三代村(読み)みじろむら

日本歴史地名大系 「三代村」の解説

三代村
みじろむら

[現在地名]加茂町三代

東は宇治うじ村・南加茂村、南西は斐伊川中央を境に伊萱いがや(現三刀屋町)、北は神原かんばら村。南西に斐伊川が流れ、中央を奥田おくだ川が流れる。この川は「出雲国風土記」大原郡条に屋代やしろ小川と記す川である。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の一〇番に「三代庄四十四丁」とみえ、本間対馬二郎左衛門尉が地頭であった。天正一四年(一五八六)三月八日の山内隆通知行書立(山内家文書)によれば「三代神原参百貫」のうち一五〇貫の地は本領である備後黒淵くろぶち(現広島県世羅町)萩原はいばら(現同県大和町)その他が不知行となっているため、毛利元就・隆元から山内氏家臣の滑平氏に、残り一五〇貫の地は本領である萩原のうち本所などが不知行となっているため、同様に山内氏家臣の宇野氏に与えられたものであったという。

正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高七六八石余、寛文四年(一六六四)の本田高六一四石余・新田高一〇三石余。

三代村
みよむら

[現在地名]郡山市湖南町三代こなんまちみよ

安佐野あざの中地なかじ両村の西、舟津ふなつ川中流域山間に立地。白河街道宿駅。古くは諸所の渓間に散居していたが、安積伊東氏が領し、三代目に現在地に集めて一村としたという(新編会津風土記)。天正一九年(一五九一)一一月二一日の町野長門伝符状(楽美術館蔵)に「見よ」とみえ、蒲生氏郷が天下一の茶碗焼の楽常慶を会津に下向させた際、当村に伝馬二疋の出役を命じており、この頃にも伝馬宿駅とされていた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に三代とみえ、高四六七石余、蔵入地。

三代村
みしろむら

[現在地名]新宮町三代

立花たちばな山の北西に位置し、北は上府かみのふ村、北西は下府村。唐津街道が通る。小早川時代の指出前之帳では三代村の田四二町余(分米五七〇石余)・畠三四町六反余(分大豆二〇二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高八四五石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高八五五石余、家数六三・寺一、人数三三四(田圃志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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