古賀村(読み)こがむら

日本歴史地名大系 「古賀村」の解説

古賀村
こがむら

[現在地名]長崎市古賀町・松原町まつばらまち鶴の尾町つるのおまち中里町なかざとまち・つつじがおか一―五丁目・船石町ふないしまち

矢上やがみ村の北に位置する。北西部に津屋つや岳、北東部に四牛よつうし山、東部に船石岳・松尾まつお岳などがあり、正念しようねん川・都通とつ川などが流れる。長崎路が通る(慶安二年肥前国道法帳)。建武五年(一三三八)矢上空閑民部三郎入道妻女の所領であった伊佐早いさはや戸石といし村内田八町などの地頭職が勲功の賞として深堀政綱に宛行われたが(同年二月九日「一色道猷宛行状」深堀文書)、この空閑民部は当地にかかわる人物か。元亀三年(一五七二)三月「高来いさはやのしやうこかの村」の順礼慶守・鷹屋甚介らが伊勢参宮にいき、一人は為替をくんだ銀三匁を渡し、もう一人は肥前に下向時分に払込むこととしている(「肥前国藤津郡彼杵郡高来郡旦那証文」宮後三頭太夫文書)。天正一六年(一五八八)深堀純賢から没収した豊臣秀吉の直轄領長崎七ヵ村のうちとされる。フロイス「日本史」にコガCongaとみえ、一五八八年マタ神父が修道士ゴイスとともに身を潜めるために有馬領に属する城があるコガに赴き、ヒミやナガヨ(現長与町)などの諸城の司牧を担当、多数の告解を聴いて洗礼を授けたという。当地は涼しく、多くの河川や泉に恵まれ、天然の技巧による見事な滝がある。一五八九年有馬氏が龍造寺氏との交戦で占領されていたコガの城などの旧地を回復した際には、有馬ありまに教会を建てこれに所領を寄進することを約束したため浦上うらかみを与えたという(一五八九年度耶蘇会年報)。同年マタ神父がコガ城で告解を聴き、のちヒミ城に向かおうとした際、コガの殿が二人の家臣がなお告解していないとしてその封禄を没収している(フロイス「日本史」)


古賀村
こがむら

[現在地名]水巻町古賀一―三丁目・うめ木団地きだんち・おかのだい高松たかまつ樋口ひぐち樋口東ひぐちひがし牟田むた中央ちゆうおうなど

まがり川を挟んで猪熊いのくま村の南東、同川下流右岸の沖積平野に位置する。南部には豊前坊ぶぜんぼう山・多賀たが山など丘陵性の山地があり、山地を境に南はえぶり村・頃末ころすえ村。東は浅川あさかわ(現北九州市八幡西区)。集落は本村のほか足谷あしだに丸山まるやま江後えこう黒石くろいしがあった(続風土記拾遺)。中世には古賀名(古加名)とよばれ、山鹿庄折尾おりお郷内であった。永享四年(一四三二)六月一日、対馬の宗貞盛は被官の斎藤彦五郎に対して「山鹿庄折尾郷内古賀名田地拾町」を宛行っている(「宗貞盛書下」斎藤文書)。その一方で当地は麻生氏の所領としても確認することができ、文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写(麻生文書/筑前麻生文書)には、内々帳面のうちの一所として「九町三十 折尾郷内古加名」とみえる。天正一四年(一五八六)羽柴(豊臣)秀吉の九州出陣に先立ち、毛利輝元らの軍勢が九州に進攻を開始すると、麻生氏は秀吉方に属した。


古賀村
こがむら

[現在地名]広川町新代にいしろ

久泉ひさいずみ村の南西に位置し、長延ながのぶ川が流れる。天正一二年(一五八四)三月一三日の稲員安守知行坪付(歴世古文書/大日本史料一一―一二)に「拾二町内三町居屋敷分、古賀」とみえ、稲員安守は居屋敷分三町を含む当地一二町など累代の知行地計七〇町の安堵を大友義統に求めている。「稲員家記」によれば、稲員良参は正応三年(一二九〇)当地の一〇町を含む七〇町の上広川かみひろかわ庄の田地を鎌倉幕府より授けられて当地に移住し、同五年高良こうら大明神の第七王子という坂本命を祀る坂本さかもと宮を建立したと伝える。貞治四年(一三六五)に稲員良朗、文安元年(一四四四)に同良柴、享禄四年(一五三一)に同良実により坂本宮が再興された。


古賀村
こがむら

[現在地名]古賀市古賀・天神てんじん一―七丁目・日吉ひよし一―二丁目・駅東えきひがし一―三丁目・今の庄いまのしよう二丁目・花鶴丘かづるがおか一―三丁目

犬鳴いぬなき(五八三・七メートル)の北西、花鶴川の河口に位置し、北から東は久保くぼ村、東はしよう村、南は鹿部ししぶ村、西は玄界灘。小早川時代の指出前之帳では古賀村の田一三町三反余(分米一一七石余)・畠六町余(分大豆二二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高四七七石余(慶長石高帳)


古賀村
こがむら

[現在地名]甘木市古賀

柿原かきばる村の南西、佐田さだ川中流右岸の台地に位置する。下座げざ郡に属し、東は佐田川を隔てて相窪あいのくぼ村、西は頓田とんた村。柿原村との境を東西に日田街道が通る。福岡藩成立後は同藩領、元和九年(一六二三)支藩の秋月藩が成立すると同藩領に転じたが、寛永一三年(一六三六)の御内証替によって福岡藩領に復した。小早川時代の指出前之帳では古賀村の田五町余(分米七四石余)・畠四町四反余(分大豆三五石余)


