アンデス文明(読み)あんですぶんめい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンデス文明」の意味・わかりやすい解説

アンデス文明
あんですぶんめい

南アメリカ西部を縦走するアンデス山脈の高原および隣接した海岸地方に発生した古代文明。おもに、現ペルー、およびボリビア西部高地に発達した高文化をさすことが多い。メソアメリカ文明とともに、古代アメリカ大陸の代表的な諸文化がこの地域に興亡した。

増田義郎

定住生活の始まり

後氷期の温暖化する気候条件のなかで、紀元前七千年紀末から、ペルーの海岸、高原地方で、二つの型の文化の発展が始まった。海岸地方においては、ペルー(フンボルト)海流の豊かな漁労資源を利用し、海岸のオアシス地帯で植物採集を行う人々が定住生活に入り、ヒョウタン、マメなどの栽培を始めた。一方、高原地方では、遅くとも前五千年紀には、ラクダ科のラマや、モルモットの家畜化が始まった証拠があり、それらの動物とともに、ジャガイモキノアなどの高地植物の栽培化が緒についた。この二つの系統の異なる文化の間に交流が行われ、さらにワタ、トウモロコシなどの栽培植物や土器制作の技術などが加わって、前二千年紀の初めには、集約農耕が成立した。

 アンデスのワタは前三千年紀に、トウモロコシは前二千年紀のなかばに現れている。後者はメソアメリカからの伝播(でんぱ)という考え方が強かったが、最近ではアンデス地帯で独自に栽培化された可能性も論じられている。

 土器制作技術は、前3000年ごろから始まった、コロンビアやエクアドルの漁労民の間での早期の土器制作の伝統から発しているものと考えられる。

 また、アンデス地方の定住農耕の成立には、アンデス山脈の東側の熱帯低地の文化的影響も寄与している。それは、マニオク(ユカ)などの根菜やコカの栽培だけでなく、ジャガー、ヘビ、カイマンなどを神聖視する宗教観念の源泉をたどるときに、無視することのできない意味をもっている。

[増田義郎]

神殿文化の発生

中央アンデスでは、集約農耕や土器制作が開始される以前から、集落をめぐって大きな公共建造物をつくる傾向が現れている。

 前二千年紀初めのワヌコ県コトシュのミト期の「神殿」はその一例であるが、やがて海岸地方で、アドベ日干し)れんがによる巨大な宗教建造物が、ラス・アルダス、エル・パライソ、ラ・フロリダ、ガラガイなどに発生する。前1000年前後から、これらの宗教的動向は、チャビン・デ・ワンタル神殿を中心とした汎(はん)アンデス的な宗教に統合され、ネコ科の動物やヘビなどの崇拝を中心とした強力な宗教観念の表象が、様式化された土器、織物の文様に表されて、広い地域に広がった。チャビン文化の広がりは、ペルーの北・中海岸、および高地にまたがるが、同時に、個性的な彩色土器の伝統を開始していた南海岸のパラカス文化にもその影響は及んでいる。チャビン文化は、強烈な宗教観念の伝播と同時に、汎アンデス的な政治組織の編成を伴って進行した、という考え方も強い。

[増田義郎]

国家の形成

前一千年紀の後半から、灌漑(かんがい)技術の発達によって海岸耕地が飛躍的に増大し、その水利権や耕地をめぐって、政治的紛争が始まった。軍事的な領土国家がこの時期に出現したが、その代表的なものは、ペルー北海岸のモチェ(モティーカ)の国家であった。そのころ南海岸に興ったナスカ文化も、祭祀(さいし)的性格を強くもったいくつかの首長制社会を内蔵していたらしいことは、カワチ、タンボ・ビエホなどの集落遺跡から推測できる。

 同じころ高原では、ボリビア、ティティカカ湖畔のティアワナコに、大神殿都市が発生し、おそらく巡礼や通商によって、その文化的影響がペルー南部、中部にまで及んでいたらしい。紀元後700年前後に、ペルー中部高原のワリに、ティアワナコ文化の影響を強く受けた新しい文化が興り、南海岸のナスカ地方と連絡をもちながら、そこから北海岸に向かって拡大し始めた。高原地方では、ワリの影響はカイエホン・デ・ワイラス地方に浸透し、さらにカハマルカ地方にも及んだ。こうしてワリ文化は、チャビン文化より大きな空間的拡大を達成したが、その背後に、大規模な軍事征服と、その結果としての帝国の成立を考える学者もいる。

[増田義郎]

