三崎村(読み)みさきむら

日本歴史地名大系 「三崎村」の解説

三崎村
みさきむら

[現在地名]会見町三崎

天万てま村の西、手間てま山から北西に延びる支脈が平野部に半島状に突き出た台地の先端部に位置し、集落北部はみさき(殿山とも)とよぶ小高い丘陵地となっている。村名は半島状に突き出た地形が岬のようであるためとか、岬山中腹の三崎社(現日御崎神社)に由来するなどと伝える(伯耆志)。古くは見崎とも記した。南は寺内てらうち村、西は坂根さかね(現西伯町)。枝村の在徳ざいとくは享和三年(一八〇三)新田として届出された(藩史)

拝領高は六二四石余、本免は四ツ五歩。藪役銀一四匁二分が課せられていた(藩史)


三崎村
みさきむら

[現在地名]土佐清水市三崎

下猿野しもましの浜猿野はまましのの西、三崎川下流から河口部一帯および南へ突出した千尋ちひろ岬を村域に含む。西方海岸にある竜串たつくしは奇岩の織り成す景勝地として知られ、千尋岬一帯も風光に富む。

地名は正応二年(一二八九)五月日の前摂政一条実経家政所下文(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)金剛福こんごうふく寺供田畠一〇町五反の内訳を記して「以南村三崎村伍段」、建武二年(一三三五)四月七日の権少僧都心慶下知状(同文書)に同じく「同村内三崎新免六段」などとみえる。天正一八年(一五九〇)の三崎之村地検帳によれば検地面積九九町五反余、屋敷数一〇九、うち居屋敷七九。屋敷のうちには常光寺・泉蔵庵・正福寺・宗喜庵が含まれ、ほかに以南惣社天神(三間四方萱葺、天王一間四方檜皮葺)・曾我明神(一間四面板葺)辻堂がみえる。


三崎村
みさきむら

[現在地名]織田町三崎

織田と越前海岸を結ぶはま街道に沿い、東は織田村、西は四杉よつすぎ村。享禄元年(一五二八)一一月二八日付織田寺々庫収納田数帳(劔神社文書)に「劔太神宮寺真禅院分」として「参斗 三崎ニ在之」と記され、中世はつるぎ大明神領に含まれていた。天正五年(一五七七)柴田勝家の検地と考えられる越前国織田庄検地帳(北野家文書)に「三崎村分」がある。慶長三年(一五九八)七月日付越州三崎村御検地帳(同文書)によると田畠のほとんどは藤左衛門と源左衛門が独占し、「藤左衛門」「藤左衛門分」「藤左衛門分某」の三形式に分類される(源左衛門も同様)


三崎村
みさきむら

[現在地名]銚子市三崎町

辺田へだ村の南西に位置し、南は屏風びようぶヶ浦に面する。「和名抄」の海上うなかみ三前みさき郷、中世の三崎庄の遺称地であろう。明徳元年(一三九〇)七月四日の理慶寄進状(円福寺文書)に三崎庄本庄ほんじよう郷三崎村とみえ、同村の田一町七反六〇歩が理慶(海上公胤)から同郷内の飯沼いいぬま(現円福寺)に寄進されている。慶長一七年(一六一二)一〇月の検地帳(三崎区有文書)に海上郡三崎村とある。同一八年の木曾氏旧領書上(岩井家文書)では高六七六石余とある。寛永四年(一六二七)旗本松平領となり,年未詳の松平氏領書上(宮内家文書)では三崎村二四一石余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三三二石余で幕府領。宝永六年(一七〇九)上野高崎藩領となり、高三〇二石余のうち海高五石(沢井家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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