漆工芸の加飾技法の一つ。漆面に小刀で線彫りし,彫溝に金箔を付着させて文様を表したもの。近代では金箔のかわりに金泥や色粉も用いられる。〈沈金〉は和名で,中国明代の書《髹飾録(きゆうしよくろく)》には〈鎗金 鎗或作戧 或作創 一名鏤金〉とあり,中国では一般に鎗金(そうきん)または戧金(そうきん)という。14世紀にはすでにつくられ,存星(ぞんせい)や東南アジアで発達した蒟醬(きんま)の母体となった技法である。朝鮮半島の楽浪郡遺址出土品中に,金箔を施さないが細い引っかき線で文様を表したものがあるが,それとの関連は不明である。明代の書《新増格古要論》には〈元朝初嘉興府西塘有彭君宝者甚得名 戧〉とあり,今の浙江省嘉興の地に彭君宝という鎗金の名工がいたことを記しているが,その作と断定できる作品は伝わっていない。鎗金の現存最古の遺品は元代の延祐2年(1315)銘の孔雀鎗金経箱である。蓋に大きな面取りをもつ特徴的な型をもち,これとほぼ同じつくりの経箱が日本には8合のこされ,そのうちの5合に年号,生産地などが黒漆で押印されている。そのうち福岡誓願寺や広島光明坊の蔵品には蓋裏に〈延祐二年 棟梁禅正 杭州油局 橋金家造〉とあり,広島浄土寺蔵品には〈延祐二年 棟梁禅正 明慶寺前 宋家造〉と,ほぼ同文同巧の銘文が記されている。明慶寺は杭州城内の巨刹であり,前記の嘉興と杭州は地理的に近く,当時この地方が漆器の産地であったことは疑いない。
15世紀に降っても沈金は隆盛したが,紀年銘を有する遺品が少なく,この時代の傾向をはっきり把握できない。在銘の作品としてはアーサー・サックラー・コレクションの〈大明嘉靖年製 六層〉の銘をもつ花鳥鎗金盆が唯一のものとされる。一方,この時期に日本に明の鎗金が多数将来されたことが文献で知られる。例えば1406年(永楽4)と07年にかけ明の成祖は足利義持に和寇鎮撫の功を賞し多数の珍物を贈ったが,そのうちには〈硃紅漆戧金彩粧五山屛風帳架一帳〉その他4点の鎗金が含まれていた。また1433年(宣徳8)に宣宗が足利義教夫妻に贈った品々のうちに〈硃紅漆粧戧金轎一乗〉ほか数品があり,当時朱塗りが好まれそして多数生産されていたことがうかがえる。残念ながらこれらの作品は伝えられていない。
中国鎗金の日本への舶載は上述の1406年をさかのぼることは確かで,先にあげた浄土寺経箱の身底には,朱漆で〈備後国尾道浄土寺㝡勝王経箱也 延文三年六月 日〉と記され,製作時(1315)より43年後の1358年(延文3)には日本にあったことを明示している。中国の鎗金が日本でいつごろから沈金と呼ばれたのかは興味ある問題であるが,《看聞日記》応永28年(1421)12月25日の条には〈香箱一 沈金〉,《蔭涼軒日録》にも〈箱朱而有竜文沈金〉などとあり,宣宗が硃紅塗鎗金を足利幕府に送り届けたころ,すでに日本での呼称が確立していたことは留意すべきであろう。当時における鎗金への関心の高まりは日本の漆芸にも当然影響を及ぼし,日本的趣向が若干加味された作品がつくられだした。これらの中には獅子牡丹沈金太刀拵(こしらえ)のような強弱の筆意鋭い作品ものこるが,一般には運刀に変化がなく熟達した力強さに欠ける遺品が多く,15~16世紀の沈金は技法的にまだ日本漆芸のうちで確実に根づいていなかったようである。
技法が水準に達したのはやはり江戸時代である。輪島(石川),川連(かわつら)(秋田),会津若松(福島),平沢(長野),河和田(かわだ)(福井),那覇(沖縄)などの産地で盛業したのは18世紀末からであろう。特に《琉球漆器考》には1747年(延享4)製の沈金重箱以下多数の遺品が記録されており,沖縄で非常に盛んに沈金がつくられていたことが知られる。しかし現存の沖縄製と思われる漆器(すぐれた沈金も多い)で製作年代が明らかなものは見つかっていない。
