日本歴史地名大系 「三会村」の解説 三会村みえむら 長崎県:島原市三会村[現在地名]島原市三会町・大手原町(おおてばらまち)・御手水町(おちようずまち)・亀の甲町(かめのこうまち)・洗切町(あらいきりまち)・中野町(なかのまち)・寺中町(じちゆうまち)・中原町(なかばらまち)・下宮町(しもみやまち)・稗田町(ひえだまち)・出平町(いでひらまち)・出の川町(いでのかわまち)・津吹町(つぶきまち)・原口町(はらぐちまち)・長貫町(ながぬきまち)・油堀町(あぶらぼりまち)・広高野町(ひろこうやまち)・礫石原町(くれいしばるまち)杉谷(すぎたに)村の北西に位置し、北東部は有明海に臨む。西(にし)川・中野川などが流れる。大宝元年(七〇一)行基によって開創されたという大乗院満明(まんみよう)寺(現小浜町)の分院として地内の寺中に延明(えんみよう)寺が建立されたという。油堀の地は豊前宇佐宮の神領が置かれ、神灯料に充てられていたことに由来する地名という。稲荷神社の裏手の藪地より数基の五輪塔・宝篋印塔が発見されている。寺中川と中野川に挟まれた寺中城は、天正一二年(一五八四)肥前佐賀の龍造寺隆信の島原半島への進攻に際して軍勢の集結地になったとされる。景華(けいか)園の跡地にある九郎(くろう)大明神の石祠は隆信方に属した武将の墓という。戦国期の有馬氏の勢力下では豕子(いのこ)村と称したという。江戸時代は島原藩領の北目筋に属する。慶長国絵図に「三会」とみえ、高二千石余。元和二年(一六一六)の大村領預り地村役人証文(大村見聞集)に「三会村北道さし」「同 三之沢さし」「同 古賀村さし」「同 南道さし」とみえ、有馬氏転封に伴い大村藩預地になっていた。さしは散使。同三年のイエズス会管区長宛のキリシタン連判書付に「三会町」の姉川茂左衛門はうろ・上野孫市とミんこす・小柳与三右衛門るいす・空閑七左衛門せろうにも・益田三右衛門寿わんなど、キリシタンの代表者と考えられる一四名が署名している。寛永一八年(一六四一)勝光(しようこう)寺(現有明町)下の「三会村専光寺」の法順が木仏を下付されている(木仏之留)。寛永一九年の平戸町人別生所糺によれば、長崎平戸(ひらど)町の十左衛門尉は「島原之内三会村」に生れ、幼少からキリシタンで、同四年に長崎五島(ごとう)町に来住しているが、寛永六年から同九年まで在勤の長崎奉行竹中采女正の代に転びキリシタンとなっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by