アンデス帝国

紀元1000年以後、ワリ文化の衰退に伴って、地方的な政治単位と文化伝統復活の傾向が顕著になった。北海岸のチムーは、ペルー北端のトゥンベスから中部海岸のチョン川流域までを制する領土国家となり、南海岸のカニェテ、チンチャ、イカなどの流域にも、強力な首長制社会が成立した。中部高原のマンタロ川からアプリマク川にかけては、ワンカ、チャンカの2部族が勢力を振るったが、チャンカと対立してこれを撃破したクスコ盆地のインカ人が、15世紀初めから急に軍事征服を開始し、パチャクティ、トゥパク・インカ両王の時代に、ペルー全土およびエクアドル、ボリビア、北部チリ、北西アルゼンチンにわたる大国家を建設した。16世紀初め、インカの支配階層が、クスコとキト(エクアドル)に二分して内乱が開始された直後にスペイン人が侵入、長いアンデス文明の歴史に終止符が打たれた。

[増田義郎]

『L・G・ルンブレラス著、増田義郎訳『アンデス文明』(1977・岩波書店)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アンデス文明」の意味・わかりやすい解説

アンデス文明
アンデスぶんめい
Andean civilization

16世紀のスペインによる征服に先立って,南アメリカ大陸のアンデス地方に栄えていた先住民の文明。中央アメリカの文明とともに,古代のエジプト,中国およびメソポタミアに匹敵する文明を形成していた。
アンデス文明は現在のペルー,エクアドル,ボリビア西部,およびチリの最北部の太平洋岸とアンデス山脈の内陸部に及ぶ。アンデス地方に人類がたどり着いたのは,前1万 5000年にさかのぼると推定される。最古の主食穀物はライマメとジャガイモであったが,村での定住生活が始るとまもなく,トウモロコシ農耕が始った。初期農耕期として知られる前 3500年までは低地に居住していた証拠が数多くみられ,マメ,カボチャ,トウガラシ,ワタの栽培が始った。また,海産物にも依存しており,前 2500年まで太平洋岸の乾燥地帯で定住していた。後年きわめて高度な発達をとげたアンデスの織物工芸はこの時代に出現した。前 2000年頃の土器の導入は,形成期と呼ばれる新時代の始りを示している。この時期のもう一つの重要な技術の進歩は,綿布をつくるために使う綜絖 (そうこう) 式織機の発達である。村落と神殿土塁の建設は,形成期の間にペルー中部の海岸から南部の遠隔地を除いた他地域へと広がり,トウモロコシの栽培は中部の海岸地帯から南北に伝播した。ラッカセイとキャッサバも食用穀物として用いられるようになり,それぞれの地方に特有の様式が土器や建築にみられるようになった。前 1000年頃,チャビン文化として知られる神殿文化が興った。チャビン文化の宗教的中心地はペルー中部高原のチャビン・デ・ワンタルで,前期文化層と呼ばれる時代にペルーの海岸と高原が単一国家として統合されたことを示している。チャビンの石の神殿は,ジャガーやヘビの姿が非常に複雑で幻想的な様式で飾られている。ペルーの南部海岸のパラカス文化の土器や豪華な刺繍を施した織物には,チャビンの影響が認められる。
前 200年頃,チャビン文化が衰えると,いくつかの地方の中心地で芸術と技術が発展した。ペルー南部の海岸沿いに興ったこれらの古典期の文化は,パラカスの土器の様式から発展したナスカ文化に代表される。ペルー北部の海岸地方で出土したモチーカ文化の工芸品と遺跡は,耕作に適した峡谷で灌漑農業を行なった攻撃的な武人国家の存在を示している。この頃チチカカ湖に近い南部の高原に,ティアワナコ文化と呼ばれる大きな都市や儀式上の中心地が現れた。 600年までに,南部の高原と,ペルー中部高原にあるワリという2つの中心地から多数の峡谷にわたって政治的支配が広がり,中期文化層として知られる新たな文化の統一をもたらした。ワリの要塞にみられる多数の食料貯蔵庫群の遺跡は,インカ後期のような軍事活動が存在していたことを示している。複数の大都市がこの時期に興ったが,ワリ帝国の領土が最も広がった 800年頃,中心地が崩壊し,南部全体で都市生活が衰退した。そのあとに後古典期 (1000~1400) が続き,その終り頃北部のチムーと南部のチンチャという2つの組織された国家が興って有力になった。 15世紀初め,ペルー高原南部のクスコを首都としたインカが一連の征服を行い,アンデス地方全体が急速に一つの帝国に統一されていった (→インカ帝国 ) 。無数の食料や織物の貯蔵庫は,そうした備蓄に支えられた膨大な軍隊とともに,非常に生産性の高い農業と産業の存在を示している。インカの都市生活の様子はマチュピチュ遺跡などから知ることができる。皮肉なことに,交易と行政を促進するために建設された広範な道路網が,1530年代のスペイン人による帝国中心部への侵略を容易にした。

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