三木村(読み)みつぎむら

日本歴史地名大系 「三木村」の解説

三木村
みつぎむら

[現在地名]出石町三木

大谷おおたに村の西に位置し、集落国府こくふ道の南側山麓の谷間に発達。西は中郷なかのごう(現豊岡市)正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高五二五石余。元禄一〇年(一六九七)の高反別并諸色指出帳(三木区有文書)によると、高は「むかし高」として五三九石余、うち一七五石余は無地高で、今高は三六三石余、このうち田高三三一石余(二七町五反余)・屋敷五石余(四反)・麻畑一石余(一反余)・畑二五石余(二町七反余)であった。用水は鳥居とりい村堰で出石川から引いていた。村の北部に広がる田地は水所で、出水の時は「五七日も水逗留御座候、時分ニより、立毛実も入不申候」という有様であった。


三木村
みつぎむら

[現在地名]藤岡市三つ木

かぶら川が北境を北東流し、東は上落合かみおちあい村、南は白石しろいし村、西は多胡たご小串おぐし(現多野郡吉井町)と接する。村名は一説では中央部にあった平井ひらい城北面の外堡とされる三木城にちなみ、見付の転訛という。永禄六年(一五六三)武田信玄と北条氏との申合せによって安保氏に与えられた地に「三木村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。寛文郷帳では田方五四石二斗余・畑方二一八石一斗余、幕府領。元禄郷帳では旗本長崎領、以後同領として幕末に至る。宝暦二年(一七五二)領主長崎半左衛門が大坂目付となったために御用金を上州知行所六ヵ村に申付け、割当てに不満をもった当村は二ヵ村とともに訴えたが変更されず、翌年一月二三日に江戸屋敷に三ヵ村の多数が強訴におよんだ(「強訴一件詫証文」新井文書)


三木村
みつぎむら

[現在地名]大野町杉園すぎぞの 三ッ木

杉園村の西、あかね川北岸にある。字ひらにある天文八年(一五三九)二月二七日造立の六地蔵石幢銘に「大野庄下村之領内二木名」がみえ、この「二木名」はおそらく三木名のことであろう。正保郷帳に村名がみえ、田高一一四石余・畑高五七石余、藤北ふじきた郷に属する。旧高旧領取調帳では高一五六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android