ」の意味・わかりやすい解説

ジュネーブ
Genève

ドイツ語ではゲンフ Genf。スイス南西端,ジュネーブ州の州都。レマン湖 (ジュネーブ湖) 南西端から流出するローヌ川の河谷に位置する。ローマ時代にはすでにガリア人の城塞町として知られていたが,ローマ帝国,ブルグンド王国などの支配を経て,14世紀中頃からはほぼ 3世紀にわたって,自治権の拡大を求める市民勢力とこれを圧迫するサボイア家との抗争の場となった。宗教改革の時代にはカルバンの神権政治が行われてプロテスタントの拠点となり,フランス革命時には一時フランスに併合,ナポレオン失脚後に独立を回復して 1815年スイス連邦の一州となった。中立国スイスの都市として,1864年以降国際赤十字本部が,第1次世界大戦後は国際連盟本部,国際労働機関 ILO事務局が置かれ,現在も国際連合ヨーロッパ本部,ILO,世界保健機関 WHOなど多くの国際機関の本部が置かれているほか,重要な国際会議も多く開かれている。フランスとスイス各地を結ぶ鉄道の結節点で,郊外には国際空港もある。大都市圏を形成し,観光都市であると同時に,時計,医療機器,精密工作機械などを生産する工業都市,金融,宝石取引などの国際的中心地でもある。人口 17万8603 (2007推計) 。

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百科事典マイペディア 「ジュネーブ」の意味・わかりやすい解説

ジュネーブ

ドイツ名はゲンフGenf。スイス西端,ジュネーブ州の州都。レマン湖からローヌ川の流出する地点に位置する国際的都市。フランス語地域の精神的中心。国際赤十字,ILO,世界保健機関などの本部所在地で,国際連合ヨーロッパ本部が置かれているパレ・デ・ナシヨンがある。金融,商業の中心。工業は時計,精密機械,アクセサリーなど。公園の多い美しい町で,モン・ブラン山の景観に恵まれ,観光地としても著名。12―14世紀の聖堂,15―16世紀の市庁,大学(1559年創立),図書館,美術館などがある。古代ケルト人の町であったが,1世紀にローマ植民市となった。16世紀にはカルバン派の本拠地であった。1815年スイス連邦加盟。19世紀後半以降,急速に発展。18万8200人(2011)。

ジュネーブ[湖]【ジュネーブ】

レマン[湖]

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世界大百科事典(旧版)内のジュネーブの言及

【レマン[湖]】より

…スイス南西部にあり,フランスとの国境をなすアルプス地方最大の湖。ジュネーブ湖とも呼ばれる。面積581.5km2で,この約40%がフランスに属する。…

※「ジュネーブ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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