三沢城跡(読み)みざわじようあと

日本歴史地名大系 「三沢城跡」の解説

三沢城跡
みざわじようあと

[現在地名]仁多町鴨倉

要害ようがい(鴨倉山、四一八・五メートル)にあり、主郭を中心に主として北側と東側の尾根筋に大小一四段以上の郭をもつ多郭式の山城。西と南の両側は絶壁状をなし、南側の麓には阿井あい川が流れる。要害山は四周の山々に比べて低いにもかかわらず四方要衝をほとんど望める位置にある。現在わずかに石畳遺跡と濠跡が残るのみである。

一四世紀初頭に三沢郷地頭三沢氏が築いたという。


三沢城跡
みさわじようあと

[現在地名]白石市大鷹沢三沢 落合

谷津やつ川を北に見下ろす標高約一一〇メートルの小丘陵上、白石から丸森まるもり(現伊具郡丸森町)に出る街道を監視する位置にある。この街道は伊具いぐ耕野こうや(現丸森町)を経て阿武隈川河岸に出て伊達だて(現福島県)方面に出る間道であった。「古城書立之覚」に「三沢城」とあり、本丸二八八坪、二の丸一八〇坪で「右城主開基不相知三沢古城と申伝候得共、往昔泰衡郎従居城之所かと相疑申候」とあるが、当城の起源はほとんど不詳。正平七年(一三五二)三月一八日の相馬親胤宛吉良貞家軍勢催促状(相馬文書)に「今月十七日顕信卿没落三沢城、引籠小手保大波城間、差遣軍勢等所取巻也」とあり、北畠顕信宇津峯うつみね(現福島県郡山市・須賀川市)から出撃して多賀国府奪回を試みたが失敗し、中間拠点の三沢城を三月一七日放棄して小手おで大波おおなみ(現福島市)に籠城している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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