古賀村
こがむら

[現在地名]久留米市みや陣町若松じんまちわかまつ

筑後川支流の大刀洗たちあらい川下流右岸、恋段こいのだん村の東に位置し、北は八町島はつちようじま村に接する。文禄四年(一五九五)小早川家の許可を得た地侍岩橋麟可が八町島村のうち一五〇石を分けて古賀村を立てて隠居料地とし、五右衛門を庄屋にあて、百姓を集めて住居・農具を供し、田地を人別六反ずつ与えたという(「岩橋百代集」筑後将士軍談)。南縁を宮地みやのじ渡と松崎まつざき(現小郡市)方面を結ぶ筑前街道が通り、八町島村境の古賀茶屋こがのちややで進路を北にとる。文禄四年(一五九五)一二月一日の小早川秀俊充行知行方目録(萩藩閥閲録)では「こか村」の高八一石など三千一〇〇石が村上景親の領知。


古賀村
こがむら

[現在地名]柳川市古賀

浜武はまだけ村の南東、沖端おきのはた川河口右岸にある。三潴みづま郡に属する。対岸は山門やまと矢留やどみ村。柳川藩領。元和七年(一六二一)の郡村帳に古賀村とあり、玄蕃高三四二石余・新田高七九石余、小物成は野手米三斗余。旧高旧領取調帳では高四三四石余、幕末から明治初年の反別は二五町九反余(郡郷)。文化九年(一八一二)一〇月一四日、伊能忠敬一行は浜武村から当村へ向かって測量しており、「左に千石船三艘繋ぐ、右に山王社」と記している(測量日記)。安政四年(一八五七)の小物成盛掛小帳(吉原家文書)によると、造酒屋一・揚酒屋一・油屋一・糀屋一・石炭問屋一・農具屋一・店一があった。


古賀村
こがむら

[現在地名]杷木町古賀

久喜宮くぐみや村の西、筑後川中流右岸に位置し、南は同川を境に筑後国生葉いくは古川ふるかわ(現浮羽町)。同川沿いの平野を除き大部分が山地。「地理全誌」によると浜川はまがわは町立てされており、東側は寒水そうず村に所属。小早川時代の指出前之帳によると古賀村の田一六町九反余(分米二一七石余)・畑一二町一反余(分大豆八一石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高三七一石余、うち大豆七七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三八四石余・反別二七町八反余、家数三五・人数二二五(田圃志)


古賀村
こがむら

[現在地名]筑紫野市古賀

立明寺りゆうみようじ村の西にあり、天拝てんぱい山南東麓、ほぼ北東流する山口やまぐち川中流左岸に位置する。北は武蔵むさし村。古くは井手古賀村と称され(慶長石高帳など)武蔵村から分れたとされる(続風土記拾遺)。慶長七年(一六〇二)の検地高は六一一石余(慶長石高帳)元禄国絵図に古賀村とあり、ほかに古賀村の内として同丸村が記される。元禄五年(一六九二)には高六一九石余、家数三三・社一、人数二二〇(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も六一九石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数四六・人数二二〇、牛四二・馬七(別本「続風土記附録」)


古賀村
こがむら

[現在地名]高田町岩津いわつ 古賀

今福いまぶく村の東、飯江はえ川左岸にある。三池郡に属する。天正一一年(一五八三)頃のものと推定される年月日欠の田尻鑑種本領村数等覚書(田尻家文書/佐賀県史料集成七)に「こが」とみえる。天正一二年九月、龍造寺方三池親基の守る「三池ノ古賀ノ城」は豊後大友氏の軍勢に攻略され、親基は大友氏に下ったという(北肥戦誌)。同一三年九月には島津義弘は秋月種実救援のため三池境へ軍勢を派遣、「久我」などを押えて大友方を攻撃することが計画された(「上井覚兼日記」同月六日条)


古賀村
こがむら

[現在地名]鳥栖市古賀町こがまち

安良やすろ川の扇状地扇側の平地に立地。正保三年(一六四六)の郷村帳写(基養精細録)に「古賀村」とみえる。近世は対馬藩領。

群石むれいし山の南東麓の谷に寛文二年(一六六二)築造の吉谷よしたに堤がある。氏神の老松おいまつ神社は集落の北部に鎮座し、祭神は老松大明神・中将殿・御内宝神。


古賀村
こがむら

[現在地名]国見町神代こうじろ 上古賀かみこが下古賀しもこが

西神代村の枝郷。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)に古賀村とみえ、宝暦二年(一七五二)の佐賀領郷村帳では古賀村とは別に上古賀村が記される。天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録では古賀村として高一五四石余。


古賀村
こがむら

[現在地名]有明町大字坂田さかだ字古賀

現有明町西部の平坦地にあり、水田地帯である。正保絵図に村名がみえる。

この地域は鎌倉時代は日向通益(のちの白石氏)の所領で、室町時代に入って須古すこ城主平井氏の領地となり、戦国動乱期には竜造寺氏の所領となった。慶長一六年(一六一一)須古領主は佐賀本藩に領地の三分の一を上地したが、その中にこの村は含まれていた。


古賀村
こがむら

[現在地名]佐賀市蓮池町はすいけまち大字小松こまつ

佐賀江の北で、城原じようばる川の東西に広がる一帯。正保絵図に村名がみえる。近世蒲田郷に属し蓮池はすのいけ支藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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