三浦義村(読み)みうらよしむら

精選版 日本国語大辞典 「三浦義村」の意味・読み・例文・類語

みうら‐よしむら【三浦義村】

鎌倉中期の武将三浦義澄の子。父とともに源頼朝に従い、幕府創業の戦い参加和田義盛北条氏討伐に誘われたが逆に北条氏に荷担、以来北条氏側で戦功を立て、評定衆となった。延応元年(一二三九)没。

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デジタル大辞泉 「三浦義村」の意味・読み・例文・類語

みうら‐よしむら【三浦義村】

[?~1239]鎌倉前期の武将。義澄の子。父とともに平氏追討に武功をあげ、鎌倉幕府内で重きをなした。和田義盛挙兵承久の乱には北条氏を助け、信任されて評定衆に選ばれた。

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改訂新版 世界大百科事典 「三浦義村」の意味・わかりやすい解説

三浦義村 (みうらよしむら)
生没年:?-1239(延応1)

鎌倉前期の武士。義澄の子。幼名平六。相模国の大族三浦氏嫡流継ぎ,すぐれた政治的判断力をもって数々の危機を回避し,三浦氏嫡流家の保全を実現した。1213年(建保1)同じ三浦一族の和田義盛が北条氏の挑発にのって軍事行動を起こした際,加勢を約束しておきながらどたん場で寝返ったため,義盛敗死後〈三浦の犬は友を食う〉と非難されたことは有名。承久の乱では弟胤義から京方に誘われ,伊賀氏の陰謀事件に際しても伊賀光宗の誘引をうけるなど,反北条氏勢力の動向に微妙に反応しながらも,最終的には北条氏に荷担して反北条氏勢力を制圧し,相対的に三浦氏嫡流家の政治的地位を向上させた。25年(嘉禄1)北条泰時によって創設された評定衆にも名を連ね,幕府政治に強い影響力を行使した。
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朝日日本歴史人物事典 「三浦義村」の解説

三浦義村

没年:延応1.12.5(1239.12.31)
生年:生年不詳
鎌倉前期の武士。相模国(神奈川県)出身。三浦義澄と伊東祐親の娘の子。平六を称す。建久1(1190)年の源頼朝上洛時に右兵衛尉に任じられ,のちに左衛門尉となる。頼朝の死後に起きた梶原景時排斥運動では中心的な活動をみせた。父の死後は幕府の重責を担い,最有力御家人として北条義時との協力に努めた。建保1(1213)年,従兄弟の和田義盛が北条氏と対立し挙兵におよぶと,いったんは同心の起請文を書きながら北条方についたため,「三浦の犬は友をくらう」と評された。承久1(1219)年将軍実朝を暗殺した公暁が義村を頼ったが,これを義時に告げて,その命により公暁を殺した。承久の乱(1221)でも後鳥羽上皇方についた弟胤義の誘いを受けたが,それに応じず,幕府軍として上洛して胤義らを討った。義時の死後起こった後家伊賀氏の陰謀にも参加を求められたが,北条政子の説得に応じ北条泰時を支持した。反北条氏勢力に頼られ,結果として一族を裏切ったことは御家人中最大の勢力であったがゆえの宿命であろうか。駿河守,相模,河内,紀伊,土佐の守護,評定衆などを歴任。

(高橋秀樹)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦義村」の意味・わかりやすい解説

三浦義村
みうらよしむら
(?―1239)

鎌倉前期の武将。義澄(よしずみ)の子。母は伊東祐親(いとうすけちか)の女(むすめ)という。駿河守(するがのかみ)。評定(ひょうじょう)衆。1199年(正治1)梶原景時(かじわらかげとき)排斥を策謀したのをはじめ、1213年(建保1)和田の乱では和田義盛(よしもり)に協力を約束しながら北条義時(よしとき)に通じて同族を葬り、将軍実朝(さねとも)暗殺事件では公暁(くぎょう)を誅(ちゅう)し、1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱では弟胤義(たねよし)による朝廷側荷担の誘いを断り、北条泰時(やすとき)軍に従って戦功をあげた。24年(元仁1)義時の後室伊賀(いが)氏らが将軍および泰時を除こうと謀った際にも、終始北条氏に忠誠を示して信任され、翌年評定衆に選ばれた。「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の制定にも参与。三浦一族の最盛期を築いた人物である。延応(えんおう)元年12月5日没。

[三浦勝男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三浦義村」の意味・わかりやすい解説

三浦義村
みうらよしむら

[生]?
[没]延応1(1239).12.5.
平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。義澄の子。母は伊東祐親の娘。元暦1 (1184) 年父とともに平氏追討のため鎌倉を発し,平氏滅亡まで海陸に転戦。文治5 (89) 年には源頼朝の奥州藤原氏征討に従軍。家督を継いで三浦介,相模国守護となり,幕府の有力御家人の一人となった。建久1 (90) 年右兵衛尉。建仁3 (1203) 年土佐国守護。建暦1 (11) 年左衛門尉。同3年の和田合戦には同族和田義盛に違約して北条氏を助け,和田氏敗北の一因をなした。承久の乱には主将北条泰時とともに東海道の将として京都に進攻。執権北条氏に信任され,河内国,紀伊国守護を兼ね,嘉禄1 (25) 年評定衆に就任した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三浦義村」の解説

三浦義村 みうら-よしむら

?-1239 鎌倉時代の武将。
三浦義澄の子。相模(さがみ)(神奈川県)の御家人。梶原景時(かじわら-かげとき)追放に活躍,幕政で北条氏につぐ地位をしめた。和田氏の乱,承久(じょうきゅう)の乱,伊賀(いが)氏の変でも北条執権方につく。嘉禄(かろく)元年(1225)評定衆となり,「御成敗式目」制定に参与した。延応元年12月5日死去。通称は平六。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三浦義村」の解説

三浦義村
みうらよしむら

?〜1239
鎌倉前期の武将
義澄 (よしずみ) の子。源頼朝挙兵に際し父に従って各地を転戦。鎌倉幕府成立後,梶原景時を排撃し,1213年和田義盛の反乱では北条氏を助け,承久の乱(1221)でも北条泰時の軍に従って戦功をたて,泰時の信任を得る。'25年評定衆となり,御成敗式目の制定にも参加した。

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世界大百科事典(旧版)内の三浦義村の言及

【公暁】より

…鎌倉2代将軍源頼家の子。乳母は三浦義村妻。父の没後鶴岡八幡宮寺別当尊暁の弟子となり(公暁は法名),1217年(建保5)鶴岡別当に就く。…

※「三浦義村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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