三松村(読み)みつまつむら

日本歴史地名大系 「三松村」の解説

三松村
みつまつむら

[現在地名]高浜町東三松ひがしみつまつ西三松にしみつまつ

中津海なかつみ村の西に位置する。北は高浜湾に臨み、海岸に沿って丹後街道が通じる。村地は北東流する関屋せきや川を挟んで東三松と西三松に分れている。「若狭郡県志」に「三松村属青郷、去小浜六里許也」とある。村内の字名に細工保さいくほがあり、文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写にあお郷の内として出る「細工保三町三反三百五十歩」との関連が考えられる。


三松村
みつまつむら

[現在地名]貝塚市三ッ松

もり村の南にある南郡の村で木島きのしま谷五ヵ村の一。村域西部を近木こぎ川が流れ、森村から南進して当村を通る水間みずま街道と近木川の間に集落がある。南北朝時代、当村の南大蔵は南朝方につき、延元元年(一三三六)湊川の戦で楠木正成らとともに戦死したと伝える。南氏は近江出身で、平安末期から盛行した上皇の熊野御幸の歩役や、木島谷惣社稲荷明神の社役を勤めたりしたという(「伝言記」妙順寺蔵)。戦国時代には紀州根来ねごろ寺の勢力が入込んでいたとみられ、根来寺春長房は天文二二年(一五五三)一〇月に「木島三松北カイト」の畑二〇歩の作職を買得している(阿部文書)


三松村
みつまつむら

[現在地名]八尾町三ッ松

平沢ひらさわ村の南、仁歩にんぶ川上流域にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは切詰きりづめ村と合せて記される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では平沢村の枝村新田としてみえ、高九三石余。幕末の高一〇〇石で免三ツ七歩(古高免小物成銀等書上)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android