一色範光(読み)いっしき・のりみつ

朝日日本歴史人物事典 「一色範光」の解説

一色範光

没年嘉慶2/元中5.1.25(1388.3.4)
生年正中2(1325)
南北朝時代の武将。範氏の次男。右馬権頭,修理権大夫。九州探題として九州を転戦する父のもとに,兄直氏と共に途中より参陣し,南朝勢力および直冬党と戦ったが,結局成果をあげることなく延文3/正平13(1358)年までに帰京貞治5/正平21年には若狭(福井県)の守護職を得,のちには三河(愛知県)守護も兼任している。若狭は伝統的に国人の独立性が強く,応安4/建徳2(1371)年にも大規模な国人一揆が起きたが,子息詮範を派遣してこれを鎮圧,若狭に初めて本格的な守護支配体制を確立した。三河慈雲寺(知多市)に墓がある。<参考文献>『小浜市史/通史編』上

(河村昭一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「一色範光」の解説

一色範光 いっしき-のりみつ

1325-1388 南北朝時代の武将。
正中(しょうちゅう)2年生まれ。一色範氏(のりうじ)の子。一色直氏の弟。貞和(じょうわ)4=正平(しょうへい)3年から父,兄とともに南朝方と九州各地でたたかう。貞治(じょうじ)5=正平21年若狭(わかさ)(福井県)の守護となり,応安2=正平24年国一揆(いっき)をやぶって若狭を平定康暦(こうりゃく)元=天授5年から三河(愛知県)の守護もかねた。嘉慶(かきょう)2=元中5年1月25日死去。64歳。通称五郎

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の一色範光の言及

【一色氏】より

…清和源氏。足利氏の支族。足利泰氏の子公深阿闍梨が三河国吉良荘一色(現,愛知県幡豆郡一色(いしき)町)を所領とし一色氏をおこす。公深の子一色範氏は1336年(延元1∥建武3)足利尊氏の命により九州にとどまり,軍事指揮,行賞・訴訟の注進・実施などの権限を行使し,初代の鎮西管領(のち九州探題)となった。やがてその子直氏が代わって鎮西管領となり,範氏はこれを後見したが,九州諸豪族の抵抗が強く,父子は足利直冬党・南朝方と鼎立した末,南朝方菊池氏に敗れて56年(正平11∥延文1)から翌々年にかけて父子あいついで九州を退去して帰京した。…

【若狭国】より

…この間守護勢力は,あるいは荘園の年貢を半済(はんぜい)し,あるいは一国平均に軍役を課し,荘園諸職を闕所とするなど,随所でその圧力を強めつつあった。66年(正平21∥貞治5)守護となった一色範光の支配の初め,守護の圧力に抵抗する国人勢力はしばしば反乱して守護軍と戦ったが,71年(建徳2∥応安4)5月,宮河,鳥羽,木崎,和久里ら遠敷郡の国人を主力とする国一揆軍は,玉置河原で範光の子詮範の率いる守護代や守護方国人勢力(おもに大飯郡勢)と激戦の末大敗,鎌倉以来の国人の多くは討死し,所職を得替された。この合戦はいわば若狭における南北朝内乱の終結を意味するものであり,以後一色氏の支配が一国に進展する。…

※「一色範光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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