沈金の一般的技法は次の通りである。漆面に下図を写し,図に従って輪郭線を彫り,細部はフリーハンドで仕上げる。辺漆(のべうるし)(生漆)を綿につけ文様の部分に摺漆し,余分の漆は紙でふきとる。文様全体に金箔を押し,線内によく落としこむ。すぐに文様以外の金箔は和紙でこすりとる。金泥を用いる場合は真綿につけてすり込み,色粉などを併用することも多い。金箔の際は彫りを浅くし,金泥の場合は彫りは深くともよい。また沈金を施す時期は塗漆直後より少し日数を経たものがよく,彫りごろは技法で異なる。刀には丸のみ,片切,こすりのみ,錐状のみなどが一般的であるが,会津若松のぜんまいのみ,川連のかんな(鉤形の刀)など地方独特のものもある。
14~15世紀の鎗金の彫法は丸刀による線彫りですべて表現しており,点彫りなどは例外的にしか見られない。近代では,基本となる丸刀による線彫りのほかに,ぼかし,三角刀による点彫り,立体感を表現するこすり彫り,波文などに適したぜんまいのみによる引っかき彫り,墨絵風な彫り方のできる片切刀による片切彫りなどを巧みに組み合わせて変化に富んだ作品を生み出している。
→漆工芸
執筆者:中里 寿克
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漆器の加飾法の一種。漆塗りの表面に文様を彫刀で浮彫りし、生漆(きうるし)を摺(す)り込み、乾かないうちに金箔(きんぱく)または金粉を彫り溝の中に綿を使って押し込み、金条線の文様を表したもの。銀箔を用いたものは沈銀という。この技法の起源は中国の鎗金(そうきん)(金、創金とも書く)で、発生時期は不明で、南宋(そう)代(13世紀)の文献に製作が行われたとある。現在日本に、延祐2年(1315)浙江(せっこう)省杭州(こうしゅう)の金家と宋家とが製作したという漆書銘文をもつ経箱(きょうばこ)が福岡市誓願寺、尾道(おのみち)市浄土寺とその末寺光明坊に3点残り、これらが銘文のある最古の作品である。これら経箱の構造形式はまったく同一で、沈金の文様も格狭間(こうざま)の中に双鳥と雲文とを表し、その周囲を花文で埋めた緻密(ちみつ)な構図も共通である。東大寺に伝わる雲鳳(うんぽう)鎗金経櫃(きょうびつ)は、文様の描写がこれより細密になり、輪郭と内部が異なる線で彫られて肥痩(ひそう)に富み、上(うわ)塗りに緑漆がかけられている。明(みん)初期(14世紀末)の『輟耕(てっこう)録』によれば、図様は自然景観、花鳥、建築物、故事上の人物などをテーマとしたとあるので、当時は絵画的表現もなされていたと推測される。
沈金の名称は『庭訓(ていきん)往来』(14世紀後半成立)に沈金の香合(こうごう)が記されているのが初出で、15世紀には『看聞御記(かんもんぎょき)』(応永28年〈1421〉12月25日の項)や『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』(永享7年〈1435〉6月29日の項)などにもみられるが、これらはかならずしも日本でつくられたものとはいえない。日本の沈金で年代の明らかなものは岐阜県勧学院の鳳凰桐文(ほうおうきりもん)経箱(1538)で、同時期の作と考えられる銘文のない遺品に、鳳凰沈金手箱(重文、石川県白山比咩(しらやまひめ)神社)や蓬莱(ほうらい)沈金手箱(東京国立博物館)などがある。江戸時代になると、享保(きょうほう)年間(1716~36)に長崎で、また寛政(かんせい)年間(1789~1801)に江戸の医師二宮桃亭(にのみやとうてい)が優れた作品をつくり、また明治に出た『工芸志料』(1877)には能登(のと)国(石川県)輪島でも製作され始めたことが記されている。現在は輪島の特産として知られるほか、会津若松、秋田川連(かわつら)でも同種のものがつくられている。
[郷家忠臣]
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