三原庄(読み)みはらのしよう

日本歴史地名大系 「三原庄」の解説

三原庄
みはらのしよう

筑後国御原みはら郡に置かれていた京都最勝光さいしようこう院領庄園で、東郷西郷があった。現小郡市北部を中心とした一帯に比定されている。寿永三年(一一八四)源頼朝は命の恩人平頼盛の母池禅尼に報いるため、平家没官領であった「三原庄」を再び頼盛に安堵している(同年四月五日「源頼朝下文」久我家文書/平安遺文八など)。建仁元年(一二〇一)当庄五〇〇町などに高良こうら(現久留米市)下宮の拝殿一宇の造営役が賦課されている(高良宮造営田数注文)。正中二年(一三二五)三月日の最勝光院領庄園目録(宮内庁書陵部蔵文書/鎌倉遺文三七)に「三原庄 東郷 西郷 関東備前守小山出羽入道息女」とみえる。備前守は得宗一門の名越宗長とされており、当庄は本家が最勝光院で領家職は幕府が有していたと思われる。当時、最勝光院に本年貢三〇〇石、綾被物二重、七月兵士一〇人を負担する定めであったが、近年は本年貢二〇石(東郷・西郷各四貫文)を納入するのみで、それも文永七年(一二七〇)以来モンゴル来襲を理由に貢進されていないと記される。


三原庄
みはらのしよう

吾妻郡の西部を中心に所在した庄園。「吾妻鏡」建保四年(一二一六)一〇月五日条に「上野国三原庄」がみえ、海野左衛門尉幸氏が当庄の堺について申述べているが四至は不詳。海野幸氏は木曾義仲の子義高と同年で、元暦元年(一一八四)四月二一日、源頼朝の館から義高を逃がすために身代りをつとめた(同書同日条)。のち許されて頼朝に仕え、三原庄の地頭職を与えられていたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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