白河街道
しらかわかいどう
若松城下から滝沢峠(現会津若松市)・勢至堂峠経由で奥州道中の白河城下に出る街道で、「会津風土記」は「白河道」とする。「白河風土記」は「会津への道」あるいは「越後への道」とし、越後会津街道であり、江戸からの会津通佐渡路の一部である。この道筋の宿場および宿場間の道程は次のとおりである。若松―二里―赤井―一里一八町―原(以上現会津若松市)―一里三〇町―赤津―二二町―福良―三二町―三代(以上現郡山市)―二里四町―勢至堂―二里八町―長沼(以上現長沼町)―一里―牧之内(現天栄村)―一里一五町―上小屋―一里一四町―飯土用(以上現大信村)―二里五町―白河(五海道中細見記)。天文一四年(一五四五)八月蘆名盛氏は勢至堂峠を切開き、勢至堂村を開いたと伝える(「勢至堂村由緒書」福島県史)。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の奥羽仕置の際、伊達政宗に命じて相州小田原から会津黒川(現会津若松市)まで幅三間の道を造らせている(同年七月三日「豊臣秀吉朱印法度書写」伊達家文書)。そのときは勢至堂峠を越え、原から背炙峠を越え黒川城下に入った。原はこのとき付近に散在していた家を街道筋に集めて開設したという(滝沢組村々由来堤山名帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 