万力郷(読み)まんりきごう

日本歴史地名大系 「万力郷」の解説

万力郷
まんりきごう

笛吹川中流右岸一帯に比定される中世の郷。古くから竜王りゆうおう(現竜王町)近津ちかつ(現石和町)と並ぶ水防難所として知られ、万力の名も堤の安全を祈願しての命名といわれる(甲斐国志)。「塩山抜隊和尚語録」に万力県とみえ、自得菴住持明従大師の逆修法華経供養、和泉太守聖寿居士らの先考感窓良因禅人断日忌、妙芳禅尼の逆修頓写法華経供養、浄法禅門の三七日忌、浄恵禅門の一周忌など、万力県居住の人々の法要の記事がある。「一蓮寺過去帳」には永享一〇年(一四三八)二月五日供養の是一房のほか、寛正二年(一四六一)頃の浄阿弥陀仏、明応六年(一四九七)二月一日の善仏房、同年八月八日の恩仏房、同年九月一日の見阿弥陀仏に万力の注記があり、永正二年(一五〇五)六月一三日の見阿弥陀仏には「万力大和子」とみえる。また同七年七月二〇日には「甲州満力地下一族一円」の旦那が二六貫三二五文で売却されるなど(「旦那売券」熊野那智大社文書)、当郷を本拠とした万力氏の存在をうかがうことができるが、同氏の出自などは不明。

南北朝期には小曲道仏が当郷に屋敷を所持していたが、武田信成の遺命により屋敷の年貢銭六貫七〇〇文および郷内の聖林寺分を向嶽こうがく(現塩山市)に寄進し、これを文安二年(一四四五)一一月一五日武田信重が安堵している(「武田信重寺領目録」甲斐史料集成稿)。戦国期にこの地域の代官を勤めたのは曾禰(曾根)三河守昌長(縄長)である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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