日本歴史地名大系 「三国湊口留番所跡」の解説
三国湊口留番所跡
みくにみなとくちどめばんしよあと
湊への商品の出入りを監督し、津留を励行するための役所で、福井藩成立当初からあったと思われる。寛永二〇年(一六四三)幕府より、異国船改のための番所を「海上遥ニ見渡候所」に置くよう命ぜられたのを機に、正保元年(一六四四)これまで街端に置かれていた番所を丸岡藩領
三国湊以外の浦に来た船もここで検問されることになり、隣接する滝谷出村の湊などは非常な打撃をうけ、同年、丸岡藩主本多成重は「領分三国滝谷出村江前々ヨリ着船有之候処、今度切支丹御改ニ付、右船三国湊江引寄御改被成候故船泊リ無之迷惑仕候、船改之儀者飛騨守江茂昨年・今年両度御奉書を以被仰出候事ニ候間、領分之儀者相改可申」と抗議したが、福井藩は「滝谷出村之儀者三国近所之事故、船之出入相紛、若越度ニ茂相成候而者公辺江申訳無之、其上当国海陸国々締之儀者此方ヨリ手形を出申事ニ候、殊更切支丹之儀者大切之事故、出村江着候船之儀是迄之通相改可申候、飛騨守ニ而御改之儀者御勝手次第可被成」(松平家譜)と回答、丸岡藩の抗議は受入れられなかったようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報