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一色詮範 いっしき あきのり

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

一色詮範 いっしき-あきのり

?-1406 南北朝-室町時代の武将。
一色範光(のりみつ)の子。永徳元=弘和(こうわ)元年侍所頭人(さむらいどころとうにん)。嘉慶(かきょう)2=元中5年父の跡をつぎ三河(愛知県),若狭(わかさ)(福井県)の守護となる。明徳2=元中8年尾張(おわり)(愛知県)知多郡の守護もかね,山名氏清らのおこした反乱(明徳の乱)を鎮圧,将軍足利義満より若狭今富名(いまとみみょう)をあたえられる。応永6年堺で大内弘茂を討った。応永13年6月7日死去。法名は信将。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

一色詮範

没年:応永13.6.7(1406.6.22)
生年:生年不詳
室町時代の武将。範光の子。兵部少輔,右馬頭, 左京大夫。嘉慶1/元中4(1387)年,父の死後若狭(福井県)・三河(愛知県)両国守護職を継ぎ,のちには尾張(愛知県)智多・海東両郡守護職をも兼ねる。2度侍所頭人を務める。山名氏清が幕府に反した明徳2/元中8年の明徳の乱では子の満範と共に氏清の首を取る戦功をあげ,自らは山名遺領のうち小浜を含む若狭国今富名を,満範は丹後(京都府)守護職を得た。明徳4年以降3度にわたって将軍足利義満を天橋立(宮津市)と小浜に迎え,応永2(1395)年義満に従って出家,信将と称した。死後は尾張長慶寺(跡地は知多市)に葬られたものと思われる。<参考文献>『小浜市史/通史編』上

(河村昭一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の一色詮範の言及

【一色氏】より

…清和源氏。足利氏の支族。足利泰氏の子公深阿闍梨が三河国吉良荘一色(現,愛知県幡豆郡一色(いしき)町)を所領とし一色氏をおこす。公深の子一色範氏は1336年(延元1∥建武3)足利尊氏の命により九州にとどまり,軍事指揮,行賞・訴訟の注進・実施などの権限を行使し,初代の鎮西管領(のち九州探題)となった。やがてその子直氏が代わって鎮西管領となり,範氏はこれを後見したが,九州諸豪族の抵抗が強く,父子は足利直冬党・南朝方と鼎立した末,南朝方菊池氏に敗れて56年(正平11∥延文1)から翌々年にかけて父子あいついで九州を退去して帰京した。…

【尾張国】より

…明徳の乱(1391)による土岐氏の失脚後,守護職には畠山基国,今川仲秋,同法珍らが任ぜられたがいずれも短期間で交代し,14世紀末の約10年間,国内には混乱が続いた。この時期,おそくも1391年(元中8∥明徳2)には,知多(智多)郡が尾張守護の管轄からはずされ三河守護一色詮範の下におかれた。また海東郡も同じころ分割され,山名某,結城満藤を経て94年(応永1)には同人の管轄下に入っている。…

【若狭国】より

…旧国名。若州。現在の福井県南西部。
【古代】
 北陸道に属する中国(《延喜式》)。北陸道のうち,もっとも畿内に近い国。遠敷(おにゆう),三方(みかた),大飯(おおい)の3郡からなる。このうち大飯郡は825年(天長2)遠敷郡から分立して成立した。国司は守1人,掾1人,目(さかん)1人,史生3人からなる。国府の推定地は遠敷郡(現,小浜市内)。《延喜式》では,調としてアワビ,イカ,イリコ,スシ,イカイ,ホヤマゼズシ,カセ,ノリ,シオなどをおさめることになっていた。…

※「一色詮範」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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